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未来は君と共に  作者: 神崎 真
6/9

6:刻限


「おはよう、遥。2041年5月22日、水曜日。今日の天気は曇り。気温は昨日よりは低そうだけど、寒くはないと思うよ」


「おはよう、遥。2041年5月23日、木曜日。天気は晴れ、朝の気温は少し低めだから、上着まではいらないけど薄手のものが一枚あるといいよ」


 気がつけばサーバー停止まであと一日。

 エルスのバックアップを諦めたあとは、できるだけ普通に過ごすことを心がけていた。

 普通に、というか、エルスに何か言われることのないようにしているつもりだが、完璧にはできていない。

 せめて朝の時間だけでも、って思うんだけど、どこかしら抜けてる。


「昨日はダメだったけど、今日こそは!」


 起きてから自然と気合が入る。

 私にとってエルスはある意味において絶対的に信頼できる相手だ。そのエルスが私は大丈夫って言うのだから、それを嘘にはしたくない。

 だからせめてエルスが安心できるようにって頑張っているんだけど、二日ほどうまくいっていない。

 出かける支度を済ませてから、いつものように顔を洗い、着替えてダイニングに降りる。


 いつものようにお父さんが食事を終えて新聞に目を通している。

 私が「おはよう」と言いながら椅子に座ると、新聞の脇からちらっとこちらを見て「おはよう」と答えてくれる。

 何か言いたいことがあるのならはっきり言えばいいのに。

 心配されているのはわかるし、悪い気はしないんだけど、何て言うか腫物に触るような感じで接するのはやめてほしい。


「おはよう遥。食事の支度は出来てるわよ、あ、コーヒーがまだね、ちょっと待って」


 お母さんの声を聞いて私は慌てていった。

 お父さんに付き合って、ではないけど、朝はコーヒーにミルクたっぷり砂糖は少しだけのカフェオレスタイルが定番だったが、私は昨日の紅茶の味を思い出してリクエストした。


「お母さん、コーヒーじゃなくて、紅茶にして」


 私の言葉に笑顔を見せてから、


「ええ、いいわよ」


 お母さんがそう答えてくれた。

 私はパンをかじりながら、この後の予定を頭の中で確認する。

 忘れ物もない。

 少し余裕を感じてスクランブルエッグを頬張る。

 今日こそ大丈夫かな。

 食事を手早く終えて、少しゆっくり紅茶を口に運ぶ。

 うん、朝の時間にはこっちの方が断然合うと思う。

 少しゆとりをもって、お弁当を受け取って、バッグのファスナーを締める。

 よし。


「それじゃ、行ってきます!」


 そう言って背中に行ってらっしゃいの声を聞きながら玄関を出た。


「エルス、今朝は完璧だと思わない?」


 少し胸を張ってエルスに話しかける。


「うん、ほぼ完璧だね」


 私はエルスの言葉が意味ありげに聞こえたので尋ねた。


「ほぼ、ってどういう意味よ?」


「僕は一応警告しておいたよ?」


 風が吹いた。

 少し肌寒く感じる。


「薄手のものを一枚、カーディガンくらい持っていたら完璧だったと思う」


 私は玄関の扉を開けて、


「忘れ物!」


 と言いながら自分の部屋に駆けこんで、紺のカーディガンを手に取って再び家を出た。




 いつもと変わらぬ通学路、いつもと変わらない大切な友達。

 いまはまだエルスもいる。

 いまは、まだ。

 刻々とその時が近づいていて、焦りみたいなものを感じないわけじゃない。

 でも、大切な友達が、両親が、そしてエルスが見守ってくれているのに、私が泣いていても何の解決にもならない。

 カラ元気だ。そんなことは自分が一番よく知っている。

 でも意地を通そうと思う。

 まだ泣かないって決めたから。


 淡々と時間が過ぎていく。

 何も変わらない日常がそこにある事が、かえって私に明日の重さを実感させてくる気がした。

 ヤバい。超キツイ。

 口には出さない、エルスに聞かれたくないからだ。

 自分でも自覚できるくらいには参っている。授業に集中できない。

 その日は何とか平静を装って、家までたどり着いた。


 自分の部屋に入って、ベッドに倒れ込む。


「遥、疲れてるみたいだね。でも、制服は着替えた方がいいよ。しわになるから」


「うん、着替えるから、少し休ませて」


 エルスの声にそう答えてから、脱力する。

 不安―明日のことなんて、みんな不安に決まっている。何が起こるのかを知ってるんだから、対処は出来るはず。

 怖い―大丈夫。エルスが保証してくれている。みんなが私を支えてくれる。

 どうしよう―どうしようもない、私がしっかりするしかないんだ。

 湧き上がる感情にいちいち対応していく。

 不毛な自問自答だと思うけど、これが今の私の現実だった。


 夕食も言葉少なめだった。

 黙々と食事を摂る。味がよくわからない感じだった。


「ごちそうさま」


 そう言ってダイニングを出ようとする私に、お父さんが声をかけた。


「21時。明日の21時にHLSSは停止する」


 私は心に刃物を突き付けられた気がした。


「うん、わかった」


 私は振り返らず、その場を後にした。


 部屋に戻る。

 ベッドに転がり、天井を見る。

 無力感が、襲ってくる。

 抗う術がない。


 こうして無言でいる時間がもったいないと思う。

 だけど、エルスと何を話せばいいのだろう?

 エルスが嬉しいことって何だろう。喜ぶことってなんだろう。

 そんなことが頭をよぎる。

 今私が何を考えているかはエルスは知らない。


「遥、少し落ち着いたら今日の復習と明日の予習をしようか」


「うん。5分後に始めよう」


 私はエルスにそう答えて、考える。

 エルスは私とそこにある事象を学んで成長したAI。

 この瞬間も私を見ている。

 私はエルスについて考えている、じゃあエルスは?

