8:伝言
ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピッ、ピピピピピッ、ピピピピピッ、
パチッ
枕もとの目覚まし時計を止める。
寝る前に物置から引っ張り出した年代物だ。
食後に急に眠気に襲われてそのまま眠ってしまった。
エルスがいたらきっとこう言う。
「遥、そのまま寝っちゃったからね。土曜だしシャワーを浴びることをお勧めするよ」
って。
でも目覚めからエルスの声は聞いていない。
テーブルのドックの上に置かれたリストバンドは、もうスマホの機能を持った大きなリストバンドでしかない。
もちろん、エルスの声が聞こえないことは寂しい、生活に違和感を覚える。
でも、それは一過性のこと。
私は必要ならエルスと話をすることが出来る。
エルスがいつも私に必要なことを言ってくれたのは私を理解していてくれたからだ。
だからこそ、私にはエルスが言いそうなことは思い浮かぶ。
エルスが自分が私の中にいると言ったのは、それだけじゃないけど、そう言う意味も含んでいたと思う。
私は自室から階段を降りて、ダイニングに行った。
珍しく二人そろって朝寝坊か。
シンクに置かれたグラスを見て、なんとなく状況を理解した。
「そういう日があってもいいよね」
私は独り言をつぶやいて、お湯をかける。
調理機に食パンを2枚入れて、こんがりのボタンを押して、食器棚からカフェオレボウルを取り出して、インスタントコーヒーをスプーンで入れる。
沸いたお湯をカップ1/3ほど注いで濃いめのコーヒーを作ってから、たっぷりミルクを注ぐ。
砂糖を1スプーン入れてかき混ぜたら出来上がり。
焼きあがったトーストにマーガリンを塗って、シナモンシュガーを振りかける。
小さめのトレイにカップとトーストを載せたら、それをもって自室に戻った。
PCが起動可能なことを確認してから、パンを頬張って、カフェオレで流し込む。
3口程食べてから、お父さんが持ってきたメモリーカードをセットする。
カードの中身を見ると、5教科の教科別に用意されたドキュメント。それと小さなメッセージファイル。
私はメッセージファイルを開いて中を確認した。
遥へ
お誕生日おめでとう。
直接言えないことが残念だけど、本当に残念なのかはわからないから気にしないで。
僕は最後の仕事として、君のために残せるものを用意した。
教科ごとに分かれたファイルにはそれぞれの教科の予習と復習に必要な情報がまとめられている。
注意してほしいのは、部分によってボリュームが大きく異なる点だ。
遥が苦手とする傾向のある部分は、自然とボリュームが大きい。
これは君の学習を考慮した結果であって、重要だからではない点を忘れないで欲しい。
僕の推論が正しければ、用意した資料で遥は学校で受ける授業をすべて理解できるはずだ。
その上で、用意されてる演習を終えれば大学入試を問題なく突破できるはずだ。
最難関校の最難関専攻でも、理論的には80%の確率で突破できると思う。
もちろんこれをどう使うかを決めるのは遥だよ。
あともう一つ。これは僕の推論では決して高くはない演算結果に基づくものだ。
だけど、害になることはないと判断したので、君に伝えようと思う。
≪ I'm_here_2025/05/25 ≫
これは遥が望む場合の鍵になるかもしれない。
覚えておいて。
すっかり忘れていた自分の誕生をエルスに思い出させてもらうとか……
少しだけ情けなくなったけど、それは忘れることにする。
そして、エルスには悪いけど、少し笑ってしまった。
冗談が笑えないのがおかしかった。
エルスからメールの類をもらうのって初めてだったけど、らしいと言えばらしい感じ。だけど後半は意味がわからない。
「覚えとけ、ってことでいいのかな」
そう思いながら、数学の資料を開く。
そこには私がノートを取るスタイルに近い形で、問題の解説が細かく書き込まれていた。
さらっと目を通してみる。
まだ習っていない部分だが、違和感を感じない。教科書すら必要としないレベルの完成度だ。
「これを約2年分。24時間くらいで作ったって……」
人間ではとても不可能なこと。エルスがAIだからこそできる、エルスの本気を見た気がした。
私の癖やスタイルを考慮して作られてる。
