悪魔と魅魔による独身主義同盟の破綻
「他の魅魔ときたら、どいつもこいつも欲望に忠実で、だらしない私生活送りやがって……! 種族全体の品位を下げてるってのに、あいつら恥じるどころか、それを誇りに思ってるんですよ!? 信じらんない!」
桃井 清美。22歳、独身。種族、魅魔。
清美の美貌と種族のため、男たちの誘いは尽きることがない。
だが清美は、その真意を見抜くと――たとえ好意があろうとも、「下心がある」と断定し、あっさりと拒否してしまうタイプだ。
『魔界に純粋な恋なんて、どこにも存在しない』
そう確信し、恋愛すら捨て去った。呼吸をするだけで男を狂わす『天然の魔性』 でありながら、異性とは必要以上の関わりを持たない、筋金入りの独身主義者。
「そのせいであたしまで……ただ道を歩いてて、この尻尾がチラッと見えただけで、下心丸出しの連中がわらわら寄ってくるんです! もう、ほんっと、うんざりだあああ!」
清美が呷ったのは、『人喰い花』の果実酒だ。強い興奮作用を持つその酒のせいで頬を上気させた清美は、器用に動くその尻尾をぶんっと振ると、勢いよくテーブルの上へと投げ出した。
そしてスペードの形をしたその先端を指差し、目の前の男に見せつけるようにして、この尻尾がいかに自分へ災難をもたらしてきたかを、切々と、かつ激しく訴えるのだった。
「全くだ! 他の悪魔がどういう流儀でやってるかは知らないけどさ……少なくとも、僕のこの角を見ただけで、『冷酷非道』だの『金や魂に飢えた強欲な奴』だのって、勝手なレッテルを貼るのはやめてほしいよね!?」
阿久津 誠。25歳、独身。種族、悪魔。
過去に二度、交際経験があるが、いずれも一方的に破局される。
理由は、「悪魔なのに全く粗暴じゃなくて、嗜虐願望を満たせない」という理不尽なもの。
黒いくせ毛の奥に覗く真紅の双角。凶悪な目つきをした彼は、常に危険な色気を放っているが――どうやらその魅力は、特殊な性癖を持つ女性にしか刺さらないらしい。
魔法研究に没頭し、異性がいなくても問題ないと信じる、筋金入りの独身主義者。
「僕ら悪魔族が何より重んじる『契約の精神』……これはもっと評価されるべき美徳じゃないか?」
普段なら合コンなど絶対に参加しない二人だが、今日は友人たちに無理やり数合わせで連れて来られたのだ。
こうして魔王城の一角にあるレストランで開かれた5対5の合コンだったはずが、いつの間にかテーブルに残っているのは、すっかり出来上がったこの二人だけ。
他の連中が出て行ってから、もう一時間は経つだろうか。果たして本当に戻ってくるつもりなのか?
いや、そもそも――あの八人、自分の分の勘定を払っていないのだが?
「『いい歳して独り身の魅魔なんて、裏じゃ男遊びが激しいに決まってる』――ご近所さんが毎日そうやって噂してるの、聞こえてないと思ってるのかしら!? あたしの経営する錬金アトリエだってそうよ! 毎日毎日、『媚薬』はあるかだの、『夜の道具』は売ってないかだの……まともな客は来ないわけ!?」
清美はフォークを振り上げ、皿の上の太いソーセージにグサリと突き立てた。その勢いは、まるで何かを八つ裂きにしようとするかのような激しさだ。
彼女はそのままフォークを持ち上げると、ルージュなど引かずとも鮮やかな赤色を放つ、蠱惑的な双つの唇の間へとそれを運び込む。
そして、鬱憤を晴らすように丹念に噛み砕き、ごくりと喉を鳴らして飲み下した。
「ああ、わかるよ。僕だって、特殊な性癖を持たない――いわゆる『普通』の女性に声をかけても、開口一番『お断りします』だ。それに僕の専門は『召喚』魔法の研究だ。なのに親族どもは、借金返済のほうの『償還』と勘違いして、その魔法で取り立てに行かせようとする……訂正しても聞く耳持たずだ。少しは常識を弁えてほしいね」
誠は除菌シートで丁寧に指先を拭うと、親指と人差し指で『目玉の実』を摘み上げた。
軽く力を込め、ぷちゅりとその果実を押し潰す。あふれ出した体液のような果汁を、皿の上の焼き鳥へと回しかけた。
見た目が眼球そのものであるため、多くの者が忌避する食材だが――この独特な酸味は、焼き鳥の脂と絶妙にマッチするのだ。
そうして二人が、世間への恨み節を最高のスパイスにして、テーブルに残された料理をあらかた片付けた頃――
それまで店内に流れていた流行のポップスが、唐突にその曲調を変えた。音楽というよりは、もはや不協和音の遠吠えか、ノイズに近い。
魔界の飲食店では、閉店間際によく見られる演出だ。「長居する厄介な客よ、さっさと勘定を済ませて出ていけ」という、店側からの暗黙の――いや、かなり露骨な警告である。
仕方なく、誠は呼び出しベルを押し、店員を呼んで会計を頼んだ。
身につけている服も靴も、飾り気のない実用一点張りの品ばかり。その外見からは微塵も感じさせないが、誠の資産はかなり潤沢だ。
召喚魔法に関する特許を多数保有しており、それらが高い実用化効率を誇っているため、黙っていても莫大な魔貨が入ってくるのだ。
だが彼は、資産にもファッションにも装飾品にも一切興味がない。ただひたすらに、自身の研究に没頭していたいだけの男なのである。
そんな彼だから、当然の如く、逃げ出した八人の分も含めた十人分を、一括で支払うつもりだった。
悪魔として、受けた屈辱は百倍にして返す主義だ。だが、それは後日のタスクだ。それに、『紳士的な振る舞い』と『執念深い報復』が同居してはいけないなどという法はないだろう?
