7:両親
涙が止まらない。
いつまで泣いてるんだろう私。
無意識にテーブルのリストバンドに指が伸びる。
触れても何の反応もない。
不意にエルスの言葉がフラッシュバックする。
別れ際の沢山の言葉。だけど感じるわずかな違和感。
エルスは何を思っていたんだろう。
何を考えていたんだろう。
何か意味があるはず……そしてそれは私にしか理解できない。
本当に?
そう思う?
そう思いたい?
何もなかったら?
怖いよ。助けてよエルス。
私はそこで自問の連鎖を断ち切る。
一仕切り泣いた後、私は深呼吸をしてから鏡の前に立つ。
気を緩めると、また泣いてしまいそうだ。
だけど鏡に映る自分にエルスの言葉を重ねる。
―僕は君の写し鏡―
自分を見つめる私は、
「大丈夫。遥はちゃんとできるから」
そんな声を聞いた気がした。
私は意を決して部屋を出る。
階段を下り、リビングへ。
お母さんはニュースを確認していたが、私がおりてきたことに気づいて、声をかけてくれる。
「遥、大丈夫?」
私は何と答えるべきか少し迷った。
悲しいし、寂しい。
大丈夫かなんてわからない。
でも、エルスは大丈夫だと言ってくれた。
「うん、大丈夫」
そう答えてお母さんの隣に座った。
「ちょっと待っててね」
そう言い残して、入れ替わるようにお母さんはキッチンに向かう。
リビングは少し照明が抑えられていて、薄暗く感じる。
食器を用意する音が聞こえてくる。
少ししてから、お湯が沸騰する音。
トレーに乗せて紅茶が運ばれてきた。
ふんわりと柔らかい茶葉の匂いを感じる。
ガラスのティーポットが目の前に置かれる。
深い秋色のお湯の中を風に枯葉が舞うように茶葉が踊っている。
風が止んだように茶葉はゆっくりと沈んでいった。
お母さんは、ストレーナーをカップに置いて、紅茶をカップに注ぐ。
湯気と共に紅茶の香りが部屋に広がった。
少し強く感じるスモークの香りと、茶葉の甘い香り。ちょっとだけすえた匂いが感じられる。
カップに半分ほど注いでから、お母さんは私の前にカップを置いた。
お母さんが私の横に腰を下ろす。
ソファーが少し沈んでバランスが変わる。
隣のお母さんの体温をわずかに感じた。
「遥、ちょっとだけ覚悟して一口飲んでみて?」
見るからに濃そうな紅茶をお母さんは私に勧めた。
私はカップを口元に運び、ゆっくりと、すするように口に流す。
「!」
言葉にならなかった。強烈な渋みと、苦み。
「さすがに、きついわよね」
お母さんは笑いながらそう言った。
私はむっとした。冗談だとしても、こんな時にしなくても、と思ったからだ。
お母さんが私の様子に気がついていたのかはわからないけど、そのまま話し続けた。
「でもね、こうすると……」
私の手にしたカップに、ミルクを足していく。
ミルクがカップの中で沸き立つ雲のように広がり、やがて淡い茶色の液体へと変わっていった。
「飲んでみて?」
私は恐る恐るカップに口を付ける。
「え、すごくおいしい?」
一口目に茶葉の香りが広がって、ミルクと茶葉の甘みが一つになって後を追う。
少しだけ酸味も感じるけどあまり気にならず、尾を引くように苦みと香りが引いていく。最後に残る僅かな渋み。
牛乳を足しただけで全く違うものになっていると思った。
「この紅茶を教えてくれたのは、私の大学の先生で、その先生はこの紅茶を『人生の味』って言っていたわ。ちなみにその先生はミルクは入れない派だったけど」
お母さんもミルクを足したものを飲んでいる。
「最初からミルク入れてくれてもよかったじゃない!」
私は抗議の声を上げる。するとお母さんは意外な言葉を口にした。
「だって、もったいないじゃない?」
もったいない?
私が意味を計りかねていると、お母さんは笑顔で続けた。
「最初からミルクを入れて飲んでもらっても、きっとおいしいって思ってくれたはずよ。
でも、先に渋くて飲めたもんじゃない紅茶を飲んだからこそ、ミルクを足したときにの感動はひとしおだとは思わない?
