第四話 吉原の影
三浦屋の二階は、騒ぎがまだ収まっていなかった。
格子の外から見れば、いつもの吉原だ。提灯が赤く揺れ、三味線が甘く鳴り、遊女の笑い声が通りを埋め尽くしている。客は酒を飲み、灯の海は華やかだ。でも見世の中だけが、妙に静かだった。
俺は廊下の柱にもたれたまま、徳利を軽く振った。
「見世を開け続けるのか」
重俊が腕を組んで、顔をしかめる。
「見世だからな。客がいる限り止められぬ」
その横で宗冬は座敷に座ったまま、盃を指で回していた。
「吉原は強いのう」
殿は楽しそうに笑う。光太郎は廊下の奥をじっと見ていた。
「濁る」
「何がだ」
光太郎は短く言う。
「気配」
からん、と音がした。盃が廊下をゆっくり転がってくる。誰も触っていない。
重俊が顔をしかめる。
「……またか」
俺が拾おうとした瞬間、徳利が一本、座敷の中へ飛んできた。一直線に宗冬へ向かう。重俊が叫ぶ。
「殿!」
宗冬は動かない。伸ばした手で、ぱし、と徳利を掴んだ。中の酒が揺れる。殿はそのまま口元へ持っていく。一口。静かに飲んだ。
「……いい酒だ」
俺は思わず言った。
「今の状況でそれ言う?」
「殿、投げられた徳利ですぞ」
宗冬は徳利を軽く振る。
「まだ半分残っておる」
そしてまた飲んだ。俺は頭を掻く。
「殿は、幽霊より強ぇな」
廊下の奥で、女の声が上がる。
「きゃっ!」
遊女が髪を押さえている。
「引っ張られた!」
重俊が一歩下がる。肩が小さく震えていた。
「誰にだ」
遊女は首を振る。
「わからない。誰もいないから」
「いる」
俺は振り向く。
「どこだ」
光太郎は廊下の奥を指した。
「そこ」
だが誰もいない。
その瞬間。鏡台の鏡が、ばたりと床へ落ちた。遊女が悲鳴を上げる。
重俊が完全に固まる。背中を壁に押しつけて、顔が青ざめていた。
「章吉」
「なんだ」
「拙者は見ぬ」
俺は鏡を拾った。
「見ろよ」
「嫌だ」
光太郎が鏡を覗いた。しばらく見てから言う。
「入っている」
俺は眉をひそめる。
「何が」
「女」
廊下の奥の襖が、ゆっくり閉まった。風はない。それでも襖は閉じた。広間が静まり返る。宗冬だけが徳利を回していた。
「ほう。面白い」
殿は楽しそうに言う。光太郎が襖を見たまま言った。
「近い」
遊女たちは互いの顔を見合い、忘八は舌打ちを飲み込み、誰もが声を出すきっかけを失っている。
吉原という場所は本来、音と酒で出来ているはずなのに、その夜の三浦屋の中だけが、水の底みたいに重く静かだった。
俺は柱から体を離し、ゆっくり廊下の奥を見る。さっき閉まった襖は、もう動いていない。だがその向こう側に、誰かが立っていそうな気配だけが残っていた。
重俊が低く言う。声が少し震えていた。
「章吉」
「なんだ」
「拙者は、今のを見なかったことにしたい」
俺は肩をすくめた。
「便利な頭だな」
その横で宗冬は徳利を軽く振っている。中の酒が揺れる音が小さく鳴った。
「静かになったのう」
殿は面白そうに言った。
「幽霊が出る見世というのも、なかなか風流だ」
「殿、冗談ではございませぬ」
宗冬は盃を口元へ運ぶ。さっき飛んできた徳利の酒を、また一口飲んだ。
「良い酒だ」
「その感想、今じゃないだろ」
光太郎は笑わない。襖の方を見たまま、動かない。
「近い」
「今度はなんだ」
光太郎は廊下の奥を指した。
「女」
その瞬間、遊女の一人が声を上げた。
「ひっ……」
俺たちが振り向くと、座敷の鏡台の前で、女が震えていた。さっき落ちた鏡を拾い上げ、恐る恐る覗き込んでいる。
「また、いる……」
重俊が顔をしかめる。完全に壁に寄りかかり、肩が小さくなっていた。
「何が映っている」
遊女は答えない。ただ鏡を持つ手が震えている。俺は歩いて行き、鏡を覗いた。最初は俺の顔が映る。その後ろに重俊、光太郎、宗冬。
だが鏡の奥が妙に暗い。灯があるのに、そこだけ影が濃い。その影の端が、ふっと動いた。
俺は目を細める。
「……おい」
「拙者には言うな」
光太郎が鏡を覗いた。そして、短く言う。
「いる」
廊下の奥で、ばたん、と大きな音がした。襖が内側から叩かれたように揺れたのだ。遊女が悲鳴を上げる。忘八が怒鳴る。
「騒ぐな!」
だが声が震えていた。襖がもう一度揺れる。ばたん。ばたん。誰かが向こうから押しているようだった。
重俊が完全に壁に寄った。声が上ずる。
「章吉」
「なんだ」
「拙者は武士だ」
「知ってる」
「だがこれは苦手だ」
俺は笑った。
「正直だな」
襖が突然、開いた。ばしん、と音を立てて左右に割れる。だがそこには、誰もいない。ただ廊下の奥の行灯が、大きく揺れていた。
光太郎が前へ出る。ゆっくり廊下を見る。
「いる」
俺はその隣に立つ。
「どこだ」
光太郎は廊下の奥を指した。
「そこ」
俺も奥を見る。長い廊下の奥はいつも以上に暗い。だが灯の端。ほんの一瞬。白い顔が立っていた。こちらを見ている。
俺は思わず息を止めた。
「……いた」
重俊が震えた声で言う。完全に縮こまり、背中を壁に押しつけていた。
「どこだ」
俺は廊下を指す。
「あそこ」
「誰もおらぬ」
その横で光太郎が言った。
「違う」
俺は振り向く。光太郎は、静かに言う。
「来る」
その言葉の直後。廊下の行灯が一斉に揺れた。香の匂いの中に、濡れた水の臭いが混じる。
重俊が息を呑む。声が小さくなる。
「……章吉」
「なんだ」
「さっきより近い」
行灯の灯の奥。さっきの場所。誰もいない。だが、視線だけが残っている気がした。
光太郎が、ぽつりと言った。
「怒る」
宗冬は盃を置き、ゆっくり立ち上がる。そして楽しそうに言った。
「さて」
殿は廊下の奥を見る。
「そろそろ姿を見せる頃かのう」