だが、清美がそれを遮った。「半額払う」と強硬に主張したのだ。
「勘違いしないでよ、あなたのためじゃないわ。あたしは誰かに――特に『男』なんかに、借りを作りたくないだけ。理解してちょうだい」
清美の瞳は地獄の業火の如く赤く燃えていたが、そこには冷ややかな光が宿っていた。見栄を張って会計を持ちたがる男など腐るほど見てきたが――目の前の男は少し、毛色が違うようだ。
「ああ、分かった。でも僕が提案を呑むのは、金が惜しいからじゃない。僕からの敬意に基づくものだ。理解してほしい」
「ええ、完全に理解したわ」
魔界の気温は高い。夏ともなれば尚更だ。夜の帳が下りても熱気は引かず、大抵の者は薄着一枚で事足りる。
にもかかわらず――レストランの出入り口には、季節感を完全に無視した、不審極まりない男女が二人立ち尽くしていた。
清美はサングラスにマスク、さらに尻尾のラインを隠すための重厚なロングコートという完全防備。
同様に、誠もまたサングラスとマスクに加え、頭部の角を隠すためのニット帽を目深に被っていた。
汗ばむほどの完全変装で、二人は吐き捨てるように呟く。
「合コンなんて、本当に愚かの極みね」
「同感だ。会ったばかりの相手とすぐベッドインだなんて理解に苦しむ。あいつらは性欲の化け物か?」
「ええ、本当よ。互いの中身も知らない関係なんて、恐怖以外のなにものでもないわ……それじゃ、阿久津さん。あたしはこっちだから失礼するわね」
魔力に満ちた種族である彼らは、『人喰い花の果実酒』で精神が高揚することはあっても、肉体の制御まで失うことはない。
千鳥足になることもなく明瞭な足取りで、清美はコートの裾を翻し、賃貸で借りている自身のアトリエの方角へと歩き出そうとする。
「あ、すまない。僕も同じ方向だ。桃井さんは、『尾割』界隈にお住まいで?」
「……ええ、そうよ。阿久津さんも?」
「左様。だが、もし桃井さんが不快に感じるなら、距離を取って歩くことにしよう。同行は控えるよ」
「それではまるで阿久津さんに恥をかかせるようで、寝覚めが悪いわ。男性にそこまで気を使わせるのは、あたしの流儀に反するの。それに、阿久津さんは紳士的だし、会話も楽しかった。……ご一緒しましょう」
「おっと、すまない。君の流儀を軽んじるつもりはなかったんだ」
「ええ、分かっているわ。気にしてない」
不審者極まりない二人は、並んで歩き始めた。
道すがら、二人が語り合ったのは「誰かが勝手に書き上げた『あるべき人生』のシナリオ」についてだった。
清美の両親は、彼女の美貌を武器に地方の有力者を篭絡し、パトロンにしようとした。無理やり会わされる相手ときたら、肥満体ならまだマシな方で、人型ですらない見るに堪えない怪物ばかり。それに嫌気が差した彼女は、自らの才能と努力で魔王城の大学へ進学。錬金術を主席で修め、小さなアトリエを構えるに至った。
一方、誠の実家は地元の顔役のような悪魔の一族だ。自由恋愛に失敗した彼に対し、実家は他の名家令嬢との見合いを画策。だが、悪魔の女たちはどいつもこいつも傲慢で、かつ救いようのないほど愚かだった。耐えかねた誠は実家を飛び出し、研究所近くに部屋を借りて暮らしているという。
「阿久津さん、あなたも苦労してるのね」
「お互い様さ。……はあ。何か、これら全てを一発で解決できる妙案はないものかな」
実家を離れて独り身を貫いていても、縁が切れたわけではない。防壁を築いたつもりでも、「お前のためを思って」という名の甘ったるい凶弾からは、完全に逃れられずにいたのだ。
奇妙な連帯感を覚えながら歩いていた二人が、偶然にも通りかかった建物。それは、二十四時間体制で開庁している魔王城の役所だった――主に婚姻届を受け付ける窓口が設置されているのだ。
その前で、どちらからともなく足が止まる。
「阿久津さん。それらの問題を一挙に解決する策があるわ」
「奇遇だな。僕も今、まったく同じ解法を思いついたところだ」
「資産の扱いは?」
「完全別会計。共有財産は一切なし。契約の解除については?」
「即時合意。異議申し立ては認めない」
「「結婚しましょう」」
二人の声が、完璧に重なった。
前代未聞のシンクロ率だった。
だが、二人はこれっぽっちも『運命』だの『相性』だのを信じてはいなかった。
多少なりとも『人喰い花の果実酒』の影響で思考のタガが外れていることは否めない。だが彼らは、自分たちがしているのは『極めて合理的な利益交換』であり、そこに恋愛感情など一ミリも介在していないと確信していた。
「もちろん、形式だけの結婚よ。互いの生活には干渉せず、書類の上だけで夫婦になる。……この提案、乗ってくれるかしら? 阿久津さん」
「異存はない。互いの生活領域は侵さず、必要な時だけ『都合のいい配偶者』として振る舞う。これが僕たちの契約婚だ。問題ないね、桃井さん」
「ええ、悪魔の契約精神を信じるわ。――やりましょう」
かくして、婚姻届は受理された。
この瞬間、桃井清美は、正式に『阿久津清美』へと名を変えたのである。
「では、あたしはこっちだから」
「僕はあちらの方向だ。家まで送る……などという真似はしないよ。互いの生活に干渉しない、というのが僕たちの契約だからね」
「ええ、その通り。それじゃあ、また会いましょう――『ダーリン』」
偶然は、そこまでだった。
最低限の連絡先交換を済ませ、晴れて夫婦となった二人は、役所の入り口前であっさりと背を向け合い、それぞれの帰路についたのである。
◇◇◇
桃井清美――いや、今はもう『阿久津清美』と呼ぶべきか。
『人喰い花の果実酒』の作用なのだろう。アトリエの二階、急ごしらえの屋根裏部屋に戻って最低限の身支度を済ませるや否や、彼女は吸い込まれるように眠りについた。
翌朝、彼女が目を覚ましたのは随分と早い時間だった。
もちろん、早起きが習慣というわけではない。魅魔という種族は本来、夜行性の生き物だ。その血のせいだろう、夜が深まるほど脳が冴え渡る彼女は、普段であれば午前三時まで夜更かしをして、正午頃に起き出すのが常だったからだ。
そんな彼女が早朝に覚醒した理由。それは就寝時間が早かったこともあるが――何より、自身の行いに戦慄して飛び起きたからである。
昨晩の出来事は、鮮明に脳裏へ焼き付いていた。
改めて己の行動を省みる。自分は悪魔と契約を交わしてしまったのだ。
契約を締結したあの瞬間こそ、至極理性的かつ合理的判断だと自負していた。だが、事実関係のみを客観的に抽出してみれば、出会って数時間の異性と『超スピード婚』をしたことに他ならないのではないか?
清美は寝台の上でごろりと寝返りを打つと、枕に顔をうずめた。あまりに軽率だった自分へのせめてもの罰として、このまま少し窒息してやろうか。
そんな思考が脳裏をよぎった矢先、昨晩は使い魔の黒兎に餌を与え損ねていたことを思い出し、結局のところ、彼女はのっそりと上体を起こすことにした。
「普段ならこんなに取り乱したりしないのに……。悪魔ってやつは、本当に人心を惑わす能力でもあるのかしら」
黒兎に餌をやる手を止め、清美は独りごちた。
確信は持てなかった。そもそも、彼女自身がなぜ他人からこれほどまでに魅力的に映るのか、困惑するばかりで理解できていないのだから。
もしかすると、これは種族としてのパッシブスキルなのかもしれない。可能ならば、オフにしたいほどだ。
けれど、それは相手にとっても同じことなのかもしれない。
昨夜の会話の中でも、彼は「悪魔のレッテル貼り」に辟易している様子だった。
桃色の長髪を魔法で手早く整えながら、今日の予定を思い返す。午後からは一階の店番をし、閉店後は錬金作業に取りかかる予定だ。外出する用もないため、今日は華やかで個性の強い錬金術師風の装いにしようと決めた。
せっかくの早起きだ。久しぶりに、まともな朝食でも『調理』するとしよう。
錬金術とは、実に摩訶不思議な技術である。
適切な食材を投入し、大釜で適切な火加減と正しい方向への撹拌を加えるだけで、完成された美味なる料理が自動的に飛び出してくるのだから。
指定のレシピに従い、清美はシフォンケーキを大量に作り上げた。
そのうちの一つは自らの腹に収め、残りは丁寧に包装してアイテムボックスへ。これらは午後の開店に合わせて、店頭の商品棚に並ぶ予定だ。
一連の作業が完了した、ちょうどその時。店先の来客を告げるベルが唐突に鳴り響いた。
「はーい!」
清美は黒兎を模したスリッパをぺたぺたと鳴らしながら、玄関へと向かう。
まだ随分と早い時間だ。客や配送業者が来るはずもないし、気心の知れた友人ならば、彼女の生活リズムを熟知しているため、こんな早朝に訪ねてくることはあり得ない。一体誰だろうか。
首を傾げながら扉を開けた清美の視界は、予想外の黒一色に覆われた。
夜が明けていないわけではない。単純に、相手が大きすぎたのだ。
戸惑いながら視線を上方へと巡らせると、黒い制服に身を包んだ巨漢――威圧感たっぷりの熊の獣人と目が合った。
二人組みの熊獣人の片割れが、見下ろすように警察手帳を突きつけてくる。
「桃井清美さんですね? 署までご同行願います。少々お聞きしたいことがありまして」
どういうことだろうか?
