第二話 邪気眼
夜の路地は静かだった。
浅草の大通りから一本入ると、人の気配は急に薄くなる。残るのは酒の匂いと、湿った風だけだ。
賭場の見回りを終え、俺は裏道を歩いていた。提灯は持たない。夜目が利く。
小路へ入ろうとして、足が止まった。
人がいる。
路地の奥。壁にもたれて男が立っていた。着流し、長い髪、遊び人の風体。だが妙に動かない。
俺は眉をひそめた。
――見覚えがある。
賭場の中だ。あの男はずっと、俺を見ていた。
いや。
俺の右目を見ていた。
俺は一歩近づく。
男がゆっくり顔を上げた。
「やっと見つけた」
俺は肩をすくめた。
「探してたのが俺なら、悪いが外れだ」
男は首を振る。
「違う」
視線が落ちる。
顔ではない。眼帯だ。
俺は指でそれを軽く叩いた。
「……これか?」
「それだ」
男は壁から背を離した。ゆっくり歩いてくる。
距離が詰まる。夜気が少し冷えた気がした。
「返してもらおう」
「人違いだ」
「間違いない」
「だから知らねぇって言ってる」
男は困ったように眉を寄せた。
「困った奴だ」
「困ってるのはこっちだ」
「ならば仕方ない」
男が小さく笑う。その笑いに、人の温度がなかった。
――この時点で気づくべきだった。
男の右手がゆっくり上がる。
袖の下で、何かが蠢いた。
「力尽くで返してもらう」
「……やっぱりそうなるか」
俺はため息をつき、刀の柄に手を置く。
その瞬間だった。
着流しの下で何かが動いた。布が内側から盛り上がる。
俺は目を細めた。
「おい、お前――」
着流しが裂けた。
黒い触手が飛び出す。
男の体が膨れ上がった。
赤黒い鞠のような体。そこから触手が何本も蠢いている。
俺は舌打ちした。
「……人じゃねぇな」
闇の中で、男が笑った。
「今ごろ気づいたか」
触手が伸びる。
真っ直ぐ俺の喉を狙ってくる。
俺は体をひねった。
触手が肩をかすめ、壁に叩きつけられる。
土壁が崩れた。
もう一本が足元から跳ね上がる。
「返せ。それは我のだ」
俺は刀を抜いた。
刃が夜気を切る。
触手を斬る。
落ちた触手は地面に転がり、黒い煙になって消えた。
俺は眉を上げた。
「便利な体だな」
触手が三本同時に襲ってくる。
右。左。背後。
俺は一歩踏み込んだ。
刃が走る。
二本落ちる。
三本目はどこだ。見失う。
背中が粟立つ。後ろだ。
体を沈めてかわす。
風が頬を掠める。
振り向きざまに斬る。
触手が煙になって消えた。
男がじっと見ている。
「ほう」
触手がまた伸びる。
「返せ」
今度は多い。
路地いっぱいに広がる。
俺は小さく息を吐いた。
「……面倒だな」
眼帯に手をかける。布をずらした。
右目が夜に開く。
青い光。
闇の中で、静かに滲んだ。
触手が止まった。
男の動きも止まる。
俺は踏み込んだ。
斬る。また斬る。
三本、四本、五本。
触手が次々落ちる。
路地に煙が広がった。
最後の触手を斬り落とす。
赤黒い塊が地面に転がる。
それきり、動かない。
俺は刀を下げた。
「終わりか」
「うるさい」
塊がゆっくり形を変える。人の姿に戻った。
小袖はぼろぼろだ。
男は膝をついたまま、俺の右目を見ている。
しばらく沈黙。
それから男は深くため息をついた。
「知らん」
俺は眉をひそめた。
「何がだ」
男は指を上げた。俺の目を指す。
「青い邪気眼など知らん」
「邪気眼だろ」
男――怪物は語気を強めた。
「違う。邪気眼は赤だ」
「……は?」
「赤か黒。邪の力だからな」
男は不機嫌そうに続けた。
「青や白は神や龍の色だ」
「神? 龍」
男は肩をすくめた。
「だから知らんと言っている」
俺はしばらく黙った。
「じゃあこれは何だ」
「知らん」
即答だった。
男は立ち上がる。
着物の埃を払った。
「我の目ではない」
「じゃあ帰れ」
男は歩き出した。
二歩進み、止まる。振り返る。
「邪気眼もどき」
「なんだ」
「それは邪気眼ではない」
男は俺の右目を指した。
それだけ言うと、闇の中へ消えた。
路地に静けさが戻る。
俺はしばらく立っていた。
夜風が通る。
眼帯を戻す。
「……邪気眼じゃないのか?」
小さく呟いた。
だが答える奴はいない。
夜の浅草は、また何事もなかったように静かだった。




