第一話 長屋の朝
俺は何度も生まれ変わってきたが、江戸の長屋ほど騒がしい朝は他に知らない。
障子が勢いよく開いた。
「章吉、いつまで寝てるんだい!」
「……朝から元気だな、お米さん。昨夜は、親分とこの賭場で仕事してたんだよ」
布団の中で俺は眉をひそめた。眩しい日差しが差し込む。目をこすりながら、右目の眼帯を押さえる。
身体を起こしながらぼやくと、土間に立つお米が腕を組んだ。
「もう昼九つだよ。元気じゃなきゃ長屋なんて回らないよ。ほら、顔洗いな。飯は置いといたからね」
井戸の方から子どもの笑い声が聞こえる。鍋の音、桶を運ぶ足音。長屋はもうすっかり昼の騒ぎだ。
よくみると、米の方が少ない飯としじみの味噌汁が置いてある。
ありがたい。
俺が縁側に足を下ろしたときだった。
戸口からぬっと顔が現れた。重俊だった。
「起きたか?」
「勝手に入るな」
重俊は気にする様子もなく部屋に上がると、腕を組んで俺を見下ろした。背が高いので、どうしても威圧感がある。
「道場に遅れるぞ」
「まだ早いし、飯を食ってない」
「仕事か?」
「そうだ。まあ、親分とこの賭場は性質がいいから、楽だけどな」
俺は立ち上がり、帯を締めながら外へ出た。
井戸端で洗濯をしていた長屋の女が顔を上げる。
「章吉、目はどうだい」
「相変わらずだよ」
「いい医者に診てもらったほうがいいよ」
「そうだな」
軽く流す。
長屋の連中は皆、俺の右目が悪いと思っている。それで十分だった。
顔を拭き終えると、重俊が腕を組んで待っていた。
「飯はちゃんと食えよ」
「わかってるって」
「飯粒残すな」
「うるさい」
ゆっくり食べ終わると、茶碗を軽く洗ってお米に返した。
◇
門を出ると、昼どきの浅草はもう人がたくさんいる。行商の声、魚を運ぶ荷車、遠くで鐘が鳴った。
重俊が歩きながら言う。
「今日は稽古の後どうする」
「賭場だ」
「また用心棒か」
「仕事だからな。親分には世話になってるからな」
重俊はそれ以上は言わない。ただ歩調を合わせて歩く。
やがて柳生道場の門が見えた。
門をくぐったとき、奥から師範代の声が飛んだ。
「章吉」
俺は足を止めた。重俊が横目で見る。軽く頭をかくと、ゆっくり振り向いた。
「……はい?」
「殿がお呼びだ」
「えーーー、何の用か聞いてます?」
師範代は、額に手を当てる。
「用を言ったら、行かないんじゃないか? 稽古が終わったら、屋敷へ伺えよ」
「今日は仕事があるので、無理です」
師範代は深いため息をつく。
「なら、明日だ」
「親分には聞いてからなら」
「全く殿からの呼び出しを断るのはおまえくらいだぞ。明日は行くんだぞ」
黙って肩をすくめた。それから、道場の角で形稽古をする。
乾いた音が響く。昼からの稽古はすでに始まっていた。門弟たちの掛け声が揃う。
重俊の周りには、入門したての小さな子が集まる。重俊はどこへ行っても、子どもに好かれる。
俺のところには少ない。少し残念だ。
重俊が汗を拭いながら近づく。
「今日は早く帰るのか。そう言えば、昨日寺子屋を手伝ってな。少し懐があたたかい。一杯どうだ?」
「今日は無理って言ったろ。暇なら俺の代わりに殿の所いってくれるか?」
「間違ってもやだ」
俺は木刀を肩に乗せ、にやりと笑った。
重俊はそれ以上何も言わない。ただ頷いて、再び稽古に戻っていく。
俺は木刀を返すと、道場を後にした。日はだいぶ傾いていた。
◇
浅草の通りはもう人で溢れていた。
荷車が軋み、魚売りの声が飛ぶ。寺の鐘が遠くで鳴っている。浅草の夕方は騒がしい。
俺は屋台の前で足を止めた。
「親父、飯。菜は何がある?」
「おう、章吉か。鰯の煮つけと根深ねぎの味噌汁だ」
「鰯二尾、味噌汁と飯は大盛りで頼む」
皿には煮崩れた鰯。椀に盛られた雑穀飯と味噌汁が出てきた。
箸を動かしながら、ぼんやり通りを眺める。用心棒の仕事の前に腹を満たすのはいつものことだった。
食べ終えると、浅草の裏手へ向かう。
◇
権蔵親分の賭場は表からは見えない場所にある。
「親分、来ました」
「おう、章吉か」
奥で煙管をくゆらせていた権蔵が顔を上げる。
軽く頭を下げた。権蔵は煙を吐きながら顎で奥を示す。
「今日の客はどうかな?」
「ま、常連ばかりだな。ただ気になる野郎がいる」
「どんな?」
「玄庵に紹介された奴」
章吉は首を傾げた。
「玄庵? あの薮か?」
「あの先生も患者を選ばねぇからな」
玄庵は安い薬しか使わない。本気で治す薬は高い。庶民には払えない。
だから医者も安い薬を出すしかない。それで治らなければ薮呼ばわりだ。
気の毒な話だ。
「ああ。妙な男だ」
俺は賭場の奥へ視線を向けた。
◇
一人の男が座っていた。
派手な着流し。長い髪を後ろで結んでいる。博徒にしては妙に落ち着いている。
男はふと顔を上げた。目が合う。
その視線はまっすぐ、俺の右目の眼帯へ向いた。思わず眉をひそめる。
(なんだ、こいつ)
男はしばらく俺を見ていたが、やがて視線を外した。何事もなかったかのように、また賭場の札を眺めている。
肩をすくめた。ただの博徒だろう。
そう思って、賭場の柱にもたれた。
だが少しして、また視線を感じる。振り向くと、さっきの男がこちらを見ていた。
俺は小さく息を吐いた。
(……なんだ)
男は何も言わない。ただ静かに、俺の右目を見ている。
まるで――
何かを確かめるように。
俺は少しだけ、妙な気分になった。