確かに魅魔という種族は、その性質上、魔界警察のお世話になることが珍しくない。だが、清美自身は法の番人に目をつけられるような真似をした覚えなど皆無だ。きっと、単なる事情聴取か何かに違いない。
そう結論付けた清美は、内心の動揺を抑えつつ「せめて少し地味な服に着替えさせてほしい」と申し出た。
しかし、そのささやかな願いは冷徹にも却下された。
結果として彼女は、個性的で派手な錬金術師の衣装に、足元は黒兎のスリッパというちぐはぐな装いのまま、護送車へと押し込まれる羽目になった。
清美はこのスリッパを非常に気に入っているのだ。それを外の土埃で汚されたことに、彼女は心の底から憤慨していたが、
通されたのは、殺風景な取調室だった。
所持品検査をされるわけでも、手錠をかけられるわけでもなかったが、こうした閉鎖空間に一人隔離されると、さすがに不安が募ってくる。
しばらくして、ガチャリと扉が開いた。入室して清美の対面に座ったのは、制服を着こんだ『街灯』の姿をした刑事だった。長い首の上で、頭部のランプが明滅している。
「あ……、失礼。桃井清美さん、ですね。そう緊張しないでください。ここへお呼びしたのは、いくつか事実確認をしたいことがありまして。ありのままを答えていただければ結構です。よろしいですね?」
「は、はい……」
「では桃井さん。昨夜の六時以降、あなたの正確な行動経路を教えていただけますか?」
(アリバイを聞かれている……?)
清美の脳裏に、昨晩の出来事がよぎる。
無理やり清美を合コンに参加させた友人は、結局レストランが閉店するまで戻ってこなかった。最終的な会計は、残された清美と阿久津の二人で済ませたのだ。
あれから、清美も連絡を入れていないが、向こうからも音沙汰がない。まさか、彼女の身に何か起きたのだろうか?
「昨夜の六時は、『恐都』のレストランで食事をしていました。九時に店を出て、それから……阿久津誠さんと一緒に徒歩で『尾割』の役所へ向かい、婚姻届を提出しました。その後は真っ直ぐアトリエに帰宅して、今までずっとそこに……。あの、刑事さん、何かあったのですか?」
街灯の刑事は、白手袋の手で顎――と思しきあたりをさすり、しばし思案した。
「まぁ、君なら話しても構わんでしょう。あなた方のアリバイは完璧ですしなぁ。
我々の元にね、昨晩あなたと接触した人物についてよからぬタレコミがあったんですよ。でもご安心を。あなた達が無関係だってことは確認済みです。
さっき旦那さんからも話を聞いたんですがね……いやはや! ディナーの席で彼が愛を告白、あなたがプロポーズをご快諾! そのままの足で役所へ行って入籍した――ってねぇ。
美男美女、実にお似合いのご夫婦だ! おじさんね、そんな幸せの絶頂にあるお二人を呼び立てちまって、心苦しい限りですよ! お詫びと言っちゃなんですが、署からお祝いの品を進呈しますんで!」
刑事は立ち上がり、大仰な仕草で清美のためにドアを開け放った。
「さあ、ご主人がロビーでお待ちですよ。早く行って差し上げなさい」
促されるまま席を立つ清美だったが、その内心は困惑で満たされていた。
なぜなら、刑事が語ったその『愛の物語』は、彼女の記憶とはまるで食い違っていたからだ。
上の空で刑事の後ろをついていく清美は、その手に手提げ袋を押し付けられ、そのまま署内のロビーへと連れて行かれた。そこには、昨晩『契約婚』を交わしたばかりの夫が待っていた。
昨晩とは打って変わり、今日の彼は清潔感のある洗練された装いだった。眼鏡をかけて凶悪な目つきを隠してみれば、身長も体格も、目鼻立ちや顔の輪郭に至るまで、モデル顔負けのレベルだ。昨晩と比べるとまるで別人のようで、よく見なければ誰だか分からないほどだった。
「やあ、清美。今日の君も素敵だね。……おっと、動かないで。肩に埃がついてる。取ってあげるよ」
誠の態度は、まるで新婚熱愛中のような甘い雰囲気を醸し出していた。顔を寄せられ、肩に手が触れると、清美の心臓がトクンと跳ねた。
(でも、これって契約違反じゃないの?)
そう思った瞬間、耳元で微かな囁き声がした。
「……とりあえず、話を合わせてくれ」
直後、誠は刑事に改めて向き直り、頭を下げた。
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけしました。それでは、私たちはこれで失礼します」
「ああ、気をつけてな。末永くお幸せに!」
誠はそのまま清美の手を握り、彼女を引くようにして警察署を出た。聞きたいことは山ほどあったが、誠は自分よりも状況を理解しているようだし、明らかに味方をしてくれている。だから大人しく従った。
警察署が完全に見えなくなるまで歩いて、ようやく誠は手を離した。
「申し訳ありません、清美さん。契約違反に近い真似をしてしまいましたが、あれが一番手っ取り早く問題を解決できる方法だと思ったものですから。……それでは、契約通りここで解散しましょう」
そう言い残して、誠は踵を返して立ち去ろうとする。
だが、男性に耳元で囁かれたのも、これほど長い時間手を握られたのも、清美にとっては恐らく初めての経験だった。それなのに、こうもあっさり立ち去られるのは納得がいかなかった。
それに、彼女はまだ状況を理解できていない。互いの生活には干渉しないという約束ではあるが、こちらの好奇心を少しも満たしてくれないというのは、あんまりではないか。
そこで清美は、背を向けて歩き出した誠の半袖シャツの裾を掴み、少し拗ねたような口調で言った。
「……どういうことか、説明してよ」
◇◇◇
「ごめん。僕も具体的に何が起きたのかは知らないんだ。早朝いきなり警察に呼び出されて、昨晩の出来事を尋問されただけでね。恐らく、一緒に合コンに参加していた他の八人の身に、何かあったんじゃないかと踏んでいる。だから勝手に、僕が君にプロポーズしたなんて筋書きをでっち上げたんだ。ああいうのは誰もが好んで信じたがる物語だし、実際そのおかげで早く解放されただろう? ……迷惑だったかな」
二人は近くにある魔界図書館の小会議室にいた。
ここは防音が完備されており、飲食サービスまでついている。とはいえ所詮は図書館だ。飲み物は淹れたてが出されるものの、専属のシェフがいるわけでもなく、フードメニューは全て冷凍食品を加熱しただけの代物だった。もっとも、清美も誠も食事の質には無頓着で、栄養摂取を単なるルーチンワークとしか捉えていないタイプだったから、特に気にする様子もない。
誠は手元の珈悲に、雌のミノタウロスの乳を原料としたミルクポーションを垂らし、さらに角砂糖を二つ放り込んだ。
――角砂糖の原料自体は変哲もない甜菜だが、その精製過程の濾過には、黒く焼き焦がした死者の骨が使われているという代物だ。
意外にも甘党らしい。悪魔という種族のイメージとはかけ離れたその嗜好に、清美は少しだけ驚いた。
もっとも、彼女自身も今どきの女子のようにミルクティーやスパークリングウォーターを選ぶような柄ではない。現に彼女が選んだのは、パスタの相棒に『髑髏レモネード』を合わせるという組み合わせだった。
グラスの縁には、カットレモンの代わりにミニサイズの髑髏がちょこんと飾られており、何とも可愛らしい。
「迷惑だなんて、そんなことはありません。あの刑事さんも事務的というか、簡単な質問が終わったらすぐに穏やかな態度になりましたし……。それより誠さん、他の方たちの情報はお持ちですか? 一緒に参加した友人と、昨夜から連絡がつかないんです。メッセージを送っても未読のままで……。警察沙汰になったことといい、もしかして彼女、危険な事件に巻き込まれたんじゃ!?」
「ああ、それなら心配ないよ。彼らも警察の事情聴取を受けていると聞いている。少なくとも命に別状はないはずだ」
「あ、なら良かったです……」
誠の態度は終始受け身だ。これまで異性に言い寄られ、相手が必死に話題を提供してくる状況に慣れきっていた清美は、勝手が違って戸惑ってしまう。次に何を話せばいいのか分からない。
もっとも、気になっていたことは全て聞けたし、契約に従うなら、これ以上無理に会話を続ける必要もないのだろうか?