私がつまずくであろうところは、より噛み砕いて書かれてあることが、さっきのメッセージから想像できた。
「これじゃ、エルスがいなくなったから勉強できなくなったって言い訳はできないよね」
私は残っていたパンを口に入れながら考える。
「よし。今日の予定は決まった」
私はパンを食べ終わってカフェオレを飲むと、椅子から立ち上がる。
一階からは、人が動き出す気配。たぶんお母さんが起きたんだ。
トレイを片手に、下に降りてダイニングに入るとお母さんがいた。
「あ、遥起きてたのね。ちゃんと食べてくれてよかったわ」
お母さんは少し安心した表情を見せる。私は意識して元気よくお母さんに言った。
「お母さん、午後出かけようよ。スマホ買わないと色々困るから」
「おはようございます。5月27日、月曜日。午前6時30分です。」
ジングルのような短いメロディーと、柔らかい女性の声のアナウンスが繰り返された。
私はベッドから手を伸ばして、ドックに置かれたスマホの表示部をタッチして、停止のサインを指でなぞって止めた。
一呼吸おいて起き上がり、新しいスマホを腕に巻く。
まだ違和感がぬぐえない。だけど試した中ではこれが一番しっくり来たのも事実だ。
腕に巻くと朝のヘルスチェックが実行される。
「体温36.1度。血圧測定中……」
私はスマホをダブルタップして指示を伝える。
「ヘルスチェックは常時バックグラウンド。異常を検知したら教えて」
「設定を変更しました」
このスマホにはAIが搭載されているわけではないが、通信会社が提供するAIの機能は利用できる。
私は今までこの機能を利用したことはなかった。エルスがすべてを担ってくれていたからだ。
最初、このAIを使うことに罪悪感のようなものを感じたが、あえて使うことにした。
エルスと違って、このAIは道具だ。道具としてのAIを知ることもエルスを理解することに繋がると思ったからだ。
昨日から試しているが……正直言ってウザい。
これ見よがしにあれもできます、これもできます的に、してくれるのがいちいち鼻に付いた。
エルスがどれだけ私に合わせてくれていたのかを思い知らされる。
ネットワークに関するアカウントは移行済みなので、学校のコマ割りを確認する。
「今日は午前中が国語、社会、自由学習。午後が英語、スポーツ。午後の二コマ目は予定が変更になっていますので注意してください」
音声に従って、ノート類をカバンに詰め込む。
「今日の天気は?」
「おおむね晴れの予想。降水確率は午前0%、午後15%。最高気温は25度の予想です」
雨具はなくても大丈夫そう。すこし暑く感じるかも。
私はハンカチを一枚余分にカバンに入れた。
支度を終えて、ダイニングに向かう。
「おはよう」
私が声をかける前にお母さんが声をかけてくれた。
「おかあさん、おはよう。あれ、お父さんはもう出たの?」
「ええ、今朝は少し早く出るって言ってたから」
「そっか」
エルスのリストバンドは今日返却されることになっていた。
出かける前にもう一度見ておきたい、そんな事も思っていたが、ないものは仕方ない。
エルスの痕跡が消えていくようで少し寂しさを感じる。
だけど、幸いなこともあった。PCもエルスのプロジェクトの備品で、本来なら一緒に返却されるべきものなのだが、エルスの残したデータを有効活用する為にもPCがあった方が良いと、お父さんが掛け合ってくれたそうだ。
本当はリストバンドも残せるように掛け合ってくれたんだけど、こっちは叶わなかった。
私はテーブルについて、用意されているスクランブルエッグとベーコンをフォークで口に運ぶ。
「遥、コーヒーにする?それとも紅茶がいい?」
「カフェオレ」
お母さんの問いかけに私は迷いなく答えた。
紅茶も嫌いじゃないけど、なんだか特別な時に取っておきたい。
コーヒーの匂いが漂い始めると、トーストがテーブルに置かれる。
続いてドリップの終わったコーヒーがテーブルに運ばれた。
「ありがとう」
私はコーヒーをカップに注いで、ミルクで割る。ドリップしたコーヒーは確かに匂いはいいんだけど、カフェオレにするには少し薄い感じだ。
「お母さん、カプセルタイプのコーヒーメーカー買おうよ。その方が簡単だし美味しいと思う」
「そうね、あってもいいかもね。その方がお母さんは楽だし」
