第一話 日本橋の噂
吉原の騒ぎから三日ほど経った。
長屋は、いつもの昼だった。井戸の滑車がきしむ音、桶の当たる音、子どもが路地を走り回る声が、狭い路地に響いている。
俺は縁側に寝転がり、空を見上げていた。体が重い。あんな夜を過ごしたあとだ。三日くらい怠けても罰は当たらないだろう。
縁側の横では、光太郎が腕を組んで座っている。ぴくりとも動かない。その奥の畳では、重俊が本を開いていた。だが頁は一枚も進んでいない。
俺は目を細めた。
「お前ら、やる気あるのか」
「ない」
「拙者はある」
重俊が本を見たまま言う。
「頁が動いてないぞ」
重俊が本を閉じた。
「気のせいだ」
その時だった。戸が勢いよく開いた。
「いつまで寝てるんだい!」
お米だった。俺はゆっくり体を起こした。
「まだ朝だろ」
お米が腕を組む。
「昼だよ」
俺は外を見る。井戸端では洗濯が始まっている。
「……昼だな」
重俊が背筋を伸ばした。
「申し訳ござらぬ」
お米は三人を順番に睨む。
「若い男が三人もいて昼まで寝てるなんて情けない!」
「吉原の後だぞ」
お米が鼻を鳴らす。
「その話なら聞いたよ」
重俊が顔を上げた。
「もう出たのか」
「出たとも」
お米は井戸端を顎で指す。
「差配の戯作」
俺は思わず笑った。
「早いな」
「……あの男らしい」
光太郎が低く言う。井戸端の女たちが騒いでいる。
「泣けるじゃない。心中するって騙されて遊女だけ死んじまって」
「男はのうのうと嫁とってさ」
「挙句に親の形見の簪まで盗っていったそうじゃないか」
「因果応報だって」
笑い声が広がる。俺は縁側に腰を下ろした。
「幽霊が本になるとはね」
光太郎がぽつりと言う。
「早い」
「江戸だぞ。こういう話は好きなんだ」
俺は肩をすくめた。
井戸端の声が変わった。
「それより聞いた?」
「日本橋の話」
俺は耳を向ける。
「義賊だって」
重俊が眉をひそめた。
「義賊?」
「大店から金を盗んで」
「貧乏人に配るんだってさ」
井戸端がどっと沸いた。俺は笑う。
「へえ」
立ち上がり、背伸びをした。
「気前がいいじゃないか」
「おかしい」
その横で光太郎が言う。俺は振り向く。
「何がだ」
光太郎は腕を組んだまま空を見る。少し考えた。
「……うまく言えん」
俺は笑った。
「またそれか」
井戸端は盛り上がっている。
「江戸の英雄だね」
「粋じゃないか」
俺は肩をすくめた。
「江戸は平和だ」
光太郎が言う。
「派手すぎる」
「何が」
「噂」
俺は笑う。
「噂なんてそんなもんだ」
「違う」
光太郎は首を振った。少し間を置く。
「広まり方が早すぎる」
俺は草履を掴んだ。
「考えすぎだ」
お米が叫ぶ。
「章吉!」
振り向く。お米が井戸の前で仁王立ちしている。
「いつまでだらだらしてるんだい」
「今から働く」
「どこへ」
俺は草履を履く。
「権蔵の賭場」
重俊が立ち上がった。
「拙者も参る」
「お前は来るな」
「なぜ止める」
「三男坊が賭場に出入りすれば」
光太郎が続ける。
「婿養子の口が遠のく」
重俊が真っ赤になる。
「拙者にそのような縁談などござらぬ!」
「念のためだ」
光太郎が頷く。重俊は腕を組んだ。
「化け物に世間体を説かれるとは……」
むっとした顔で部屋へ戻る。俺と光太郎は顔を見合わせた。それから長屋の路地へ出た。
◇
江戸の昼は賑やかだ。魚屋の声。橋へ急ぐ人の流れ。
俺は歩きながら言う。
「さて、働くか」
「賭場か」
光太郎は腕を組んだままだ。
「他に仕事があるか」
通りの向こうから声が聞こえた。
「日本橋の義賊だ」
「金を配るんだと」
「大店の蔵を破ったらしい」
町中、その話ばかりだ。俺は鼻で笑った。
「江戸は平和だな」
「違う」
「何が」
光太郎は日本橋の方を見る。
「誰かが流している」
俺は少しだけ足を止めた。だがすぐ歩き出す。
「考えすぎだ」
光太郎は答えない。
ただ、日本橋の方角を見ていた。その目は、どこか遠くを見ているようだった。