いずれにせよ、彼に助けられたのは事実だ。きちんとお礼はすべきだろう。
清美は手持ちのアイテムボックスのことを思い出した。中には今朝錬成ってラッピングしたばかりのシフォンケーキがたくさん入っている。あれも甘い菓子だし、もしかしたらあの悪魔の口に合うかもしれない。
誠が食事を終えるのを見計らって、清美はアイテムボックスをテーブルに置いた。中からシフォンケーキを一つ取り出すと、すっと誠の前に差し出す。
「今日は本当にありがとうございました。これが今朝作ったシフォンケーキです。お口に合うかどうか分からないんですが……」
「あれは……アイテムボックスか? 清美さんは錬金術師なんだね。やはりあれも自分で作ったのか?」
予想外に、誠はシフォンケーキではなく、清美がテーブルに置いたアイテムボックスに興味を示した。それは正方形の箱のような形をしており、知育玩具であるルービックキューブとほぼ同じ大きさだ。
「はい。でも容量が小さく、製造コストも高いので、商品としては全く売れません」
「それでもすごいことだよ。アイテムボックスを作れるのは、トップクラスの錬金術師だけだと聞いている。重さを試してもいいかな?」
「はい、どうぞ」
清美はアイテムボックスを誠の方に差し出すと、小さく頷いた。
誠はアイテムボックスを手に取り、軽く上げ下げして重量を確かめた。
「軽い……これなら、もしかしたら……」
誠は胸元から丸く光る石を取り出してテーブルに置き、魔法を発動した。すると瞬く間に石は消え、全身が黒く小さな翼を持つ人形のような小さな生物が現れた。
それは小悪魔だった。魔界では非常によく見かける鳥類だ。ただし他の鳥とは違い、翼を持ちながらも道具を握ることのできる両手を備えている。
小悪魔は、自分の体とほぼ同じ大きさのアイテムボックスを両手で抱くと、翼をパタパタと羽ばたかせてその場から飛び上がり、空中に静止した。
「……すごいです! 誠さん、これは召喚魔法ですか?」
「ああ。だが一般的に知られている召喚魔法とは少し違う。僕の研究分野は、知性ある召喚物の制御――つまり死霊ではない生きた使い魔の使役と、その遠隔操作だ」
「確かにそうですね。どうして召喚魔法を使う人は皆、死霊術師と呼ばれるんでしょう? 今まで考えたこともありませんでした」
「結局のところ、過去のやり方は召喚魔法と呼べる代物じゃなかったんだ。単に物量に任せて大規模な暴走を引き起こすだけ。召喚されるのは知性のない失敗作ばかりで、制御もできず、ただ暴れさせるだけ……すまない、こんな話、退屈だったかな?」
「いいえ、全然! 召喚魔法の実態がそんなものだったなんて初めて知りました。とても興味深いです! ……ということは、誠さんがさっき思いついたのは、召喚魔法を使って小悪魔に小型アイテムボックスを運ばせれば、自動輸送が実現できるということですか?」
「っ! その通りだ。君のアイテムボックスが不人気な理由は、一度に運べる量が少なく、人間が使うには人件費の節約に繋がらないからだろう。だが小悪魔にアイテムボックスを持たせれば、空を飛んで輸送ができる。召喚物の制御可能範囲さえ十分に広ければ、アイテムボックスと召喚触媒のコストなんてすぐに回収できるはずだ。維持費も高くない。ただ、現在のボトルネックは、その制御範囲にあって……」
誠が空中で羽ばたく小悪魔に向けて人差し指を差し出すと、インプは従順にその小さな爪を指にとまらせた。誠はそのままインプをテーブルの上へと運ぶ。
インプは長い両腕で抱えていたアイテムボックスをテーブルに置いた。誠はそれを指先で滑らせ、清美の目の前へと押し戻す。
アイテムボックスを受け渡す際、二人の指先が不意に触れ合った。
だが、目の前の誠は微笑みを浮かべたまま、楽しそうに自身の専門分野について語り続けている。どうやら指が触れたことには全く気づいていないようだ。
胸の奥が早鐘を打つような、この感覚。一体どういうことなのだろうか。
とはいえ、誠の話す内容は確かに面白く、素人にも分かりやすいものだった。清美は自身の胸の高鳴りを意識の隅に追いやり、すぐにまた彼との会話に没頭していった。
「誠さん、他にも召喚触媒はお持ちですか? もしよかったら見せていただけませんか?」
「ああ、構わないよ」
誠は再び懐から、淡く発光する石を取り出した。
それはまさに、清美の専門分野である。
清美は可愛らしいネイルが施された細い指先でその魔石を摘み上げると、天井の明かりにかざすように顔を上げた。
その拍子に、彼女の白く無防備な首筋が露わになる。彼女は真剣な眼差しで、石をじっと見つめていた。
肌の露出なんてほとんどない服装のはずなのに、なぜかその仕草は誠の目にひどく魅力的に映った。艶めかしさすら感じるほどに。
「やっぱり……問題は召喚触媒、つまりこの魔石にあるのかもしれません。これは量産品ですね。加工が甘くて、素材本来の能力を完全に引き出せていません。誠さん、私が作った触媒を試してみませんか?」
「……あ、ああ。だが、それは契約違反にならないか? 錬金術師は自分のアトリエに住み込みだと聞いているし……」
「んー……それは問題ありません。だって私たちは今、商談をしているんですから! あくまでビジネスパートナーとしての関係です! それに私、自信があるんです。誠さんはきっと、私のお得意様になってくれるって。ちょうど、午後の開店時間ですし」
清美はここぞとばかりに、誠に対して、そして何より自分自身に対しても、完璧な言い訳を並べ立てた。
「それなら、お言葉に甘えようかな。……とはいえ、清美さんはまだスリッパ履きだ。タクシーを呼ぼう」
◇◇◇
「いやー、こないだはマジで災難だったぜ。まさか一週間もブタ箱行きになるとはな。やってらんねーよ」
研究所の給湯室。そこで一人の悪魔が、誠に向かって延々と愚痴を垂れ流していた。
彼は隣の研究室に所属する男で、専攻は元素魔法の『火』。本人曰く、その魔法は華麗かつ暴力的な美しさを秘めており、一族からの評価が高いだけでなく、女受けも抜群らしい。誠とは対極に位置する、恋人が途切れることのない手合いだ。
以前、誠を無理やり合コンに連れ出したのもこいつである。あの時の「会計押し付け逃亡」の件もそうだが、そもそも人生観そのものが誠とは水と油。正直、顔を合わせるのも忌々しい相手だった。
しかも今の誠は、先日手に入れた高品質な触媒のおかげで、召喚魔法の研究が飛躍的な進歩を遂げている真っ最中なのだ。
一分一秒でも惜しいため、手早くカップ麺で食事を済ませようとしただけなのに……運悪く、このやたらと馴れ馴れしい男に捕まってしまった。
そもそも、研究所で学位取得を目指せるような知的な悪魔は少数派だ。
鬱陶しい相手とはいえ、最低限の付き合いを保つため、誠も露骨に拒絶するわけにはいかない。彼は適当に相槌を打ちながら、早くこの会話を終わらせて、先ほどの研究への没入状態に戻りたいと切に願っていた。
「ま、そんなこたぁどうでもいいんだ。それより誠、お前やるじゃねーか。そっち系は淡白かと思ってたが、とんでもねえ隠し球持ってやがったな。あの『氷の魅魔』を落として、しかもスピード婚だと? 羨ましいこったぜ!」
「まあ……」
「くそっ! だがな、俺は結婚なんかしねえぞ。ほら、最近流行りのアレだよ。そう、独身主義! オープン・リレーションシップだ! 俺は筋金入りの独身主義者だからな!
