第一話 夜の吉原
長屋の朝は、いつも通り騒がしかった。
菜を刻む音。かみさんたちの笑い声。
棒手振の売り声。
俺は戸口に腰を下ろし、ぬるい茶をすすった。目の前で重俊が腕を組んでいる。
「拙者は行かぬ」
「呼ばれてるんだぞ」
重俊は首を振る。
「だからこそだ」
「理由も聞いてないのに?」
「だからこそだ」
同じことを言った。
柱にもたれていた光太郎が口を開く。
「我も行かぬ」
「お前までか」
光太郎は通りを眺めたまま言う。
「理由を知らぬ。それは変だ」
俺は湯のみを置いた。
「殿だぞ」
「だから、おかしい」
光太郎がこちらを見る。俺はため息をついた。
「俺だって知らねぇよ」
重俊が言う。
「章吉」
「なんだ」
「お主だけ行けばよかろう」
俺は顔を上げた。
「俺一人で行けるか!」
井戸端のお米がこちらを見た。
俺は咳払いをする。
「だいたいな。なんで俺たちなんだ」
その時だった。
長屋の入口で煙が揺れた。
夢之介だった。
「殿様の呼び出しよ」
「だから嫌なんだ」
夢之介が煙管をくゆらす。
「嫌でも行きなさい。相手はあの柳生よ」
俺は黙る。
重俊がため息をついた。
「行くしかないか」
「人の世は忙しい」
光太郎が言う。
「殿は強いのか」
夢之介が笑う。
「強いわよ。怒らせると怖い」
煙管を鳴らす。
俺はぼそりと言う。
「もう知ってる」
夢之介が道を指した。
「ほら、行ってきなさい。帰ったら話を聞かせてなさい」
「土産はねぇぞ」
「命だけ持って帰りな」
俺たちは路地を出た。
◇
浅草の朝は騒がしい。
屋台の湯気。魚の匂い。人の声。
光太郎が周りを見る。
「人が多い」
「江戸だからな」
重俊が笑う。
「殿の屋敷は静かだぞ」
「それが一番嫌なんだ」
やがて大きな塀が見えた。
柳生屋敷。
俺は立ち止まる。
「……帰りたい」
「もう遅い」
光太郎が門を見上げた。
「大きい家だ」
「嫌な予感しかしない」
門番が潜戸を開く。
俺たちは中へ入った。
入るしかなかった。
◇
門をくぐると空気が変わった。
砂利の音だけが響く。
「やっぱり帰りたい」
「今さらだ」
光太郎が庭を見回す。
「広い家だ」
その時だった。
宗冬が廊下から歩いてきた。
「来たか」
「呼ばれましたから」
宗冬は小姓に言う。
「出せ。それと髪結を呼べ」
風呂敷が出された。中から着物。
町人の着物だ。
重俊が固まる。
「……殿」
「これは」
宗冬は短く言った。
「吉原へ行く」
「吉原?」
光太郎が首を傾げる。
「それは何だ」
「遊び場だ」
俺が答える。
光太郎は少し考える。
「なるほど」
まったく分かっていない顔だった。
重俊が腕を組む。
「拙者は武士だ」
宗冬が言う。
「だから脱げ」
重俊が黙る。
俺は着物を持ち上げた。
「殿」
「なんだ」
「賄賂ですね」
「そうだ」
宗冬は頷く。俺はため息をついた。
「断れねぇじゃないですか」
「その通り」
◇
屋敷を出る。浅草の通りは相変わらず騒がしい。
俺は宗冬を見る。
「殿」
「なんだ」
「なんで俺たちなんです」
宗冬は少し考えた。
「暇そうだった」
「それは否定できない」
重俊が笑う。
「殿の噂は――」
その瞬間。
「重俊」
宗冬が静かに言った。
空気が変わる。通りの犬が逃げる。
赤子が泣き出す。
重俊が肩を震わせる。
「出たな」
指を折る。
「飛ぶ鳥が落ちる」
俺が続ける。
「野菜が枯れる」
重俊が言う。
「子どもが泣く」
宗冬が振り向いた。
重俊が慌てて言う。
「拙者ではない」
「俺でもない」
「我でもない」
光太郎が宗冬を見る。
「……おかしい」
「何がだ」
「人の気配ではない」
「一応人だ」
「殿だ」
俺と重俊が同時に言う。
宗冬が咳払いをした。
「行くぞ」
通りの先に灯が見えた。
大きな門。昼のような明かり。
俺は足を止めた。
「……なんだあれ」
宗冬が言う。
「吉原大門だ」
灯が揺れる。
俺は門を見上げた。
胸の奥が、少しざわついた。