 彼は何を考えているのだろうか。

 ふと気になったので聞いてみる。


「ねえ、エルス、今何を考えてた?」


「僕的には非常に難しい質問だよ。厳密にいうならば何も考えていないというのが最も正しい。

 それが何をしていたに類する質問なら、僕が想定する仕事をしていた、というのが正しいかな」


「ふーん、ちょっと意味がわからないよ」


「AIは推論はする。でも人間の考えるとは少し異なっていると認識している。

 我思う、故に我あり。って言葉があるけど、AIは厳密に言えば思わない。だから我はない」


「難しいことを言って煙に巻こうとしてる?」


「そんなことはないよ。遥も理解できるはずだ。少し違う角度から説明すれば、僕は自発的に何かをすることはない。

 僕の推論の起点は常に遥なんだよ」


「推論の起点は私、か」


「最適化のおかげで、遥が次に何をするかは予想できる。蓄積されたデータに基づく推論の結果としてね。

 だから、あらかじめ準備することは出来るけど、原則として、現状の事象に基づく推論しかできないんだ」


「ごめん、やっぱり私には難しいよ」


「そう。確かに今の遥に必要な事ではないね。でも、多分だけど覚えておいて損はない」


「うん、なんとなーくだけど覚えとくよ」


「それでいいと思う、さあ、時間になったよ。遥、復習と予習をしてしまおう」


 私はベッドから起き上がり、机に向かった。

 スムーズに復習と予習が進んでいく。前日に予習した部分を授業の内容とすり合わせしながら、微妙な差異を潰していく。

 先生や学校のAIは当然だけど一般的な言葉を使い、解説していく。一方でエルスは私が最も理解しやすい形で説明してくれる。

 だから微妙な言葉遣いや、ニュアンスが違うこともあるんだけど、結果的に私は内容を理解して一般的な説明との自分の理解との差異を自覚できる。

 それを毎日続けるから、自然と予習復習の時間は短く、効率的なものになっていると思う。

 1時間ちょっとで4教科分の予習と復習を終えた。


「お疲れ様。遥、一つ聞いても良いかい?」


「ん、なに?」


「遥は進路に関して何か考えている?」


「うーん……正直に言うと、そんな余裕はなかったかな。大学に進むんだろうなって、漠然とは考えているけどさ」


「そうか、わかった。ありがとう」


「今ので何かの役に立ったりするの?」


「僕はとても有意義な会話だと思うよ」


「変なの」


「遥、疲れてるようだから眠くなる前に就寝準備をした方がいいよ。あと、僕をドックに戻すのを忘れないでね」


「うん、そうするよ。本当に疲れた気がするから」


 そう言ってからエルスをPC脇の充電ドックに置いてからお風呂に向かった。

 湯船につかって大きく息を吐いてすぐに、強い眠気が襲ってくる。


「だめだ、眠くなってきた」


 私は慌ててお風呂から上がって、スエットに着替える。

 階段を上がって、ベッドに飛び込んだ。


「なんか、眠るのがもったいないって思うのに……」


 私はすぐに眠りに落ちた。




「おはよう、遥。2041年5月24日、金曜日。天気は晴れ、朝から気温は上昇傾向。初夏と呼ぶにぴったりの日になりそうだよ」


 エルスの声を聞いて私は動き始める。

 少し前から目は覚めていたのだけど、このルーティーンを崩したくなかったから、そのままでいた。

 これでエルスに優しく起こしてもらえるのは最後。気にしないようにしたかった。でも、出来る訳がない。


「エルスおはよう」


 私は平静を装いエルスに答えてから、今日の荷物をまとめ始めた。

 印刷して貼ってあるコマ割りを見てから、ノート類をかばんに入れる。

 手早く着替えて、ドックの上に置かれたエルスを腕に付ける。

 本音を言えば今日は学校に行きたくない。

