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第六話 簪の約束

 俺は頭を掻く。


「重俊、武士だろ」

「幽霊は専門外だ」


 その横で光太郎が言った。


「食える」

「は?」


 光太郎は廊下を見たまま言う。


「我が食えば終わる」


 重俊が絶叫する。


「やめろ!」


 俺は思わず声を落とす。


「待て、それ出来るのか」

「できる」


 そして少し考える。


「本来の姿なら」


 俺は頭を抱える。


「ここでやる気か」


 光太郎は首を傾げる。


「できる」


 後ろから声がした。


「何を話しておる?」


 宗冬が腕を組んで立っていた。さっきまで座っていたはずなのに、いつの間にかすぐ後ろにいる。殿は廊下を一度だけ見た。


「幽霊か」


 俺は慌てて言う。


「その……」

「食う」


 重俊が悲鳴を上げる。


「やめろ!」


 宗冬は少し考える。


「なるほど」

「納得しないでください」


 殿は楽しそうに言う。


「面白そうだ」


 光太郎の小袖が膨らむ。小袖の下で何かが蠢く。布が内側から盛り上がる。


 重俊が急に静かになった。よく見ると壁に寄りかかったまま白目を剥いている。俺は思わず頭を抱えた。


 ◇


 廊下の奥から、軽い声がした。


「あら」


 煙管の煙の匂いが流れてくる。振袖の男が廊下の向こうに立っていた。

 夢之介だった。煙管をくゆらせながら、部屋を見回す。


「ずいぶん騒がしいじゃないの」


 そして懐から小さな物を取り出す。赤い珊瑚玉のかんざしだった。

 夢之介はそれを廊下へ向けて、静かに言った。


「其方はこれを探していたのだろう」


 その瞬間、夢之介の表情が変わった。いつものおどけた笑みが消え、真剣な目になる。


 白い影がゆっくり手を伸ばす。簪に触れた瞬間、揺れていた提灯の灯が、すっと静まった。

 廊下で転がっていた酒器も止まり、襖の裂けた紙片がゆっくり畳へ落ちる。さっきまでの騒ぎが、嘘のように消えていた。


 女は簪を胸に抱いたまま立っている。白い顔はまだ青白い。だがさっきまでの凄みは、もうない。


 夢之介は静かに頭を下げた。


「これで、いいでしょう」


 女は簪をそっと髪へ差した。その仕草は静かで、どこか懐かしい。

 光太郎が小さく言う。


「静か」

「さっきまで暴れてたのにな」


 宗冬が重俊に活を入れた。重俊は咳き込みながら、目を覚ます。重俊が震える声で言った。


「……終わったのか」


 女はゆっくりこちらを見た。黒い髪が肩へ流れる。遊女の姿だった。だがその顔は、もう怒っていない。

 女は一歩、こちらへ近づいた。畳の上に足音はない。だが確かに、そこに立っている。

 光太郎が小さく言う。


「匂う」

「まだ怒ってるのか?」

「違う」


 光太郎は首を振った。


「悲しい」


 女は俺の前で止まった。そして少し背伸びをする。俺の耳へ顔を寄せた。冷たい空気が頬を撫でる。

 小さな声が聞こえた。言葉はほとんど消えていた。だが意味だけは、不思議とはっきり分かった。

 俺は思わず目を瞬いた。


「……なるほどな」


 女は少し笑った。ほんの一瞬だった。次の瞬間、姿が薄れていく。提灯の灯の中へ溶けるように、静かに消えた。

 三浦屋は静まり返った。重俊がしばらく黙っていたが、やがて恐る恐る言う。


「……逝ったのか」


 俺は肩をすくめた。


「みたいだな」


 その横で宗冬が静かに言った。


「面白いものを見た」

「殿は面白いで済ませるのですか」


 宗冬は笑う。


「江戸は広い」


 夢之介が煙管をくわえたまま言う。


「広いけど、話はもっと広がるわね」

「何の話だ」


 夢之介はにやりと笑った。


「今夜の話よ」


 懐から紙を取り出す。


「白い遊女の幽霊」


 煙管で空をなぞる。


「簪を返すと成仏する。いい筋じゃない?」


 重俊が呆れる。


「まさか」


 夢之介は楽しそうに言った。


「戯作にするのよ」

「勝手に書くな」


 夢之介は、一瞬だけ鋭い目をした。


「ちょっとした仇討ちよ」


 煙管の煙がゆっくり上がる。そして夢之介は笑った。


「章吉」

「なんだ」

「その女、なんて言ったのかしら?」


 俺は少し考えた。それから肩をすくめる。


「内緒だ」


 夢之介は楽しそうに笑う。


「いいわ。それも書く」


 俺はため息をついた。三浦屋の灯は、もう揺れていなかった。

 だが通りの奥。ほんの一瞬だけ。白い影が、笑った気がした。

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