結婚は人生の墓場、名言だぜ! 悪魔って種族は最高だよな。この角があるってだけで、卑しい女どもが群がってくる。そいつらを支配する快感ときたら、たまんねえよ。この楽しみを手放して、たった一人の誰かと結婚するなんて無理だ。そもそも、俺様に釣り合う女なんていねーだろ?」
(お前のは独身主義とは呼ばない。ただ自らの乱れた私生活に、もっともらしい言い訳をつけているだけだろう)
誠は心底からこの男を軽蔑していた。
独身主義を自らの乱れた私生活を正当化する言い訳に利用する姿を見ると、どうしても気分が悪くなった。
だが彼は自覚していた。魔界において、自分はまさに少数派であり、場合によっては唯一無二の存在かもしれない。絶対的な数で判断すれば、むしろこの男のような生き方が「正常」で、自分の方が「異端」なのかもしれない、と冷静に認識していた。
そもそもオープン・リレーションシップというのも、お互いの合意の上で成立するものだ。自分のように異性との親密な交際を意図的に避ける者と、この男のような者は、天使と悪魔、天界と魔界のように、お互いを見下し合っているのかもしれない。だが誠には、誰が正しくて誰が間違っているかを裁く興味はない。なにより、自分の価値観を他人に押し付けるなんて、もっとも無駄なことだと思っていた。
確かに結婚したとはいえ、誠と清美の「夫婦関係」は、あくまでもお互いの独身主義を徹底するための手段に過ぎなかった。この関係が、まさにこんな場で「盾」として役立つために存在するのだ。
「僕はやはり、安定した契約の方が悪魔には適していると思うんだよ。お前みたいに、たくさんの女と契約もない関係を続けてると、相当な精力が必要なんだろ?」
「ハハッ、そりゃあ確かに一種の学問みてーなもんだ。教えてやろうか? ていうかさ、俺の女と遊んでみるか? ほら、なんて言うんだっけ、スワッピング? こっちは妻じゃねえけど、選び放題だぜ。
その代わり、あのサキュバスも俺に貸せよ。あのデカい乳、想像するだけでたまんねえ。へへっ、彼女との初夜、さぞかし最高だったんだろうなぁ……」
その瞬間、誠の胸の内に、かつてないほどの暴虐な衝動が湧き上がった。
普段の誠は、悪魔でありながら滅多に怒りを露わにせず、立ち居振る舞いも常に紳士的であることを心がけている。だが今この時ばかりは、抑えきれない本能が理性を凌駕した。
誠は猛然と右手を突き出すと、相手の体を給湯室の壁へと叩きつけたのだ。
ドゴォッ!
鈍く重い音が狭い室内に響き渡り、衝撃で天井からパラパラと埃が舞い落ちる。
「……二度と、清美を侮辱するような口を利くな。さもなくば、貴様に『本物の悪魔』というものを教えてやる」
怒りに任せて吐き出されたその言葉には、凄まじい殺気が込められていた。普段は草食系男子そのものの誠からは想像もつかない、圧倒的な威圧感が周囲の空気を凍らせる。
やがて、誠はゆっくりと手を離した。男は肩についた埃を大げさに払いながら、悪態をついて立ち去っていく。
「チッ、なんだよ。つまんねー奴。死ねばいいのに」
男が去った後も、誠はしばらく給湯室に立ち尽くしていた。
沸騰した頭が冷えていくにつれ、ふと疑問が浮かんでくる。なぜ自分は、これほどまでに激昂してしまったのだろうか。
清美とは、あくまで「独身主義」を貫くための同盟を結び、形式上の契約結婚をしただけの関係だ。ただの利害が一致しただけのパートナーのために、あそこまで感情を露わにする必要があったのか?
自問自答してみても、合理的な答えは見つからない。
「あ……麺が、伸びきってるな」
視線を落とせば、湯を入れてから無駄に時間を費やしてしまったせいで、カップ麺は見るも無残に膨れ上がっていた。汁を吸ってブヨブヨになったそれは、今の誠の晴れない気分を象徴しているかのようだ。
誠は湧き上がる余計な思考を強引に打ち切り、諦めたように伸びきった麺を啜り始めた。
◇◇◇
「ふふ〜ん♪」
「清美ちゃーん、来たよぉ〜。……って、あら? なんかすごく機嫌良さそうじゃない。もしかして新婚さんだから?」
「あ、恵ちゃん。えっと……まあ、それもあるかな。ふふっ、実はね、最近すごくいい取引がまとまったの。おかげで当分はアトリエの家賃に悩まなくて済みそうなんだ。
……それより恵ちゃんこそ、なんだか元気ないみたいだけど、どうしたの?」
「もー、聞いてよ清美ぃ! 最近付き合い始めた悪魔の彼氏いたじゃない? あいつったら昨日、わけわかんない理由でアタシに怒鳴り散らしてきたのよ! もうサイッテーって思って、速攻で別れてやったわ!」
午後、アトリエの開店時間に合わせて、一人の客がやってきた。彼女は清美と同じ魅魔であり、学生時代からの友人でもある恵だ。
彼女とは大学時代の同級生なのだが、清美とは生き方がまるで違う。
彼女は在学中に当時の教授と交際し――具体的な経緯は謎に包まれているが――最終的には何一つ傷を負うことなく関係を清算し、それどころか莫大な手切れ金までせしめたという強者だ。
今はその資産を元手に、一切の労働から解放された生活を送っている。魅魔としての本能に忠実に、来る日も来る日も享楽に耽り、複数の男性と同時並行で関係を持つという、まさに放蕩三昧の日々だ。
正直なところ、その奔放すぎる生き方には賛同しかねる部分も多い。だが、彼女は清美にとってありがたい「上客」でもあるのだ。
彼女は頻繁に店を訪れては、清美が錬金術で精製したアクセサリーや化粧品を大量に購入してくれる。おかげで家賃の支払いがどれほど助けられているか分からない。
何より彼女は、清美の「種族」や「容姿」以上に、錬金術師としての「技術」を純粋に評価してくれる数少ない理解者の一人だった。
そういった事情もあり、清美は彼女とそこそこ良好な友人関係を築いているのである。
「それにしても意外だわー。アタシてっきり、清美はお店畳んで専業主婦になるもんだと思ってた。ねえねえ、旦那さんってどんな人なの? やっぱお金持ち?」
「えっと……あたしの旦那様は、とっても優秀な魔法研究員……なんだよ? 資産の方は……うーん、たぶん、一般的だと思うけど……」
「ええーっ!? 清美、あんた相手のことよく調べもしないで結婚したの!?」
恵は信じられないといった様子で目を丸くした。
「あのマコトって男、合コンの時もすっごい地味な格好してたじゃない。あれ絶対お金ないタイプだって! しかも悪魔でしょ!?
