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第三話 揺れる灯

 三浦屋の二階で、最初に徳利を空にしたのは宗冬だった。

 殿は杯を置くと、徳利を軽く振って中を確かめる。


「もう無いか」


 俺は呆れた顔で言った。


「早すぎる」


 重俊が慌てて徳利を取り上げる。


「殿、少しは加減を」

「吉原に来て酒を惜しむのは野暮であろう」


 そう言って格子の外を見る。 提灯の灯が通りを赤く照らし、遊女の笑い声が上がっていた。

 殿は満足そうに頷く。


「良い夜だ」

「金払ってるの殿ですけどね」


 俺は畳に転がりながら言う。 宗冬は杯を回した。


「それがどうした?」


 重俊が額を押さえる。


「何でもございませぬ」


 その横で光太郎が柱を触っていた。 床柱を撫で、木目をじっと見ている。 俺は呆れた。


「お前、さっきからそればっかだな」


 光太郎は柱から手を離した。


「木が良い」

「お前は見世より柱を見ておるな」


 光太郎は格子窓へ歩いた。外を見下ろす。


「人が多い」


 俺も格子を覗く。 通りは客で埋まっていた。 提灯の灯、三味線の音、酒の匂い。


「夜だからな」


 そう言いながら屋台を見つける。


「……あれ旨そうだな」

「お前は本当にそればかりだな」


 重俊が振り向いた。 俺は格子に寄りかかる。


「腹は大事だ」


 光太郎が通りを見たまま言う。


「焼き鳥」

「なんで分かる」

「匂い」


 重俊が鼻をひくつかせる。


「……確かに鳥だな」


 俺は笑った。


「ほらな」


 宗冬が杯を置く。


「買うか」

「買いましょう」


 重俊が頭を抱える。


「仕事を忘れるな」


     ◇


 廊下で、からん、と小さな音がした。

 四人同時に振り向く。 徳利が一本、廊下をゆっくり転がっていた。

 宗冬が眉を上げる。


「誰か落としたか」


 俺は障子を開ける。 廊下には誰もいない。 徳利だけが、行灯の下で止まっていた。 俺は拾い上げる。


「まだ温い」


 重俊が後ろから覗く。


「運んでいた者が落としたのだろう」


 光太郎が廊下へ出てきた。 徳利ではなく、行灯を見ている。


「揺れている」


 俺も灯を見る。灯が小さく揺れていた。


「風だろ」


 重俊が首を振る。


「窓は閉まっている」


 下の階では三味線が鳴っていた。 だが突然、びん、と鋭い音が響く。 弦が切れた音だった。 続いて遊女の小さな悲鳴。

 重俊が肩を震わせる。


「今のは何だ」


 宗冬は徳利を振りながら、言う。


「弦が切れただけであろう」

「違う」


 光太郎は廊下の奥を見ていた。 俺は眉をひそめる。


「何がだ」

「匂う」


 その瞬間。 廊下の行灯が一つ、ふっと消えた。 灯の向こうが、黒く沈む。 香の匂いが急に濃くなった気がした。


 俺は徳利を廊下に置く。


「……誰か消したか?」


 重俊が首を振る。


「誰もおらぬ」


 宗冬は座敷の縁に肘を置いたまま、静かに廊下を眺めている。


「灯心が尽きただけではないか」


 その言葉を遮るように、びん、と鋭い音が響いた。 三味線の弦がまた切れた。 下の階で女の小さな悲鳴が上がる。

 俺は顔をしかめた。


「今日はよく切れるな」

「妙だ」


 重俊が腕を組む。 光太郎が廊下の奥を見ている。 動かない。


「匂う」

「何がだ」


 光太郎は少し考えた。


「水」


 重俊が鼻をひくつかせる。


「……確かに」


 湿った臭いだった。 川か、溝か、濡れた土の臭いに近い。 吉原の香の匂いとは、まるで違う。


 ころり、と何かが転がる。 盃だった。 誰も触っていないのに、廊下の奥から転がってきた。


 俺は目を細める。


「おい」


 重俊が一歩下がる。


「……風か」


 俺は廊下の奥を見る。 行灯の光が届かない場所が、暗く沈んでいる。 誰かが立っていそうな暗さだった。


 だが、誰もいない。

 下の階でまた悲鳴が上がった。


「きゃあ!」


 遊女の声だ。 続いて客の怒鳴り声。 ばたばたと足音が走る。

 俺は苦笑した。


「酔客だろ」


 重俊は頷いたが、顔は少し固かった。


「……そうであろう」


 その横で光太郎だけが動かない。 廊下の奥を見ている。


「近い」

「何がだ」


 俺は眉をひそめた。 光太郎は答えない。 ただ格子の方へ歩いた。

 外を見る。 提灯の灯。客。遊女。 いつもの吉原だった。 だが光太郎は小さく言う。


「濁っている」


 重俊が振り向く。


「何が」


 光太郎は通りを指した。


「灯」


 俺も格子から外を見た。 提灯が揺れている。 風はない。 それでも灯が揺れていた。

 その端。ほんの一瞬。 白いものが動いた気がした。

 俺は目を細める。


「……今」

「どうした」


 俺は通りを見る。 遊女が笑っている。 客が歩いている。

 何も変わらない。


「いや……」


 そう言いかけた時だった。 廊下の奥で、ばり、と音がした。 襖が揺れた。 俺と重俊が同時に振り向く。 宗冬だけが座ったまま杯を持ち上げる。


「騒がしいな」


 廊下の奥の行灯が、もう一つ消えた。 光が一段、遠ざかる。

 重俊が声を落とした。


「……章吉」

「なんだ」

「拙者は、何も見ておらぬ」

「安心しろ」


 廊下の奥から、すっと何かが横切る。 白いもの。 髪のような影。 俺は思わず目を見開いた。


「……いた」

「どこだ」


 俺は廊下を指す。


「あそこ」


 重俊が見る。何もない。


「誰もおらぬ」


 その横で光太郎が言った。


「いる」

「どこだ」


 光太郎は格子の外を見ていた。 提灯の灯の奥。 通りの端。そこを指す。


「そこ」


 俺はもう一度見た。 灯の外。 ほんの一瞬。 白い顔が見えた気がした。黒い髪。遊女の姿。 だが次の瞬間、もういない。 提灯だけが揺れていた。

 俺は小さく息を吐く。


「……気のせいか」

「違う」


 下の階で、また三味線の弦が切れた。 びん、と鋭い音が夜を裂く。

 光太郎が小さく言う。


「怒っている」

「誰がだ」


 光太郎は答えない。 ただ、提灯の灯の奥を見ていた。

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