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話はきっと聞いてくれない(夫視点)


 馬車の扉が閉まる乾いた音が響いた。


 彼女は振り返らない。背筋を伸ばし、顎をわずかに上げ、まっすぐ前だけを見ている。出会った頃と同じ姿勢だった。


 家が傾いたのは、あの災害の年だった。


 記録に残るほどの大水で、領地の大半が流された。倉庫は崩れ、収穫は失われ、徴税の見込みも消えた。被害はそれだけでは済まない。混乱の中で疫病が広がり、父と母は相次いで倒れた。


 喪が明けるころには、家は形だけの当主と、多額の負債を抱えて残されていた。立て直すことはできなくないが、途方もない年月が必要だった。


 援助を求めることは、恥ではなかった。

 だが、容易でもなかった。


 古い家ほど、没落の匂いに敏感だ。

 手を差し伸べるのではなく、距離を置く。


 そんな中で提示されたのが、あの婚約だった。


 資金と商業的支援。

 代わりに、爵位取得を控えた商家の娘を妻として迎える。


 条件としては悪くない。

 むしろ、断れる立場ではなかった。


 婚約が動き出した。

 

 初めて会ったのは、まだ互いに若かった頃だ。貴族になったばかりの家の娘として紹介された彼女は、遠慮することもなく、むしろ楽しげに周囲を見渡していた。新しい世界に踏み込むことを恐れていなかった。


 婚約が決まったとき、彼女は誰よりも意気込んでいた。自分もまた、それに応えようと思っていた。時間をかければ、共に歩める関係になるはずだと。


 だが結婚式の日、隣に立つ彼女を見ながら、別の思いが胸に浮かんだ。


 ——このままずっと続くのか。


 期待ではない。ただ、変わらないものを前にしたときの、静かな諦めだった。


 貴族となってから、彼女は自分を抑えなくなった。


 顔立ちの整った男、名のある俳優、より高位の貴族。華やかなもののそばに自然と寄り、ためらいなく言葉を交わす。本人は社交のつもりなのだろう。


 最初は咎めた。軽率だ、誤解を招く、立場を考えろ。何度も同じことを伝えた。彼女は頷いた。そして、やめなかった。


 やがて彼女は、満足げに話すようになった。新しい知り合いができたことや、親しげに接してもらえたことを嬉しそうに語った。だがその裏で何が起きているのかを、知ろうとはしなかった。


 高位の夫人たちが向ける視線の意味も、穏やかな忠告の重さも、彼女の世界には届かない。


 いつからか正すことはやめた。理解させるより、守る方が現実的だったからだ。代わりに、常に誰かを側に置いた。自分が付き添うか、家門の夫人や令嬢に囲ませる。長居をさせず、危険な距離に近づけば自然な理由で場を離れさせる。


 問題は起きなかった。

 起きる前に避けられていた。

 彼女はそれに気づかなかった。



 子のことも避けては通れない。


 結婚して二年。彼女の父が医師を送り込んできたのも当然だった。娘に問題がないことを確かめたかったのだろう。


 医師たちは長く話を聞き、生活の様子を確認し、互いに顔を見合わせた。体に異常はない。生活にも問題はない。薬を盛られた様子もない。


 一見すれば、子が生まれない理由が見当たらない。


 だからこそ、医師たちは考えあぐねていた。彼女の語る生活の中に、説明のつかない違和感だけが残る。


 何も言わなかった。


 この家に、彼女の子は残せない。

 それは家としての判断であり、同時に、彼女が不用意に関わった先の家々の意向でもあった。


 診察の後、手を差し出した。彼女は当然のようにそれを取る。

 それ以上、医師たちの前に留めておく必要はなかった。



 彼女の父からの書状は増え続けた。


 最初は丁寧な言葉だった。次第に簡潔になり、最後には短い指示だけになった。身の程を弁えろ、夫の言葉を聞け、軽率な振る舞いを慎め——書かれていることはいつも同じだ。


 叱責でありながら、突き放したものではない。むしろ、繰り返すことでしか繋ぎ止められない焦りが滲んでいた。


 だが彼女に届いた様子はなかった。


 これほど気にかけられているのに、なぜ届かないのか。それだけが不思議だった。



馬車が動き出す。


思わず一歩、踏み出しかけた。

喉まで言葉が上がる。


呼び止めても、止まらないかもしれない。


それでも――


実家に戻れば、何が起きるか。

契約がすでに変わっていること。

彼女が拠り所にしているものは、もう残っていないこと。


それを、伝えるべきだったのか。


だが、足は止まり、声もまた、出なかった。


車輪の音だけが、遠ざかっていく。


出会ってから十年近く。結婚して三年。

長い時間だったが、終わりはあまりにも呆気なかった。


彼女は馬車に乗る前、契約のことを口にしていた。

だがその契約は、すでに彼女を介さない形に変わっている。

彼女はそれを知らないままだった。


彼女の家の資金は確かに役立った。

だが、それだけで立ち直ったわけではない。


彼女は、最後まで彼女のままだった。



数日が経って、彼女からの手紙が届いた。


封を切る。苦笑が漏れる。


――ああ。変わらない。


整った筆跡は、出会った頃と少しも違わない。


読み終え、静かに畳む。


返事は書かない。


代わりに、机の上の書状を手に取った。

宛名は彼女の父。


十年前。

家が傾き、援助を受け入れたあの日。

まだ何も知らず、共にあること疑わなかったあの日。


あの時間が、なかったとは言わない。


封蝋を落とす。


これで終わりだ。


彼女から届く文字も、

自分から送る言葉も。


十年という契約を静かに閉じた。


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