第五話 白い埋み火
廊下の行灯が揺れたまま、しばらく静まり返っていた。
三浦屋の中だけが、妙に息を潜めている。さっきまで騒いでいた遊女たちも声を落とし、忘八は怒鳴る代わりに小声で指示を出している。客の耳に入れぬよう、見世の騒ぎを押さえ込もうとしているのが丸わかりだった。
俺は格子のそばに立ち、外の通りを見下ろした。提灯の灯は相変わらず赤く揺れ、客は酒を飲み、遊女は笑っている。三浦屋の中だけが別の夜に沈んだみたいだった。
背後で重俊が小さく息を吐く。声が少し震えていた。
「章吉」
「なんだ」
「さっきの、確かに見たのか」
俺は振り返らずに答えた。
「白い顔」
重俊が顔をしかめる。完全に壁に寄りかかり、肩が小さくなっていた。
「拙者には見えぬ」
「いる」
俺は肩をすくめる。
「お前はずっとそれだな」
光太郎は廊下の奥を見ていた。行灯の灯が届かない暗がりを、じっと見つめている。
「近い」
その一言で、廊下の空気がまた重くなった。宗冬だけが変わらない。座敷の縁に腰を掛け、さっき掴んだ徳利を軽く振ると、残った酒を盃に注いだ。
「騒ぎは続くようだのう」
殿は楽しそうに言う。
「楽しそうですね」
「幽霊を見る機会など、そう多くはない」
そう言って殿は盃を一口飲む。重俊が頭を抱える。声が上ずっていた。
「殿……」
廊下の奥から、ぱたり、と音がした。皆が同時に顔を上げる。襖がゆっくり揺れていた。誰も触っていないのに、内側から押されるように、少しだけ開いた。
重俊が一歩下がる。完全に壁に張り付いて、顔が青ざめていた。
「……章吉」
「なんだ」
「拙者は今、非常に嫌な予感がする」
俺は笑った。
「今さらか」
その瞬間。襖の隙間から、何かが滑り出た。黒い髪だった。床を擦るように、長い髪が廊下へ流れ出る。遊女の一人が悲鳴を上げた。
「きゃあ!」
「騒ぐな!」
だが声が震えている。
髪は止まらない。襖の向こうから、まだ続いている。もちろん襖の向こうには、誰もいない。
重俊が完全に固まった。背中を壁に押しつけ、声が小さくなる。
「章吉」
「なんだ」
「拙者は見ぬ」
「もう遅い」
その時、髪がふっと消えた。何もなかったみたいに、廊下が静かになる。遊女たちが顔を見合わせる。忘八が舌打ちした。
「誰かの悪戯だ」
俺は鼻で笑う。
「その髪、どこに隠すんだ」
「まだいる」
「どこだ」
光太郎は部屋のすぐ前を指した。
「そこ」
俺も前の廊下を見た。ほんの一瞬。白い顔が立っていた。さっきより近い。
俺は思わず息を呑む。
「……来た」
重俊が震える声で言う。完全に縮こまり、膝を抱えて顔を伏せている。
「どこだ」
「あそこ」
光太郎が小さく言った。
「入る」
その言葉と同時に。
三浦屋の行灯が、一斉に揺れた。風はない。それでも灯が揺れ、影が廊下を長く這う。
香の匂いに混じって、さっきよりも濃い湿った臭いが漂いはじめた。川の水か、古い井戸の底か、そんな冷たい匂いだった。
重俊が小さく息を呑む。声が上ずる。
「……章吉」
「なんだ」
「拙者は、ここを出たい」
俺は苦笑する。
「今さら帰れるか」
その横で光太郎は動かない。格子の外を見たまま、短く言う。
「来る」
その瞬間。廊下の奥の行灯が、ふっと消えた。広間がざわめく。遊女の一人が後ずさる。
「また……」
「騒ぐな!」
だが声は空回りしていた。
廊下の奥から、ばりばり、と嫌な音が響いた。襖が裂けたのだ。真ん中から破れ、紙片が舞う。誰も触っていないのに、襖は内側から押されたように大きく開いた。遊女たちが悲鳴を上げる。
俺は思わず前へ出る。
「おい!」
だがそこには誰もいない。ただ、冷たい空気だけが流れ出てくる。
光太郎がぽつりと言う。
「怒る」
俺は振り向く。
「誰がだ」
「女」
俺はもう一度を見る。提灯の灯が揺れる通り。客が歩き、遊女が笑っている。
重俊が俺の袖を掴む。声が震えていた。
「章吉」
「なんだ」
「見えぬ」
俺は部屋の外を指す。
「あそこだ」
重俊が目を細める。だが首を振った。完全に縮こまり、壁に張り付いて動かない。
「誰もおらぬ」
その横で光太郎が言った。
「近い」
次の瞬間。
煙草盆が宙に浮いた。ふわりと持ち上がり、横へ飛ぶ。壁にぶつかる。ばき、と木が割れた。
隣の広間が騒然となる。
「誰だ!」
重俊が完全に壁へ張り付く。声が上ずり、顔が真っ青になっていた。
「章吉」
「なんだ」
「拙者はもう無理だ」