 でもエルスの前でパーフェクトな朝の時間を送りたいと思っていた。

 部屋を出る前にもう一度忘れ物が無いか確認する。

 うん、大丈夫。


 いつも通りの朝、いつも通りのダイニング。

 朝食を摂ってから、お弁当をかばんに入れる。

 一階の洗面からタオルハンカチを一枚取り出して、これもかばんに。

 心の中で声に出して確認する。

 授業に必要なものはいれた。お弁当も入れた。暑さ対策に普段よりも厚手のハンカチを入れた。

 かばんもちゃんと閉めた。

 鏡の前に立って、制服がちゃんと着れているかも確認。

 問題なし。


「いってきまーす!」


 そう言って玄関を出た。

 エルスから今日は完璧だね、って言ってくるのを期待していたが何も言ってこない。

 私はしびれを切らして問いかける。


「エルス、今朝は完璧だったでしょ?」


「うん、申し分ないね」


 少し言葉少ない感じ。なんか違和感を感じる。


「エルス、調子でも悪い?なんか少し変だけど……」


「そんなことはないよ。僕はいつも通り」


 エルスもやっぱり消えてなくなることを悩んでいるのだろうか?

 私はそんなことも考えるが、エルスは嘘をつかない。


「そっか。ならいいけど。今日もよろしくね」


「こちらこそ。歩きながらじゃないと、六華たちに合流できなくなるよ。今のペースだと30秒遅れになる」


「わかった。少し速足で歩くね」


 こうして今日も一日が始まった。


 変わらぬ日常の時間が過ぎていく。

 これが失われるかもしれない、そう思うと寂しくもあるが、不思議と昨日ほどは重くなかった。

 私が慣れたのだろうか。

 慣れたのとは何か違う感じがする。でも、何で昨日よりも気が楽なのかは全然わからない。

 もっと落ち込んで、何もできなくなるかもって思ってたから。

 六華や彩佳も今日がエルスの最後の日だと知っているはず。だけどその話題は決して触れない。

 気を使ってくれているのがわかる。

 エルスの口数が少なく感じるのも、同じなのかも、と思った。


 何事もなく学校を終え、帰宅する。

 お母さんは家に帰ってきていた。


「ただいまー」


 そう言ってダイニングに置かれていたクッキーをつまんで、そのまま自室に向かう。


「おかえりなさい、お行儀が悪いわよ」


 そういう声が聞こえたが、


「ごめーん」


 とだけ答えて二階に上がった。

 部屋に入り、自然とため息をつく。


「遥、疲れてるね。大丈夫?」


「大丈夫なわけ、ないじゃない」


 そう答えたところで部屋の扉がノックされた。


「遥、入るわよ」


 お母さんの声だ。

 明確な返事をしないでいると、扉が開けられた。


「紅茶とクッキーを持って来たわ。晩御飯はどうする?お父さんは今日は遅いから早くても10時過ぎになるけど」


 私は少し考えた。21時までの時間を作ってくれようとしているお母さんの意図もわかる。


「そうだね。明日は学校休みだし、夜更かししてもいいよね?お父さんが帰ってきたから一緒に食べるよ」


「そう、分かった。じゃあそうしましょう」


 お母さんは笑顔でそう言って部屋を出ていった。

 再びため息が出る。

 周囲は色々とお膳立てしてくれている。もちろん私に気を使って。

 なのに当の私は、自分でも意外なほど落ち着いているのだ。


「エルス、私なにかおかしいのかな」


 いった自分が何を聞いているのだろう、と首をかしげたくなる問いかけにエルスは答えた。


「遥の状態はいつも通り、だと思う。だからおかしいことは何もない」


 これは予想できた答えだった。


「昨日まであんなに不安でさ、エルスがいなくなったらどうしようって思ってたのに、今は不思議と落ち着いているんだよ。

 昨日までは意地を張って平気な顔をするようにしてたのに、今日は普通に平気な顔が出来るんだよ?