もう、悪魔って聞いただけでイライラしてくる! あいつらってホント意味不明だし、乱暴だし! ……まあ、そこが魅力って言えなくもないけどさぁ。
でもダメよ! 清美、あんた絶対その悪魔に騙されてるってば!」
「そ、そんなことないと思うよ? 彼は……ほかの悪魔とはちょっと違うっていうか……」
「男なんてみーんなそう言うのよ! 『俺は他の奴とは違う』だの、『体じゃなくて君のハートを見てる』だのって。そんなの全部ウソ! 大ウソだから!
結局のところ、男なんてみーんな女のカラダ目当てなの! 特別な男なんてこの世にいないの!
その悪魔が清美に言ったことだって、どうせ口当たりのいい甘い言葉に決まってるわ。清美は男と付き合った経験がないんだから、結婚する前に恋愛の大先輩であるアタシに相談すべきだったのよ!
あーもう、あの憎たらしい悪魔め! アタシが警察の厄介になってる隙に、ウチの清美に手を出すなんて……絶っ対に許さないんだから!」
その時、清美はふと自分の心の動きに違和感を覚えた。
誠との結婚は、あくまで「独身」を貫くための偽装工作――契約婚に過ぎないはずだ。
それなのに、今の自分はまるで本物の妻のように振る舞い、恵が誠を悪く言うことに不快感を抱き、必死に彼を庇おうとしている。
どうしてここまでムキになる必要があるのだろう? 恵が好き勝手なことを言おうと、本来なら聞き流せるはずなのに。
「はいはい、もう分かったから。私はちゃんと自分の頭で考えて、彼と結婚することに決めたの。……それで、恵ちゃん。今日は何を買いに来てくれたの?」
清美は小さく嘘をついた。
魅魔という種族は他人の色恋沙汰や感情の機微に聡いものだが、どうやら清美だけは例外らしい。
「はい、ウソ! 話題逸らそうとしても無駄よ。清美が何考えてるかなんて、アタシにはお見通しなんだから! どーせ、あの悪魔にいいように言いくるめられたんでしょ!
いい、清美? よく聞きなさい。女ってのはね、若いうちにその『カラダ』を武器にして、稼げるだけの富を稼いでおくべきなの。
確かに、若くて将来性のある男に投資するのも一つの手かもしれないけど、そんなの宝くじみたいなもんじゃない。不確定な未来に賭けるより、確実な『今』を掴むべきでしょ!
若いうちに稼いでおかないと、年取って誰にも相手にされなくなった時、手元にカネも残ってないなんて悲惨すぎるわよ!」
恵の主張は、あながち間違いとも言い切れない。それは清美の両親も幼い頃から説いてきた、魅魔としての「正道」そのものだ。
現に恵はその哲学を実践し、誰もが羨むような優雅で自由な生活を謳歌している。
「だからさ、そんなちっぽけなプライドなんてさっさと捨てちゃいなよ。あんな貧乏悪魔とは縁を切って、アタシみたいに賢く――」
だが、清美はどうしても自分の矜持や尊厳を「ちっぽけなもの」として切り捨てることができなかった。
妥協して、醜悪に太った金持ちの男に媚びを売り、ベッドの上で目を閉じてやり過ごせば、一生遊んで暮らせるだけの富が手に入るのかもしれない。
けれど、それを認めてしまえば、自分という存在が消えてしまう気がした。
「……もういいよ、恵ちゃん。それ以上言わないで。友達の恵ちゃんでも、これ以上言われたらあたし、怒るから」
「なによぉ……。人がせっかく親切にアドバイスしてあげたのに、可愛くないんだから! もう知らないっ!」
恵は結局何も買わず、清美に向かって「べーっ」と舌を出して見せると、閑散とした店から出て行ってしまった。
店内に静寂が戻る。
結局のところ、尊厳とは一体何なのだろうか。
そんなに大切なものなのだろうか。
その尊厳とやらを守るために、自分は多くのものを犠牲にしてきた。来る日も来る日も家賃の支払いに怯え、誰も来ない店で黙々と錬金術に打ち込み、それでも客足は伸びない。
自分の人生を振り返ると、なんだか無性に惨めになってきて、視界がじんわりと滲んだ。気づけば、ひと筋の涙が頬を伝っていた。
こんなに悩んで、苦しんで。
この孤独を、一体誰が理解してくれるというのだろう。誰に打ち明ければいいというのだろう。
カランカラン、と。
その時、来客を告げるドアベルの音が店内に響いた。
清美は慌てて指先で涙を拭うと、努めて明るい声を作り、入り口へと向き直る。
「いらっしゃいませ!」
◇◇◇
「このバカ息子がッ! ずっと音信不通だと思ったら、いきなり結婚しただと!? しかも相手はよりにもよって魅魔か!?