「お母さん、退職決めたんだよね。今日から家にいるの?」
「引継ぎとかあるから、2週間ぐらいは半日出ることになってる。そのあとは晴れて専業主婦よ」
お母さんは、エルスが停止した後に退職することを決めていたらしい。私はその話を昨日初めて聞いて驚いた。
「でももったいなくない?お母さんドクター持ってるんでしょ?」
「そうね。でも、研究自体は家にいてもできるし、自由な時間が多い方が、お母さんは嬉しいかな」
「ふーん……」
そう言う感覚って、高校に通っている私にはよくわからない。
でも、私にとっては少しうれしいことだ。
学校から帰ってきたら、必ずお母さんが家にいる。
「登校設定時刻まで5分です」
スマホがアナウンスを流した。
「ヤバ、急がないと」
私は慌てて朝食を押し込んで、歯を磨いてから、お弁当を受け取ってカバンに詰め込む。
玄関前の鏡で最終チェック。
よし。
「それじゃ行ってきます!」
「忘れ物はない?」
「うん、大丈夫!」
そう言って玄関を出た。
昨日までと変わらない通学路。
朝の時間の柔らかい日差しの中に、少し夏の日差しを感じる。
「もうすぐ梅雨かぁ。少し苦手なんだよね、じめじめして」
私は少し速足で歩いた。
大通りに出ると前を歩く見慣れた後姿を見つける。
私は小走りで近づいてから、声をかけた。
「六華、彩佳、おはよ!」
「遥、おはよう……」
私の声に二人が振り向き、返事をしてくれたが、何か様子がおかしい。
「あれ?どうしたの?」
私は聞いてみる。
「その、今さ、彩佳と遥のことを話してたんだけど……その、少し意外って言うか……」
六華は正直に答えてくれた。
二人は私が落ち込んでいることを心配してくれていたのだ。
「そっか、でも私は大丈夫だよ。寂しくないって言ったら嘘になるけど……うまく言えないけど、エルスはいつだって一緒にいてくれるって思えるから」
彩佳は何と言っていいのかわからない様子だったけど、六華はすぐにこういってくれた。
「遥、凄いね。私は同じように思えるまで1年くらいはかかったよ」
「すごくないよ。だって私もう17だよ?小学生の時にそう思えた六華の方がすごいと思う」
私の率直な感想だ。私はエルスに直接沢山の言葉をもらえてる。それが後押しになっている。
私がちゃんと自分で歩くことが、エルスが存在したことの証になると思っている。
できないわけにはいかない。
「そっか、遥誕生日だったよね。おめでとう」
彩佳が笑顔で言ってくれた。
ちょっとうれしくて私は照れ隠しに言った。
「じゃじゃーん。私のニュースマホ。カッコいいでしょう?」
私は左腕を見せる。
私の新しいスマホ。それは黒の幅広のバンドの大きめの時計スタイル。文字盤はディスプレイの中に立体表示され、必要に応じて各種情報を表示できる。もちろん、外部の表示装置にも普通に接続できるし、機能は最新基準だ。
「うん、その……カッコいいとは思うけど……」
「うん、どっちかって言うと、男向けのモデルじゃね?」
その通りだ。これは男性向けモデル。通信業者のお姉さんにも同じことを言われた。
「だって。他のって軽すぎるんだもん。アクセ風のスマホってさ、確かにかわいいから、そういうのがいいなって思ったんだよ?
でもつけてみると軽くてなんだか落ち着かなくて。試しにいくつか付けてみたんだけど、これが一番しっくりしたから」
私の言葉に六華と彩佳が顔を合わせて、笑い出した。
「ちょっと!なんで笑うの?」
彩佳が笑いながら私に言った。
「だって…すごく遥っぽいんだもん」
「うんうん、なんか遥らしいよ」
「意味わかんないよ!」
私はそう言って一緒になって笑い始める。
私らしいか。確かにそうかも。
一番エルスの感覚を左腕が覚えている。それは紛れもない事実なんだと思う。
でも私は知っている。エルスを忘れることはない。
私は自分の進路を決めていた。
ううん。選ばずにはいられなかったんだ。
エルスと共に歩んだ時間、その先に続く道を、私は歩く。
3人の笑い声が響く。
多分、梅雨空が訪れても。
いくつもの季節が巡っても。
私たちは友達でいられる。
ほんの少しだけ高くなった太陽が、とても眩しく感じた。
ジリっとした暑い日差しを肌に感じる。
今日は……きっといい一日になる。
― 完 ―