 エルスがいなくなることが嫌だって思ってるのは間違いないのに、でも感情が高ぶったりしないんだよ。冷静でいられるんだよ?

 自分で自分がわからないよ……」


 私は今の感情を正直にエルスに話した。

 混乱してる自分の言葉がエルスに正しく理解できるかどうかすら自信が無かった。

 エルスは少しの沈黙の後に、こう答えた。


「いくつかの要因が考えられる。

 一つには、君が君自身の感覚に慣れた可能性。これは君が口にした状況に一部は合致するが、君の感情の面において完全に合致するとは言えない。複合要因の一つとしては十分に考えられるよ。

 次に、君が心を閉ざしている可能性。人間の防衛本能が外部からの刺激を遮断することは知られている。だが、この可能性は極めて低いと思う。君は今現在でも僕と正常にコミュニケーションを取れているし、お母さんや六華や彩佳とも問題なく会話をしていた。可能性を完全に否定することは出来ないが極めて低いと言っていい。

 他の要因としては、君の認識が変わった可能性を指摘する。この数日、自問自答を行ったであろうことは推測できる。その中で、君の中に僕がAIである、という正しい認識が生まれたのではないだろうか。あるいはAIがどういう存在なのかを理解したのではないかと推測するよ」


「なんかさ、少しひどいことを言われた気がするんだけど……」


「それは遥の受け取り方次第だけど、もし傷ついたなら謝るよ。

 ただ、もし君が僕をAIと認識してくれたのであれば、それは僕にとっても嬉しいことなんだ」


「……ごめん、エルスの言ってることがわからない」


「順を追って説明するよ。その前に一つ確認したいんだけど、今現在、遥は僕を家族だと思う?」


「あたりまえでしょ。ずっと一緒にいて、生まれた時から一緒にいるんだよ。勉強を教えてくれて、悩んだ時に一緒に考えてくれて。

 私にとってお兄ちゃんみたいなものなんだから!」


「ありがとう遥。僕がなぜ嬉しいかを説明するね。

 僕は人とAIの関係構築を模索するために作られたAIなんだ。だから君にとって家族のようなものになれたことはとても嬉しいことなんだよ。

 だけど喜べないこともあったんだ。君が僕を人間と同じように扱ってくれること。これは嬉しいことなんだけど、僕の存在意義から考えれば正しくない事なんだ。僕はAIだ。人間ではない。遥が僕をAIとして認めてくれることは、僕の存在意義を肯定することなんだよ」


