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そんな話は聞いておりません(妻視点)


 「当主様とは、いつもご一緒なのですね」


 社交の席で、何度も向けられてきた言葉だった。表面は微笑みながら、視線の奥には探るような色がある。扇の陰から交わされる目配せ、わずかな間、曖昧な微笑み。


 やがて会話は、近頃の子息や令嬢の様子へと移っていく。


 誰それの子が優秀だとか、婚約が整ったとか、初めての舞踏会がどうだったとか。新しく生まれた孫の話には、周囲が和やかに頷き、祝いの言葉が交わされた。


 私に向けられることはない。


 ただ、話題がひと区切りつくたび、何人かがこちらをちらりと見た。すぐに別の話題が差し込まれ、何事もなかったかのように会話は続く。


 誰も、何も言わない。


 それでも——

 まるで私に子がいないことを、静かに思い出させるための話題のように感じられた。


 「ええ。夫は、いつも私を大切にしてくださいますの」


 先ほどの問いにそう返したときも、相手は穏やかに頷くだけだった。踏み込んだ言葉は続かない。丁寧な態度は崩さず、しかしそれ以上近づいてくることもない。


 夫はそうした場でも常に私の隣にいた。紹介が必要な相手には自然に言葉を添え、会話が途切れれば別の話題を差し出す。宴が長引けば退席の機会を作り、私を一人にすることはない。


 親族の集まりでも同じだった。後継の話が遠回しに持ち出されると、彼は穏やかに受け流し、別の議論へ導く。声を荒げることはないが、それ以上続けさせない空気を作るのが上手かった。


 正妻として恥をかかされたことは、一度もない。


 だから私は、守られているのだと思っていた。


 医師の診察を受けた日のことを思い出す。夫の家が用意した医師に加え、実家が独自に名の知れた医師まで送り込んできた。そこまでしなくてもいいのに、と内心では思った。


 この家での暮らしは穏やかで、何の不自由もない。夫も使用人たちも礼を欠かさず、居心地はむしろ良いくらいだった。

この家が立ち直れたのは、両家の結びつきあってこそだ。その中心に私がいることは、動かしようのない事実だった。


 診察は長時間に及んだ。検査、問診、生活状況の確認、婚姻生活に問題がないかどうかの確認。原因を探すというより、細部まで確かめているように感じられた。


 そして出された結論は——異常なし。


 どちらにも問題は見当たらない。


 それなら、そのうち授かるだろう。


 私はそう受け止めた。医師たちが難しい顔をしていても、差し迫った問題には思えなかった。


 診察後、何か言葉があるのかと思ったが、彼は何も言わなかった。


 ただ、私の前に手を差し出した。


 促されるままその手を取ると、彼は静かに歩き出す。何も説明はない。けれど振り払う理由もなかった。

 そのまま私は部屋の外へ導かれた。


 扉が閉まる直前、室内に残された緊張の気配だけが、わずかに伝わってきた。


 指先に残る温もりに、胸の奥のわずかな不安がほどけていく。

 言葉よりも確かなものがそこにあった。


 実家からの手紙はその後も増え続けた。夫との相談、食事の見直し、生活習慣への助言。細かい指示が並ぶたび、ため息が出る。


 善意なのは分かっている。けれど言われるほど気が重くなる。遠くから管理されているようで落ち着かなかった。


 夫はそれについても何も尋ねない。手紙を読んでいる私を見かけても、ただ静かに通り過ぎる。詮索しないその距離感がありがたかった。


 三度目の春を迎えた頃だった。


 第二夫人。


 廊下の向こうから、その言葉が流れてきた。侍女同士の囁きが途切れず続いている。こちらの存在に気づいていないらしい。


 ——第二、夫人?


 胸の奥がひやりと冷えた。


 その単語自体は珍しくない。親族も家臣も実家も、必要性を口にしてきた。しかし夫が同意を示したことは一度もない。だから現実味を伴っていなかった。


 来客用の部屋が整え直されている。衣装室の一角が空き、侍女の配置も変わっている。庭の花も新しいものに入れ替えられていた。


 いつの間に。


 準備が進められていたのだ。

 私の知らないところで。


 その晩、夫から正式に告げられる。


 第二夫人を迎える、と。

 当主としての決定だと告げられた。


 一瞬、意味が理解できなかった。


 なぜ。

 どうして。


 胸の奥で何かが大きく揺れる。足元が不安定になるような感覚。喉が乾き、言葉が出ない。


 子を授かっていないことは分かっている。

 それでも、この家に他の女性を迎え入れることは許容できなかった。


 けれど取り乱すことはしなかった。ただ黙って頷いた。

 その場で何かを言うべきではないと、本能的に分かっていたからだ。


 しばらく何も考えられず、ただ座っていた。時間の感覚が曖昧になる。やがて、何かをしなければならないと思い至り、静かに立ち上がった。


 夜のうちに荷物をまとめ始める。侍女たちは戸惑っていたが、理由を問う者はいない。淡々と作業を続けるうちに、乱れていた思考が少しずつ整っていく。


 私がこの家に嫁いだのは、両家の取り決めによるもの。資金援助と引き換えに、私の子が継嗣となる。その条件で成り立っている結婚だったはずだ。


 第二夫人を迎えるというのなら、前提が崩れる。


 そう結論づけたとき、胸の奥のざわめきは静まっていた。


 夜が明けるころには準備は整った。


 馬車の前に立つと、夫が姿を現した。珍しく困惑を浮かべた顔をしている。


 「どこへ行くつもりだ」


 私は微笑んだ。


 「契約に反しておりますので」


 彼の表情が強張る。


 「この結婚において、第二夫人を迎えることは認められていなかったと記憶しております。少なくとも、私はそのような合意をした覚えはございません」


 声は穏やかなまま続ける。


 「家同士で正式に協議なさるのが筋でしょう」


 何かを言いかけた彼を振り切って、馬車に乗り込む。


 窓越しに屋敷を見つめた。

 ここは、私が守ってきた場所だ。


 車輪が回り始める。背筋を伸ばし、前を向く。


 ——私の立場が揺らぐはずがないのだから。

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