第六話 優しさの代償
夜の日本橋は昼とは別の顔をしていた。店の戸は閉まり、通りには提灯の灯りだけが残る。川から湿った風が流れてくる。
俺と光太郎は料亭の向かいの路地に身を寄せていた。
「さっきの奴、笑いやがったな」
光太郎は動かない。
「構うな」
「構うだろ。舐められてる」
光太郎は答えない。そのまま川の方へ目を向けた。俺も目を細める。
闇の中に細長い影が浮かんでいた。猪牙舟だ。船頭が一人。櫂を持って待っている。舟の上には箱が積まれていた。
光太郎が小声で話す。
「移る」
「逃げる気か」
料亭の裏口が静かに開いた。
浪人が一人出てくる。続いてもう一人。大きな箱を抱えている。
さらに人影が現れる。箱を舟へ運ぶ。
灯りが一つ消える。また一つ消える。
店の奥が暗くなっていく。俺は小さく呟いた。
「店を畳むな」
「気づかれた」
「俺たちにか」
「違う」
光太郎は浪人たちを見ている。そのうちの一人が、ふと振り向いた。目が合う。浪人の顔が歪んだ。
「追っ手だ!」
叫び声だった。浪人たちが散る。通りへ走った。
「ちっ」
光太郎はもう動いていた。俺も後を追う。
この辺りの路地は狭い。浪人は三人。前を走る一人が街道へ飛び出した。
その先に人影がある。老爺だった。手を引かれているのは小さな子どもだ。
そこへ浪人がぶつかった。子どもが転ぶ。老爺が悲鳴をあげる。
浪人が舌打ちした。
「邪魔だ!」
刀が抜かれる。刃が提灯の灯りを受けて光った。俺は叫ぶ。
「待て!」
だが距離がある。間に合わない。歯を食いしばる。
光太郎の姿が文字通り消えた。
次の瞬間、浪人の背後にいた。
光太郎の手がひらめき、男の首に手刀が入る。
鈍い音。浪人の体が崩れる。首が妙な方向に曲がった。
そして――
光太郎の体が揺れた。膝が折れる。地面に倒れ込んだ。
全力で駆け寄る。
「光太郎!」
返事がない。肩を掴む。熱い。
「おい!」
光太郎の目は開いている。だが焦点が合っていない。息が荒い。
老爺が震える声で言う。
「た、助かった……」
子どもが泣き出す。
逃げていた浪人が叫ぶ。
「行くぞ!」
残りの浪人は川へ走った。死んだ男を残して、猪牙舟に飛び乗った。猪牙舟が離れる。闇の中へ消えた。
◇
だが、今はそれどころじゃない。
「おい、光太郎」
肩を揺らす。反応がない。
「起きろ」
息だけ荒い。胸の奥がざわつく。
「……冗談だろ」
担げない。光太郎の体は人よりかなり重い。
「くそ」
俺は通りを見回した。夜の日本橋はもう人がいない。通りの端に大八車が止まっているのが見えた。俺は光太郎の腕を引き上げる。
「悪いな」
体を引きずり、車まで運ぶ。光太郎を荷台に乗せた。
「くそ……」
取っ手を握る。歯を食いしばる。大八車を引く。
車輪がきしむ。夜の通りを進む。提灯の灯りが流れる。
「……死ぬなよ」
車輪の音だけが続いた。
◇
長屋に着いた頃には夜は更けていた。戸を蹴るように開け、光太郎を抱えて畳へ下ろす。
肩を揺さぶる。
「光太郎」
反応がない。呼吸はある。だが浅い。胸がざわつく。こんな光太郎を見たことがない。俺は拳を握る。
「……起きろよ」
静かな部屋に、光太郎の呼吸音だけが響く。俺は膝をついた。手が震える。
「……おい」
声が掠れる。俺は光太郎の肩を掴んだ。胸の奥が締め付けられる。
頭のどこかが冷えていく。俺はずっと知っている。人は死ぬ。仲間は消える。数えきれない程何度も見てきた。それが、当たり前だと思っていた。
だが――
手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。涙だった。自分でも気づいていなかった。
「……やっと見つけたのに。同じ奴を」
歯を食いしばる。
江戸の人間は好きだ。
だが違う。俺はずっと異物だった。
生まれ変わるたび、全部失ってきた。同じ時間を歩く奴なんて、一人も残らなかった。
だが光太郎は違う。あいつも、人ではない。やっと見つけた。同じ側の存在。
その手が、今は冷たい。
「……ふざけんな」
胸の奥が熱くなる。視界が揺れた。何かが弾ける。俺は思わず目を押さえた。
「……何だ」
光が滲む。青い光だ。俺は手を離す。眼帯を外す。畳の上に影が落ちている。光は俺の目からだった。
「……何だこれ」
初めてだ。こんなことは。光太郎の体に、青い光が触れる。光太郎の指が動いた。わずかに。
「……光太郎?」
光太郎の胸がゆっくり上下する。まぶたが震える。やがて、かすかに目が開いた。
「……もどき」
声は弱い。だが確かに光太郎だった。俺は息を吐く。力が抜ける。
「……馬鹿野郎」
涙がまた落ちた。光太郎はぼんやり天井を見ている。
「……動けない」
「動くな」
俺は肩を押さえる。
「死にかけてた」
「……やりすぎた」
光太郎は小さく息を吐いた。
その時だった。外で足音が止まる。戸が開いた。夢之介が顔を出す。
「章吉――」
言葉が止まる。
後ろからもう一人入ってきた。宗冬だった。宗冬は光太郎を見た。そして俺の目を見る。青い光が、まだ残っている。
宗冬は一瞬だけ目を細めた。それから静かに言った。
「……余の後始末か」
宗冬はただ静かに、俺たちを見ていた。