私は最初にミルクで割って飲んだ時に、これは何の魔法だろう?って思ったくらいだから」
確かにそうだ。足したのはミルクだけなのに、こんなに変わるなんて予想はしていなかった。
人生の味……わかるようなわからないような。でも不思議としっくりした感じがある。
「この紅茶の入れ方ね。アッサムを使って濃いめに入れる、ミルクティー用の紅茶なのよ。
ひどいと思わない?それにミルクを入れないで飲ませるなんて」
お母さんは今自分が私にしたことを他人事のように言った。
「でもね、少し経つとその意味がわかるような気がしたの。
美味しいミルクティーを飲めるって幸せなことだから、それだけ知っていれば良いって考え方も当然理解できる。
だけど、ミルクが入っていない状態の味を知れば、ミルクティーがどういうものなのか、より深く理解できる。
遥の飲んでるミルクティーから、ミルクが無い時の味を想像できる?って聞いたら、きっと遥は凄く苦くて渋いって、想像して答えることができる。
だけどね、今の遥は想像ではなくて、自分の体験からその味を説明できるはずよ。
より詳細に、実感を持って」
私は紅茶をもう一口飲んだ。
「知識として知っていることと、実感して知っていること。表面的にはあまり違わないかもしれないけど、
見えない部分では全く違うものなのよ」
私は何となくだけど、お母さんの話は理解できたし、興味深くも感じた。
だけど、今なぜこんな話をしているんだろうという疑問と小さな憤りも同時に感じていた。
「これは、AIと人間の超えられない差でもあるのよ」
私はこの一言でハッとなる。
「エルスはその差を埋めるための研究だったの。普通に学習したAIは一般的な知識に基づいて回答することができる。
エルスはあなたが見て聞いたことを知識として学習しながら、あなたの反応や発言を学習して、普通のAIが学習しないことも学習したの。
あなたの反応を通じて、人の反応を学んで、人がどういうものかを学習することで、より人間的な反応が可能になると考えたから」
私には心当たりがあり過ぎた。
普通のAIと比べたことはないけど、エルスはとても人間的に感じた。人の気持ちを理解しているように推測できて、それについて話すことができた。
それって、物凄いことだったんだと改めて感じる。
「うん、エルスはとても人間らしかったと思う。私にとってエルスは特別だったし、自然だった。それは今だから、とてもよくわかる」
「人間ってあんまり賢くないから、無くして初めて気づくことが沢山あるのよ」
私は少し黙って考えた。
まだ怖い。
知りたい。エルスのことをもっと知りたい。
エルスが私を理解してくれようとしたように、私もエルスをもっと理解したい。
そうすればきっと大丈夫…大丈夫って何が?
そんなの分からない。
でも、そこにある意味を理解したいのならば、知らなければ。
「お母さん、私が小さかった時の、エルスが来たばかりの頃の話を聞かせて?ううん、エルスのことならなんでもいいから教えて。
私知りたい。もっとエルスのことを知りたい!」
お母さんはティーカップを置くと、私に体を向け直し、穏やかに微笑んだ。
「そうね、あなたが知りたいって思うことは当然だと思うし、聞く権利もあると思うわ。だから、最初に一つ約束してくれる?
守秘義務、って言葉、わかるかしら?」
「しゅひぎむ?」
「そう。エルスは企業が実験的に開発したAIで簡単に言うと企業秘密なのよ。だからエルスに関する情報は一部しか公開されてないの。
私も一応は気を付けるけど、もしかすると本当は言ってはいけないことを言ってしまうかもしれないでしょ?
だから、これからする話は、家族だけの秘密。誰にも言わないって約束できるかしら?」
少しだけ重たいものを感じた。だけど私は聞きたいと思った。
はっきりと伝わるように首を縦に振る。
お母さんはゆっくりと話し始めた。
気がつけば日付が変わっていた。
3時間近く、お母さんはエルスに関する話と、エルスと私のエピソードを話してくれた。
私が生まれる前から、エルスの研究自体はスタートしていて、お父さんは私が生まれるまでに最初の開発を終えたいと思っていたこと。
1年遅れにはなったけど、私の最初の誕生日にエルスを起動して、とても喜んでいたこと。
最初の一年はエルスが全く喋らなかったので、少し心配していたこと。
最初にエルスが2歳の私に喋った言葉。
「遥、僕はHLSS。まだ君には分からないかもしれないけど、君の相棒だよ。これからずっとよろしくね」
私が5歳になった時の私とエルスがケンカした話。
エルスとケンカした時のことはおぼろげには覚えていた。でも、詳細には覚えていない。お母さんの話を聞いて、私は情景を思い浮かべることができた。
他にも開発するサイドからの話もたくさんしてくれた。
エルスは実証実験開始の際に、20の異なった個体が用意された。
パートナーになった人たちは、研究に携わる人の縁者から選ばれて、性別も年齢もバラバラ。
エルスたちは共通データ部分を汎用的な人間の知識として共有すると同時に、それぞれのエルスがそれぞれのパートナーに関する情報を学習し記憶するためのデータ領域を持っていた。
エルス同士ではけっして会話は行わない。エルスは自分に兄弟がいることは知らなかったそうだ。
それが3年が経過する頃にはエルスの兄弟は半分になっていた。