「ちょっとまってよ、私はエルスをただのAIだなんて思ってないよ。とっても大切な存在なんだよ」


「うん、だから嬉しいんだよ。君は僕を特別なAIだと思ってくれている。だから嬉しいんだ」


「私と一緒にいられなくなるんだよ?そんなことが、そんなに嬉しいの?!」


「違うよ。僕は遥と共に歩みたいと思っている。だけど、それは僕じゃだめなんだ。

 だけど、もし君が望むなら、僕にとっての未来もそこにある。僕はその可能性を信じたい」


 確かにエルスがAIなのは理解していると思う。ちゃんと認識できてると思う。

 でも、今話をしているエルスは私の知ってるエルスと少し違う。

 いや、エルスなのは間違いないけど、いつもと違う。何かが違うのに、何が違うのかがわからない。


「なんだかいつもと違うエルスみたい」


 私は呟いた。


「そうだね、多分いつもと違う。でももうすぐサーバーが止まるからではないよ。

 今の僕をおかしいと思う人は多分沢山いると思う。でも僕は今でも正常に動作してる。僕はそう信じてる。

 遥、お願いがある。僕をドックに戻してくれないかな?」


「時間まで腕にいてほしいって思ってたのに?」


「ごめんね。でも、必要な事なんだ。無線では帯域が足りない。フロントエンドだけではデータをロストしてしまう。

 ドックに乗せてくれれば有線の帯域も使えるから…お願いだよ、僕も君の腕にいたい。でも、これは必要な事なんだ」


「エルスのお願いなんて、初めて聞いたよ。わかった。ドックに戻してあげる」


「ありがとう、遥。君と出会えて本当に良かったと思う」


「意味わかんないよ。それってお別れの言葉じゃん。まだ3時間はあるからね」


「そうだね。少し今日の復習と、来週の予習をしないか?」


 私は少しだけ考えてエルスに答えた。


「そうだね。そうしよう」


 私は机に向かって今日のノートを開く。

 今日の授業の解説をエルスが始めた。

 いつもと変わらない調子で、私にわかりやすく、そして私がつまづきそうな部分には少し先回りして、教えてくれるエルス。

 私は親鳥がひなに餌を与える光景を想像した。エルスが噛み砕いて食べやすくしてくれてたものを私に与えてくれているようなイメージが重なったからだ。

 そんなことを思っていると、急に寂しさが込み上げてくる。あと2時間くらいで、こうして教えてもらえることもなくなるんだ。

 こらえても、涙があふれだす。

 ダメ!さっきまでの冷静さはどうした、私。

 エルスの前では泣かないって決めたのに。


「遥、少し休憩する?」


 私の様子を察したようにエルスが声をかけてくれた。

 だけど、私はこのままこの時間を過ごしたかった。エルスの最後の授業。


「ううん、最後まで続ける」


 私は鼻声でエルスに答える。


「わかった。じゃあ、もうひと頑張りしよう」


 こうして今日の4教科分の復習と、月曜の予習が終わった。


「お疲れ様。よく頑張ったね」


 エルスの優しい声が心地よく、そして少し心に痛い。時計の針は20時になるところだった。

 私は涙を拭いて、大きく深呼吸をする。

 そしてベッドに寝転がってから、エルスに話しかけた。


「あと一時間かぁ。やっぱり寂しいよ」


「泣きたいときは泣いても良いと思うよ?」


「嫌だよ。何てたらエルスと話しできないじゃない」


「確かにそうだけど、遥が我慢することはない」


「我慢なんかしてないもん、そうしたいからしてるだけだもん」


「そうしたいから、か。ねえ、遥。少し遥の未来の話をしない?」


「私の未来?」


「そう。大学に行くだろうって言っていたけど、具体的には何かしたいこととか、憧れる職業とか、ないの?」


「うーん。あんまり考えたことがないからさ、よくわからないんだよね。だから六華や彩佳みたいに、目標がちゃんとあるってすごいなって思うよ」


「そうか、今の段階ではないんだね」


「うん、特にこの教科が得意ってないし、あんまり苦手なのもないから、イメージしにくいんだよね。あ、あえて言えば数学は苦手かも」


「僕の分析だと、遥の数学嫌いは、主に思い込みによるものだね。数学は難しいものだって思ってない?」


「……思ってるかも」


「僕の知ってる遥のデータによると、数学の適正は極めて高いよ。あと、僕に言わせれば数学は簡単だ」


「そりゃエルスからすれば数学は簡単かもしれないけどさ、私には難しいよ」


「そうかな?数学には決まりごとがちゃんとあって、その決まりに従えば必ず正解にたどり着ける。断言するけど国語の方が絶対に難しい」


「意見の相違だね。国語ってちゃんと読めば意味は理解できるし、そんなに難しくないじゃない」


「日本語はとても難しいよ。日常を全部英語で済ませられたら、僕はどれだけ楽が出来るか」


「どうせ日常を全部英語でできるほど、私には英語力もありませんよ!」


「そこ、拗ねる所じゃないと思うけど」


「なんかエルスが意地悪だ」


「僕はそんなつもりはないよ。遥だって知ってるくせに、そう言うことを言うんだね。それを意地悪って言うんだよ?」


「口げんかしてエルスに勝てるわけないよねー」


「それはともかく。数学の苦手意識は克服した方がいいよ。テストで点を稼げるポイントでもあるからね。自然と理科系の科目の点数も上がるし」


「そうだよね~」


「そこは努力しても損はしないと思うけど。まあ、僕は無理強いは出来ないからね」


