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第三話 義賊の痕跡

 昼の長屋は、妙に静かだった。空に雲がゆっくり流れ、どこかで桶のぶつかる音がした。


 俺は縁側に腰を下ろし、湯呑みを揺らしていた。隣では光太郎が柱にもたれている。腕を組み、目を閉じていた。寝ているように見えるが違う。あいつはいつもあんな顔だ。

 畳の上では重俊が本を開いている。夢之介の例の本だ。

 俺はちらりと見る。


「まだ読んでるのか」

「読む」

「面白いのか」


 重俊はわずかに首を傾げた。


「腹が立つ」

「なんでだ」

「話が誇張されている」


 俺は笑う。


「江戸の本なんてそんなもんだ」


 その時だった。路地から軽やかな足音がした。戸がすっと開く。夢之介だった。長屋の差配は、相変わらず涼しい顔をしている。

 俺は湯呑みを置いた。


「どうした」


 夢之介は三人を一度だけ見た。


「殿がお呼びよ〜」


 部屋が静かになった。重俊の肩がぴくりと動く。光太郎は目を開けただけだった。俺は夢之介を見る。


「今すぐか」

「そうね、今すぐよ」

「断ったら?」


 夢之介は扇子をぱたぱた動かす。


「もう一度、呼ばれるわね」

「それも、断ったら?」

「もちろん三度目もあるわよ」


 俺はため息をついた。


「面倒だな」

「面倒では済まぬ」

「済ませるさ」


 光太郎が口を開く。


「どうする」


 俺は戸口を見る。夢之介はもういなかった。伝言だけ置いて帰ったらしい。俺は縁側から庭へ降りる。


「逃げるか」


 重俊が立ち上がる。


「逃げる?」

「呼ばれる前に消える」


 草履を履く。


「浅草を出る」

「賛成」


 光太郎が頷いた。重俊が少し考える。


「……拙者も行かぬ」

「決まりだな」


 三人で長屋を出た。路地を歩きながら、重俊がぼそっと呟いた。


「殿に会うより、幽霊の方がマシだぞ」


 俺と光太郎が同時に吹き出した。三人とも、逃げる理由が同じで笑ってしまう。


 昼の浅草は賑やかだった。見世物小屋の声。蕎麦屋の湯切りの音。人の流れが止まらない。


「浅草にいたら捕まるな」

「橋を渡るのか?」


 光太郎が問う。俺は笑った。


「深川か」

「なぜ深川」


 重俊が眉をひそめる。俺は指を一本立てる。


「飯」


 光太郎がちらりと見る。


「それだけか」

「十分だろ」


 橋が見えてきた。隅田川が昼の光を返している。舟がゆっくり流れていた。

 俺は橋の手前で止まる。背伸びをする。


「いい天気だ」

「逃げるにはいい日だ」


 その時だった。


「若様」


 後ろから声がした。重俊の足が止まる。俺と光太郎が振り向く。武家の男が二人立っていた。腰に刀。羽織の紋が光る。重俊の顔色が変わる。


「しまった」

「捕まったな」


 武家の男が一歩出る。


「お迎えに参りました」

「拙者は行かぬ」

「お父上がお待ちです」


 重俊が俺を見る。助けを求める顔だ。まるで子犬が助けを求めるような目で俺を見る。俺は肩をすくめた。


「家には勝てねぇよ」

「無理だ」


 光太郎も続ける。重俊はしばらく黙る。それから深く息を吐いた。


「……覚えておけ」

「何をだ」


 重俊が指をさす。


「必ず戻る」


 武家の男たちが腕を取る。重俊は抵抗しなかった。だが去り際に振り向く。


「逃げるな」

「善処する」


 重俊は連れて行かれた。

 橋の上に、俺と光太郎だけが残る。風が吹いた。俺は頭を掻く。


「行っちまったな」


 光太郎が川を見ている。俺は橋の向こうを見る。


     ◇


 深川の町が広がっていた。屋台の煙が立っている。俺は歩き出す。


「飯は二人分だな」

「そうだな」


 橋を渡る。途中で振り返る。重俊の姿はもう見えない。


 光太郎が首を傾げた。


「おかしい」

「何が」

「家の者が来るのが早い」

「武家の勘だろ」


 光太郎は黙った。


     ◇


 橋を渡ると、町の空気が変わった。酒と魚の匂いが混ざった風が流れる。人足が荷を担いで行き交う。舟の綱を引く声が響いていた。俺は鼻を鳴らす。


「やっぱ深川だな」


 光太郎は周囲を見ている。視線が町を細かく追っていた。屋台の並ぶ通りに入り、俺は暖簾をくぐる。

 小さな飯屋だ。地面は土。樽が卓の代わりになっている。客の半分は人足だ。酒の匂いと味噌の香りが混ざる。俺は腰を下ろした。


「深川飯、二つ」


 女が頷く。しばらくして椀が置かれた。湯気が立つ。貝の香りが広がった。俺は箸を割る。一口食べる。


「うまい」


 光太郎も黙って食べている。あいつは食う時ほとんど喋らない。店の奥で客が酒をあおっている。


「聞いたか」

「何だ」

「日本橋の義賊だ」


 俺は箸を止める。


「淀屋って大店おおだなの蔵を破ったらしい」

「それで金を配ったとか」


 別の客が笑う。


「気前のいい泥棒だな」


 店の中に笑いが広がる。俺は深川飯をかき込む。


「人気者だな」


 光太郎は椀を置いた。しばらく黙る。それから言う。


「奇妙だな」

「またそれか」


 俺は味噌汁をすする。光太郎は外を見ている。人足の声が通りを流れていく。


「広がりすぎている」

「噂だろ」


 俺は肩をすくめる。


「江戸だぞ」

「違う」


 光太郎は首を振った。それだけ言って黙る。店の外では荷車の軋む音がしている。深川の町は騒がしい。


 だが光太郎は、ずっと通りの向こうを見ていた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。


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