お前ならもっとマシな女がいくらでも選べただろうが! ふざけんじゃねえぞッ!」
賃貸アパートの壁は薄い。父の怒声はアパート中に響き渡っているんじゃないだろうか。誠はどこか他人事のように、ぼんやりとそんなことを考えていた。
清美との契約婚の件は、実家には一切報告していなかった。
というのも、もし知らせてしまえば、両親が血相を変えて飛んできて、今まさに展開されているこの修羅場が訪れることは、分かりきっていたからだ。
「お父さんが聞いてるでしょう、聞こえてないの!? 高貴なる悪魔の血筋だというのに……あなたは私たちを失望させてばかりね」
聞く耳を持たない相手に、弁明して何になるというのか。
自分はただ、己の欲望に忠実に生きているだけだ。ただその欲望のベクトルが、他の悪魔とは少し異なっているというだけ。
金銭への執着も、色欲への渇望も、権力への志向もない。ただひたすらに「自主独立」に対して貪欲であること。たったそれだけのことで、悪魔失格の烙印を押されるというのか。
誠はただ、この不毛な時間が一刻も早く過ぎ去り、研究所に戻って研究の続きができることだけを願っていた。
「ええい、もういい!」
業を煮やした父が、誠の顔面めがけて思い切り拳を振りかぶった。
血気盛んな悪魔族にしては、一発殴るだけで済ませようというのは随分と理性的だと言えるだろう。
誠はその拳に込められた不器用な親心のようなものを理解していたから、避けることもせず、ただ黙ってその衝撃を受け入れようとした。
――しかし。
拳が届くことはなかった。
怒りで顔を真っ赤に染め上げていた父は、誠の目の前で糸が切れたように崩れ落ち、気絶した。
「あなた! あなた、どうしたの!?」
半狂乱になる母とは対照的に、誠は冷静だった。瞬時に状況を分析し、すぐさま救急車を手配する。
◇◇◇
「すいませーん、阿久津誠さんいらっしゃいますか~? お届け物でーす!」
「おお、ご苦労さん、お嬢ちゃん。荷物はワシが預かっとくよ。……だが、阿久津先生なら今日は来てないぞ。なんでも親父さんが訪ねてきて、急に倒れたとかでな。今は付き添いで入院先に行ってるそうだ。研究所じゃその噂でもちきりだよ」
「ええっ、そんな大変なことがあったんですか!? おじさん、どこの病院か知ってますか?」
「この辺りで搬送されるなら、たぶん『逢魔総合病院』だろうな。すまんな、ワシはただの守衛だから、詳しいことまでは知らんのだ。
ただ、もうすぐ大事な審査会だろうに……心配なこった」
「そうですか。ありがとうございます、本人に聞いてみますね」
誠の父親が入院したなんて、清美にとっては初耳だった。
すぐに誠へ『何か手伝えることはありますか?』とメッセージを送ってみる。しかし、しばらく待っても既読がつかず、電話を鳴らしても応答はない。
誠との契約には『互いの生活に干渉しない』という条項がある。だが、今回はっぴきならない事態のようだ。もしかしたら、緊急の助けを必要としているかもしれない。
清美は直接、病院へ向かうことにした。
これは決しておかしな判断ではないはずだ。ビジネスパートナーの危機を助けるのは、社会人として当然の務めなのだから。
逢魔総合病院に到着しても、誠からの返信はなかった。
清美は総合受付で名前を告げた。『誠の妻』という身分を最大限に利用させてもらい、スムーズに病室への案内を受けることができた。
――そこで、清美はハッと気づいた。
これってつまり、名義上の『お義父様』と対面するということではないか?
当然ながら、向こうは自分たちが契約婚だなんて夢にも思っていないはずだ。となれば、彼の前では『良き妻』として振る舞わなければならない。
だが、魅魔といえば、『絶対に嫁にしてはいけないランキング』で不動の第一位を誇る種族だ。一体どんな態度を取られることか、想像するだけで胃が痛くなる。
しかし、事ここに至って退くわけにはいかなかった。誠は今、清美にとって最重要顧客なのだ。絶対に手放すわけにはいかない。
幸い、今日の服装は清楚で控えめなものを選んでいた。これならお見舞いの装いとして失礼には当たらないはずだ。
清美は意を決して病室のドアを開けた。
そこには、驚愕に目を見開いた二人の顔があった。
「君、どうしてここに……」
「ちょっと、誠! まさかこの女が例の魅魔なの!? この忌々しい女! あんたのせいで、お父さんは……ッ!」
「母さん! いい加減にしてくれ! 彼女は何も悪くない、責めるなら俺を責めろ! ……清美、すまない。ちょっと来てくれ」
歓迎されないだろうとは予想していた。だが、まさか一言も発する間もなく、指をさされて罵倒されるとまでは思っていなかった。
やり場のない悔しさを飲み込み、清美は大人しく誠に従って病室の外へ出た。
「本当にすまない。母の無礼を詫びる」
廊下に出るなり、誠は深々と頭を下げた。
「両親が結婚のことを聞きつけて、遠方から飛んできたんだ。それで父さんが俺に対して激昂して……脳出血で倒れてしまった。手術で一命は取り留めたし、意識が戻っただけでも奇跡だそうだが……どうやら半身に麻痺が残るらしい。母さんは気が動転して、君に八つ当たりをしているんだ。本当に申し訳ない……」
誠は、本当に変わった悪魔だ。
恵だけでなく、清美自身でさえも、悪魔という種族に対して偏見があることは否定できない。なぜなら、誠以外の悪魔がこれほど真摯に謝罪の言葉を口にするのを、清美は一度たりとも聞いたことがなかった。
「それじゃあ、私が来たのは……すごく不味かったんじゃ……。私はただ、あなたが助けを必要としてるかもしれないと思って……」
「そのお気持ちだけで十分だ。ありがとう。……親父はまだ予断を許さない状態でね、家族が二十四時間付きっ切りで看てなきゃならないんだ。でも、僕がついてるから大丈夫だよ」
誠の両親が、清美という『妻』に対して極端な不満を抱いているのは明らかだった。
誠はすべて自分の責任だと言い張るが、清美にはそうは思えなかった。
結婚は一人でするものじゃない。たとえそれが契約婚であったとしても、だ。
自分の軽率な――幼稚と言ってもいい判断が、誠の父親に一生残る障害を負わせてしまったのだ。その責任の少なくとも半分は、自分にあるはずだ。
それに、さっき研究所の守衛から聞いた話では、誠にはもうすぐ重要な『審査会』が控えているはずだ。父親の看病になど時間を割いている場合ではないはずなのに。
そのことを問い質すと、
「参加できないなら仕方ないさ。せいぜい、卒業が一年遅れるくらいのことだよ」
もし誠が本当にその選択をしてしまったら、自分の罪はさらに重くなる。清美はそう感じた。
「誠さん。『私は誰かに――特に男なんかに、借りを作りたくない』。……このポリシーについては、貴方も十分ご存知のはずでしょう?」
「え……?」
「ご両親が私をどう扱おうと、私は責任を持ってお父様の看病をします。ですから、貴方は審査会の準備に専念してください。
……そうしてくれないと、私が安心して眠れないんです」
◇◇◇
『清美。最近、良い縁談が見つかったんだ。相手は容姿端麗、教養もあって資産家だ。お前の条件にも合うだろう。向こうもお前の学歴を聞いて、大変興味を持っているそうだ。錬金術師ごっこなんていい加減にして、早く時間を作って帰ってきなさい』
さっき家族のグループチャットに送られてきたメッセージと、添付された見合い相手の写真を思い出し、大釜をかき混ぜていた清美は深く溜息をついた。
ここ最近、誠の父親の看病にかかりきりで、清美は心身ともに疲れ果てていた。
退院の日、杖をついた誠の父親は、去り際に一言だけ「すまない、この間は世話をかけた」と口にした。
それが本心からの言葉だったのかは分からない。報われたという実感も特になかった。ただ、ようやく肩の荷が下りたという安堵感だけがあった。
そんな矢先に実家の両親からこんな連絡が来て、気が滅入らないわけがない。
清美も誠と同じく、両親には結婚の事実を伏せたままだ。だから向こうはまだ何も知らない。