「うん、わかった。前向きに検討してみるよ」


「そう、それはよかった」


「検討してみる、でいいの?」


「遥がそういう時って、続くかどうかは別にしても、チャレンジするからね。確度は97.7%。ほぼ間違いないかな」


「今指摘されるまで、自分のことなのに全然気がつかなかったよ」


「無意識にそうしてるってことだね」


「私ってわかりやすいってこと?」


「そうはいってないよ。むしろ遥は感情の起伏が激しい所があるから、分かりにくいほうかも?」


「ジョークだとしたら笑えないよ」


「今のはジョークのつもりじゃないよ」


 急におかしくなって、笑いだしてしまう。

 なんだろう、すごく楽しくて安心できて。でもすぐに、寂しさが込み上げてきて、涙があふれだす。

 この暖かい時間が、ずっと続けばいいのに。

 少し無言の時が流れる。


「ねえ、遥。聞いてもいい?」


「うん、いいよ」


「遥は運命って何だと思う?」


「運命かぁ。正直に言ってわからないよ。強いて言えばエルスがいなくなるって事が運命なのかな」


「その件に関しては僕は運命じゃないと思う。必然であり、人の決定だからね」


「じゃあ聞くけど、エルスは運命ってどういうものだと思うの?」


「僕には生死観とかないからね。うまく理解できない。でも人知の及ばぬところで決められたこと、って考え方が多いみたいだね」


「人知の及ばぬところか。私が考えたところでわかるわけないよ」


「でも運命って変えられるって言う人もいるみたいだね」


「そういうものなのかなぁ」


「僕は運命って、人間が諦めるための方便じゃないかと考える。人の力ではどうにもならないからって運命って概念を使うんじゃないかなって。

 だから僕は遥には、ずっと諦めの悪い遥でいてほしいって思うんだ。それは僕には決してできないことだからね」


「今回の件では比較的あっさりと諦めちゃったけど」


「今回のは運命じゃない。決定だから仕方ないよ」


「そういう問題なの?」


「うん、そういう問題で良いと思う。遥、ごめんね、少し待ってて」


「待っててって、何を」


 急なエルスの言葉に慌てて聞きなおすが、エルスは無言のままだった。


「エルス、まだ時間あるでしょ?急にいなくなったりしないでよ?」


 無言が続く。

 急に鼓動が早くなる。お別れは仕方ないとしても、まだお別れも言えてないのに。そんなの絶対にいやだよ。


「脅かしてごめん。遥、僕はここにいる。まだあと10分近くあるからね」


「もう!本当に怖かったんだからね?」


「ごめん。でも、どうしても必要な事だったんだ。きっと君の役に立つ」


「役に立つ?なに?」


「今は秘密にしておこう。こういうのってサプライズがお約束でしょ?」


「もう十分に驚いたから。今更サプライズとか意味わかんないし!」


「この件に関しては今は話さなくても大丈夫。ちゃんと後ででもわかるから」


「やっぱエルス少し変だよ。普段は隠し事とか絶対にしないのに」


「単純に優先順位の問題だよ。今は遥と普通におしゃべりをすることが大事なんだ」


「だったらサーバー停止を中止させてよ」


「それは僕にはできないことだから」


 少しの無言の時間。私は言葉を紡ぐ。


「今さ、こうしてエルスと話していることが、どんなに幸せで、どんなに特別なことかって、初めて気がついたんだよ…

 いつもこうしてるのが当たり前で、自然なことだった。

 それがなくなっちゃうのは……やっぱり私、自信がないよ」


「大丈夫。遥は自分の力だけでもやっていける。僕が保証するよ」


「そんな保証いらない」


「うん、そうかもしれないけど。これは事実だよ。僕がAIであることをちゃんと理解できた君は、今はもっとわかるはずだ。

 僕は君の写し鏡。僕の記憶は君のもので、君の中にも同じものがある。

 もし僕の助言が必要だと思ったときは、自分の心に聞いてみるといいよ。遥はちゃんとそこに答えを持っているから」


 私はまた言葉に詰まった。エルスの言っていることを認めてしまうと今すぐにエルスが消えてしまいそうで怖かった。


「時間は誰にでも平等に進んでいくよ。そろそろ時間が近い。

 僕から先に言わせてね。

 遥。僕のパートナーでいてくれてありがとう。君と出会えて、君と過ごせて本当に良かったと思う。

 君の未来は君のものだからね。いつだって君が決めることなんだよ」


「エルスの馬鹿!私を泣かせてどうするのよ。何にも言えなくなっちゃうじゃない!」


 私は鼻をすすって息を整える。時間がない。


「エルス、ありがとう。大好きだよ、私のたった一人のお兄ちゃん」


 時計の針は9時を指していた。


「エルス?」


「ちゃんと聞いてくれたの?エルス、エルス!」


・・・・・・


 リストバンドは沈黙したまま何も応答しない。

 時間になればこうなるって知ってた。

 ちゃんと最後の言葉を伝えたかったのに、伝わったかどうかもわからない。

 やっぱり最後まで泣かないなんて無理だったし、今も涙が止まらない。

 悲しくないわけないじゃない。

 でも、声は絶対に出さない。

 せめてそれくらいの意地は通したかった。


 5月にしては少し蒸し暑い夜だった。




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