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第一話 武蔵野

 長屋の朝は静かだった。井戸の水を汲む音が響き、炊いた米の匂いが漂う。


 俺は縁側に腰を下ろし、湯呑みを傾けていた。

 庭では光太郎が木刀を振っている。乾いた音が、一定の間隔で空気を切った。夢之介が柱にもたれ、それを眺めている。しばらくして、ふっと笑った。


「章吉があんなに世話焼きとは思わなんだわぁ」

「……何の話だ」

「殿も驚いておられたわよ」


 俺は眉を寄せた。


「何をだ」

「泣きながら看病しておった……と」


 夢之介は肩を震わせた。俺の顔が固まる。


「お前、言うな!」


 夢之介は腹を抱えて笑い出だす。庭で木刀の音が止まる。光太郎が振り向いた。


「我は簡単に死なない」


 低い声だった。重俊が縁側の柱に背を預ける。


「いや、あれは死にかけておったぞ」


 光太郎は木刀を肩に担ぐ。


「本体ならあの程度どうということはない。人の体は本当に脆い」


 重俊の顔が引きつる。


「……」

「人の体は脆い、だってぇ!」


 夢之介がまた笑い出した。俺は湯呑みを置いて両手で頭を抱えた。


「笑ってる場合じゃねぇ」

「いや、だってねぇ、あの章吉が泣くのだもの」


 顔をしかめる。


「泣いてねぇ」

「宗冬様も見ておられたわよ」

「……最悪だ」


 庭で光太郎が木刀を振り直す。乾いた音がまた響いた。


     ◇


 しばらく沈黙が流れる。夢之介は笑い疲れて縁側に座り込んだ。光太郎は黙々と木刀を振っている。重俊は腕を組んで考えていた。やがて、小さく呟く。


「……章吉も泣くんだなぁ」

「おい」


 俺の動きが止まる。重俊は真顔だった。


「章吉もそうだけどさ。光太郎も優しい。それにも、少し驚いてな」


 夢之介が吹き出す。俺は両手で頭を抱えた。光太郎の木刀が止まる。不機嫌そうに眉が寄る。


「その話は終わりだ」


 光太郎がため息混じりに口を開く。


「優しくはない」

「何がだ」

「ただ、目障りなだけだ」

「目ぇ無いのにか」


 鼻で笑う俺を重俊は気味悪そうにみる。

 一瞬、空気が止まる。光太郎は何も言わない。木刀をもう一度振り始めた。

 乾いた音が庭に響く。


     ◇


「招かれざる客だ」


 戸が開いた。柳生宗冬が入ってくる。夢之介がすぐ立ち上がる。


「殿」


 宗冬は軽く頷いた。部屋を見渡し、光太郎の姿を見て一瞬だけ目を細める。


「動けるようになったか」

「問題ない」


 光太郎が少し頭を下げる。宗冬は畳に腰を下ろした。夢之介が茶を出す。


「粗茶です」

「それ、うちの茶だ」


 俺の苦情を無視して、宗冬は湯呑みを手に取る。


「江戸の外で騒ぎがある」

「どこだ」


 宗冬は茶を一口飲んだ。


「武蔵野」

「天領ですな」


 重俊が顔を上げる。宗冬は頷いた。


「子供が消える」


 部屋の空気が変わる。俺は眉を寄せる。


「神隠しか」

「わからぬ」


 宗冬は首を振った。夢之介が腕を組む。


「天領なら、代官所でしょ。何してるのよぉ〜」


 宗冬は湯呑みを置く。


「動いておらぬ」

「子供が消えてるんだろ」


 俺の言葉に、宗冬は静かに言う。


「証がない」


 重俊が低く言う。


「噂だけでは動けないか」


 宗冬は頷いた。


「だが放っておけば騒ぎになる」

「つまり」


 宗冬は俺たち三人を見た。


「見てきてほしい」


 その時だった。外の井戸端から女たちの声が聞こえた。


「聞いたかい?」

「また消えたんだって」

「森に呼ばれたってさ」


 宗冬がゆっくり外を見る。風が吹く。武蔵野の方角だった。


     ◇


 翌朝、俺たちは江戸を出た。町を抜けると道は急に静かになる。畑が広がり、ところどころに雑木林が立っていた。風が吹くたび、枯れ葉がざわりと揺れる。

 俺は歩きながら、周囲を見回した。


「江戸と違うな」

「人が少ない」


 光太郎は草を踏む。


「静かだ」


 風が強い。林の奥がざわざわと鳴っている。


 昼過ぎ、最初の村に着いた。畑の端に女が立っている。三人を見ると、不安そうに近づいてきた。

 俺が手を上げる。


「江戸から来た。子どもの事を聞かせてくれねぇか?」


 女は戸惑いながら頭を下げた。


「……あの子を返して」


 声が震えている。


「消えた子のことか」

「昨日の夕方」


 畑の向こうを指差した。


「森へ行ったきり戻りません」

「何をしに」


 重俊が首を傾げる。女は首を振った。


「分からない」


 俺は森を見る。奥は暗い。昼なのに中が見えない。

 三人は森の入口に立った。土の道の上に、小さな草履が落ちている。


「子供のか」

「片方だけだな」


 光太郎は草履を拾い、周囲を見回した。


「争った跡はない。走ってもいない」


 光太郎が草履を見ている。少しして口を開く。


「歩いて入った」


 森の奥から、風が吹いた。

 村へ戻ると、子供たちが集まっていた。一人の少年が俺を見上げる。

「おいらの兄ちゃんは」

「何だ」

「あそこに行った」


 少年は森の方を指差した。目を細める。


「誰とだ」

「ひとり」


 少年は首を振る。少し間を置く。


「でも、呼ばれた」


 俺は眉を寄せ、もう一度聞く。


「誰に」

「きれいな人」


 少年は小さく言った。光太郎と重俊が顔を見合わせる。

 ゆっくり立ち上がった。


 夕方、俺たちは村の外れにいた。森を見ている。奥は暗い。


「きれいな人、か」

「山女か、狐か」


 重俊が低く言う。俺は首を振った。


「まだ分からねぇ」


 光太郎が森を見ている。しばらくして口を開く。


「人ではない」

「分かるのか」


 光太郎は答えない。

 その時だった。後ろから声がした。


「そこへ入るな」


 振り向くと、老婆が立っていた。背が曲がり、杖をついている。


「何だ?」


 老婆は森を見る。


「奥に昔の村がある」

「村?」


 老婆は頷いた。


「今は誰も住んでおらん。だがな、夜になると灯りが見えんじゃよ」


 老婆は声を落とした。

 風が吹く。森の枝がざわりと揺れた。

 俺は森の奥を見た。暗い。だが、どこかに道が続いている気がした。

 光太郎が小さく言う。


「……呼んでいる」

「誰が?」


 光太郎は答えない。ただ森を見ていた。

 まるで、奥から誰かがこちらを見ているようだった。

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