本来なら、誠との婚姻関係を盾にして、見合いの話をきっぱりと断るつもりだった。だが、誠の親があんなことになったのを見てしまった今、自分の両親に打ち明けたらどうなるか……想像するだに恐ろしい。
十中八九、激怒するだろう。一体どうすればいいのか。
看病のために何日もアトリエを閉めていたせいで、新製品のストックはゼロだ。これはアトリエの運営にとって致命的である。今は遅れを取り戻すために、必死で商品を補充するしかなかった。
疲労が蓄積していたせいか、それとも泣きっ面に蜂というやつか。
錬金術において、ほんの些細な手順のミスは、往々にして爆発事故を引き起こす。
――しまった。
そう気づいた瞬間、清美はとっさに防御結界を展開し、自分と黒兎を覆った。
だが、発生した爆風はあまりにも凄まじく、清美の身体は軽々と吹き飛ばされ――そこで意識が途絶えた。
◇◇◇
知らない天井。
清美は目を開けた。頭上から降り注ぐ照明が眩しくて、手で遮ろうとする。だが、持ち上げようとした手の甲には、点滴のチューブが繋がれていた。
「ここは……」
その時、不意に誰かの顔が視界に割り込んできた。
見慣れた、凶悪な目つきの顔だ。
「っ! 清美、気がついたか!? 僕が誰か分かるか?」
「誠……」
「よかった……! どこか痛むところはないか? ああ、すぐに医者を呼んでくる」
誠は医者を呼びに行こうと背を向けたが、清美はとっさにその袖を掴んで引き留めた。
脳裏に蘇るのは、最後の記憶――爆発の衝撃だ。状況を確認しなければならない。
「黒兎は無事なの? アトリエはどうなったの? ここはどこ?」
無意識のうちに優先順位をつけていたのだろう。清美は矢継ぎ早に問いかけた。
「黒兎なら、ここにいる」
誠がベッドの脇からケージを持ち上げて見せた。
「怪我はないよ。ただ、少し怖がっているみたいで、ずっと隅で丸まったままだ。このケージは病院が貸してくれた」
確かに、ケージの隅で黒い毛玉が震えているのが見えた。
「アトリエについては……不幸中の幸いと言うべきか、火事は起きなかった。建物の躯体も無事だ。だが、内部の惨状は……見るに堪えない有様だったよ。
ここは病院の救急病棟だ。事故からおよそ六時間が経過して、今は午前十時だ。搬送されてすぐに、俺に緊急連絡が入ったんだ」
以前、清美と連絡がつかなかったことがあったため、誠は通知音を分かりやすいものに変えていた。まさかこんな未明にそれが役に立つとは思わなかったが、誠にとっては不幸中の幸いだった。
安堵したのも束の間、目の前の清美がぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「ど、どうした? やっぱりどこか痛むのか?」
「ちが、違うの……アトリエの運営を続けるために頑張ってたのに、逆に壊してしまった……病院の治療費も、アトリエの賠償金も、私にはとても……」
爆発事故の後、アトリエを貸している大家による損害査定はすでに終わっていた。治療費も修繕費などの賠償金も、実は誠がすでに肩代わりしており、清美に返済を求めるつもりは毛頭なかった。
それは当然の報いだ。以前、清美が誠の父親を献身的に介護してくれた際、彼女は金銭的な報酬を一切受け取ろうとしなかったのだから。
だが、そのことをどうやって彼女に伝えればいいのだろうか。それは二人の間の契約に反することであり、何より「借りは作らない」という彼女の原則に明白に違反することだった。
「やっぱり……結局のところ、実力のある人だけが、夢を見る資格があるんだね」
清美はそう嘆いた。だが、誠には彼女の言わんとすることが痛いほど理解できた。
清美と出会う前、誠が魅魔という種族に対して色眼鏡をかけて見ていたことは否定できない。彼女が貫く「独身主義」は、この種族においては極めて異端であり、常識外れなのだ。
(ああ、僕たちは同じなんだ)
「夢なんかじゃない。清美さんは、僕が出会った中で最も優秀な錬金術師だ。もしよかったら教えてくれないか。一体何が、そこまで君を苦しめているんだ?」
(どうして……どうしてあなたは、こんなにも私の気持ちを分かってくれるの?
ああ、私たちは同じなんだわ。私と同じように、正当に評価されることを渇望している。
他人から「あの魅魔」「あの悪魔」と呼ばれるのではなく、「あの錬金術師」「あの魔法学者」と呼ばれたいと願っているのね)
この人なら、きっと分かってくれる。
一度さらけ出した心の弱さは、堰を切ったように溢れ出した。清美はどうしてか、自分の抱える苦悩を次々と吐露し始めた。
両親からの執拗なお見合いの強要。サキュバスとしての「正しい生き方」への圧力。親友・恵との冷え切った関係。重くのしかかる家賃。どれだけ努力しても錬金術師としての実力は認められず、商品も売れない現状。
清美の言葉は支離滅裂で、論理も破綻していた。
だが、誠にはその痛みが痛いほど理解できた。
「だから……誠さん、聞いてくれてありがとう。私、幼稚すぎたんだわ。もう大人にならなきゃ。現実を見なきゃいけないの。
前、契約の解除の話をしたとき、私言ったよね。『即時合意。異議申し立ては認めない』って。誠さんはすごくいい人で、一緒にいて楽しかったけど、もう離婚するべき時なの。実家に帰ってお見合いをして、お金持ちと結婚する」
その言葉を聞いた瞬間、誠の奥底でどす黒い衝動が鎌首をもたげた。
以前、あのクソ忌々しい火魔法の悪魔と対峙した時と同じ衝動だ。
悪魔の本能。
そして今、誠はその正体をはっきりと自覚した。
独占欲、あるいは――愛か?
誠は清美が離れていくことを許容しない。ましてや、他の男と見合いをするなど論外だ。もし彼女が他の男と結婚しようものなら、誠はその男を殺してでも清美を奪い取るだろう。
(やっぱり、俺は所詮悪魔なんだ)
ならば、悪魔らしく力尽くで、清美を完全に俺のものにしてやる。
「清美。お前は契約違反を犯した。当初の契約では、互いの生活には干渉しない約束だったはずだ。だがお前は、俺の生活にこれ以上ないほど深く踏み込んできた。
お前が事故で倒れて入院が必要になったせいで、俺は看病を余儀なくされたんだぞ。
お前だけじゃない。使い魔の黒兎まで俺の生活に侵入してきた。使い魔の不始末は主人の責任だ。お前が入院している間、あの黒い毛玉が俺の家に転がり込んできて、俺が面倒を見なきゃならなくなった。
お前が先に契約を破ったんだ。なら、同じ契約書にあった『いつでも離婚に同意する』という条項も、当然無効だ。
悪魔との契約を破った代償を知ってるか? 百倍返しが俺たちの流儀だ。
契約違反のペナルティを宣告する。俺たちの、あの役所に届け出た婚姻契約を破棄することは許さない。そして、俺がこれから買い取るアトリエで、俺のために、お前の錬金術師としての才能を存分に発揮してもらう」
◇◇◇
新居に引っ越した翌朝。
ベッドに寝転がったまま、誠と清美は互いの顔をまじまじと見つめ合っていた。
誠は心の中で思った。(やっぱり、こいつは魅魔だ)
清美もまた、心の中で思った。(やっぱり、この人は悪魔だわ)
一拍置いて、二人は同時に吹き出し、くすくすと笑い合った。
あれほど頑なに守ってきた独身主義が、目の前の相手の前ではあっけなく崩れ去ってしまったのだ。
もしかすると、自分が固執していたのは、そもそも独身主義なんて大層なものじゃなかったのかもしれない。
まあ、もうどうでもいいことだ。
さあ、早く起きなければ。まだ片付いていない荷物は山積みだし、準備しなければならないことも山ほどある。
そして何より――これから続く長い人生の道のりを、隣にいるこの人と共に歩んでいくのだから。
「なんて広いアトリエ……ちょっと清美、どうやって彼を落としたのよ! アタシにも教えなさいよ! くっそー、なんで最初に見抜けなかったんだろ! 今からでも間に合うかな? なんなら愛人枠でも構わないんだけど! どうですか誠さ〜ん」
アトリエへの記念すべき来客第一号は、恵だった。
「恵。彼に指一本でも触れたら、どうなるか分かってるわよね?」
「ひえっ、冗談よ冗談! そんなマジにならないでよ。よっ! 天才美少女錬金術師、清美サマ!」