この頃にお父さんがエルスをHLSSと正式名で呼ぶようになったそうだ。
私がエルスとケンカしたころには6個体。
私が中学に進むときにはエルスが最後の一台になっていた。
他のエルスたちが停止していった理由は様々だが、一番の原因は、当初の想定を大きく上回るデータ量を置く場所がなくなってしまったことらしい。
結果的に研究予算はうちのエルスに集中され、途中で3度の大規模な改修も行われたそうだ。
私は全く気がつかなかったけど。
「お父さんやお母さんとって、エルスって子供みたいなものなのよ」
最後にお母さんが少し小さな声で呟いた。
「お母さん、私ね。最後にエルスをお兄ちゃんて呼んだんだ。聞こえてたかどうかわからないんだけど……それってやっぱり間違ってなかったんだ」
私の言葉にお母さんは笑いながらこう答えた。
「厳密に言えばエルスはあなたの弟ね。でもお兄ちゃん……エルスは……あなたたちは、ちゃんと兄妹として、人とAIとして育ったのね」
そう言いながら目じりに涙が浮かんでいた。
お母さんの気持ちが少し想像できた。
私は話題を変えようと思った。
「それにしても、お父さん遅いね。何してるんだろう?」
「そうね、今日は基本的にはサーバーの停止作業の立会いだけのはずだから、日付が変わる前に帰ってくると思っていたんだけど」
そっか。そうだよね。お父さんにとってエルスは子供のようなものだ。その気持ちは凄くわかる。
お父さんだって、エルスを止めたくて止めた訳じゃないし、それを見てなきゃいけないのって、つらいことだよね。
「少しお腹空いた。でもご飯はお父さんが帰ってからにする。お菓子か何かない?」
私はお母さんに明るく尋ねてみる。
「そうね、昨日のクッキーがまだあるから、出しましょう」
そう言って席を立った。
それから30分ほど後、玄関のオートロックが動作する音が聞こえた。
私はお母さんと顔を見合わせる。
そして自然と立ち上がった。
玄関に移動して、扉から入ってきたお父さんと目が合う。
「お父さん、お帰りなさい。お疲れ様」
私はちゃんと笑って言えた。
お父さんはその様子に少し驚いた様子だった。
「ただいま、遥……その、大丈夫か?」
「うん、寂しいよ。だけど私は大丈夫」
「そうか……」
そのままリビングに移動して、お父さんはソファに崩れるように座り込んだ。
「とにかく、疲れたよ。システムを止めるだけの予定だったのに」
ぼやくような独り言。だけど私はわざと軽く言っているように聞こえた。
「昨日の夜からHLSSのコアの稼働率が天井に張り付いてて……」
そこまで口にしてから何かにハッとなって口をつぐむ。
そして何故かお母さんの方に視線を送った。
お母さんはお父さんに笑って見せてから、
「大丈夫。家族の秘密は固く守られるわ」
そう言った。
お父さんはその言葉を聞いてから、話し続けた。
「15年間エルスの稼働状態を見ているが、AIコアの稼働率が100%に迫るのは日に何度か、しかも一瞬だ。
ところが昨日の夜からエルスは全力で何かをし続けていた。理由の一部はダウンの少し前になってわかったよ。
遥、エルスからのメッセージを預かっている。これを忘れないうちに渡しておくよ」
父はそう言って、メモリーカードを私に渡した。
「規則なので、一応中は調べさせてもらっている。
エルスが遥に宛てたメッセージと、学習用の資料だ。ダウンの10分前くらいに、私宛に出力されたものだ。
ご丁寧に、パートナーの学習能力推移と今後の予想。用意された学習資料を使用した際の効果をとくとくと説明する、プレゼンテーションって内容も送ってきた。研究者として想定していない事態だ」
お父さんは目を閉じ、目頭を押さえながら話を続けた。
「最後の24時間にエルスが何をやっていたかを正確に知るには、これから稼働記録を詳細に調べないとわからんだろう。
だが、これが特異な出来事なのも、多分間違いない」
「お父さん、そのきっかけ、私思い当たることがあるよ。昨日の夜、珍しくエルスが私に進路を訪ねたんだ。私が大学には行くと思うけどその先ははっきり決まってないって言ったら、わかったって。少し突然な感じで違和感があったんだけど……」
「なるほど、それでエルスはフル稼働で、4TBを超える情報量の遥専用参考書を作ったのか」
「さあ、おなかすいてるでしょう?ご飯にしましょう」
私たちは3人で食卓を囲んだ。
ううん。そこには確かに4人いたと思う。
だって、そこでの会話の中心はずっとエルスだったから。
寂しさと楽しさが同居する、複雑な時間だった。
一つだけ確信が持てることがある。
私は今日は最悪の日になると思っていた。
それが間違いだった。
日付はもう変わってしまったけど、昨日は私にとって一番大切な、記念日となったのだから。
それから2時間後。
家の中は静まり返っているが、リビングには薄明りが灯されていた。
グラスの中に琥珀色の液体。そこに浮かぶ氷がカラン、と音を立てる。
「なあ、遥は大丈夫だよな?」
「ええ。遥はきっと大丈夫。あの子は私たちが思っているよりも、しっかりしているわ」
「そうか。俺たちは子供に恵まれたな」
「ええ、でも二人とも私たちの子供でしょ?当然じゃないかしら」
「そうだな。その通りだ」
静かな会話はそこで途絶えた。
沈黙の中で、グラスの液体だけが減っていく。
その夜、二人はそれ以上の会話をすることはなかった。
必要なかったからである。