4:家族
「おはよう、遥。2041年5月19日、日曜日。今日の天気は曇り。だけど午後から雨が降るかもしれないね」
私は飛び起きる。
食事のあと、全てがエルスの言うとおりだったのが少し面白くなくて、ゴロゴロしているうちに寝てしまった。
「エルス、食後に私が寝ちゃう可能性ってどれくらいだと予想してた?」
「昨晩の食後は急激に血糖値が上昇して眠気を引き起こすと思っていたからね。精神的な疲労も考慮すると95.5%くらいかな」
「予想してたんだ。もしかして、私はまんまと罠にかかった感じ?」
「なんの罠?」
「お腹いっぱいになって寝ちゃうだろうって思ってたってこと!」
「それは意図して陥れた、という意味だよね?だとしたら罠ではないよ。結果的にそうだった、ということ」
「なんかムカつく」
「落ち込んでいるよりは数段建設的だと思うよ」
私はエルスに答えずにPCを開いて検索を始める。
ディープサーチの機能を使って、AIのデータバックアップに関して情報を収集する。
「遥、すまないけど、僕をドックに戻してくれないかな。バッテリーが心もとない」
無言のままテーブル上に置いてあったリストバンドをドックに乗せる。
「危うく昨日の遥みたいに燃料切れになるところだったよ」
私は笑えない冗談をスルーして、検索結果に目を通す。
「ああ、僕のバックアップを検討してるの?そんなことなら僕に聞いてくれればいいのに」
「どうせダメだって言うでしょ?」
「方法と行動次第だよ。少なくともダメというつもりは今はないよ」
「じゃあ教えて。どうすればエルスの完全なバックアップってできるの?」
「まず、記憶域の容量を確保しないといけない。完全バックアップを行うためには220PBほどの容量が必要になる。失礼。完全なバックアップのためには267PB必要だね」
「このPCがディスク容量が120TBだから、3台分?それなら何とかなるかも」
「遥、単位を間違えてるよ。必要な容量は267PB。そのPCなら2225台必要だね」
「絶対無理じゃん!」
「うん、無理だと思う。データの圧縮を行って保存したとしても、8割くらいは必要になる。ほとんどのデータが圧縮状態で運用されているからね」
「一撃で粉砕とか、エルス酷すぎ」
「ちなみに運用開始時点で必要な容量は60TB程度だね。この状態でもある意味僕ではある」
「何にも学習していない状態って事でしょ?」
「その通り。でも僕には違いない。僕を構成しているのは大量のデータなんだよ。余談だけど、このPCで僕動かしたとするとレスポンスタイムは今の40倍は必要になる」
「よくわからないけど、動かしたところで無駄って言うのだけはわかったわ」
「僕のような、でよければそのPCでもなんとかなるよ。おそらくだけど今僕がサポートしている内容の8割は同じことが出来る。
ただ、昨日の夜のような、君の個人的嗜好や人間関係を考慮した発言は期待できないけどね」
「んーそれじゃやっぱ意味がないよ。何か方法はないのかな……」
「僕の見解では、方法はないよ」
「それじゃ身も蓋もないじゃん。考えてみないとわからないでしょ?なにかいい方法があるかもしれない」
「遥は諦めが悪いね」
「いつも最後までもがいて悪かったわね」
「遥、違うよ。僕は遥を褒めたつもりだったんだよ」
「褒める?諦めが悪いが褒め言葉なの?」
「そうだね、一般的には誉め言葉ではないかもしれない。だけどAIの僕には理解できないんだよ。
そこにあるデータから答えを導き出すのが僕だ。だから諦めるとかではなくて、低い可能性は排除する。
だけど人は時にどんなに小さな可能性にだって全力を傾けられる。
それは人間性の一つじゃないかと推測するんだよ」
「諦めが悪いのが人間、か。そうかもね」
なんか、こうしてエルスと話してて、落ち着いて普段の自分に戻れた気がした。
そしてふと我に返る。
現実は何も変わっていない。
諦めない、と言っても私に何が出来るのだろう。
こんな時間を過ごせなくなる。
それは今の私にとって耐えがたい恐怖なのに変わりはなかった。
両親にもう一度相談してみようかとも思った。
でも、答えは分かっている。
エルス以上に現実を知っているはずだ。
余計な心配をかけたくないとも思った。
後は何ができるだろうか。
何かできるはずだ。そう信じたい。
だけどその日は何もできずに、無駄に時間が過ぎていった。
「おはよう、遥。2041年5月20日、月曜日。今日の天気は曇り。家を出る時間は傘が必要になりそうだよ」
いつもと変わらない優しい声に、安堵感を感じる。エルスはまだ消えてない。
「おはよう、エルス。今日の予定確認したい」
私のリクエストに今日の授業のコマ割りを説明してくれる。そしていくつかの注釈を添えてくれた。
「一昨日、昨日と復習も予習もしていないから、今日の授業は苦戦するかもね」
「何とかなるわよ」
そう言いながらベッドから起きて、洗面に顔を洗いに行く。
朝の水はまだ冷たく感じる。
でも、その冷たさが、自分の感覚をはっきりさせてくれているのを感じる。
「人間の感覚、か」
なんとなく、そんなことを思う。今までは意識したことが無かった、エルスと私の違い。
そしてふと思う。週末の時間は自分がAIであること、人間ではないことを強調していた気がする。
私が少しでも悲しまないために?
エルスに聞いてみれば早いとは思うが、聞く気になれなかった。理由はわからないけど答えを聞くのが少し怖かった。
朝食は言葉少なめ。
あまり話す気になれない。
手早く食べて歯を磨いてから、
「行ってきます」
一言だけ言って外に出た。
お母さんの声が聞こえた気がしたけど、戻らなかった。
傘をさして歩きはじめる。
「遥、道徳的にあまり感心しないな。お母さんの声の音量から、遥にも聞こえていたはずだけど?」
「だって、何言われるか怖いし、なんて答えていいかもわからないもん」
「悪いことをした、という自覚があるなら、あとで謝ろうね?」
「うん、わかった」
なんだか、小学生の気分だ。昔もこんなことがあったっけ。
いつもの通学路を歩いていくと、いつものように彩佳と六華が声をかけてくる。
「遥、おはよ!」
「調子はどう?元気になった?」
彩佳はいつも通り元気で、六華は土曜の事を気にかけてくれた。
「うん、大丈夫」
私は短く答える。
いつもと同じ風景、いつもと同じ道路。
いつも一緒の友達、いつも歩いている道。
エルスもいつもと同じようにいてくれる。
なのに、普段とは全部違うもののように見えた。
色褪せた世界、自分だけ何か浮いてしまっている感じ。
「遥、どうしたの?やっぱ調子悪いんじゃない?」
「ううん、大丈夫。ちょっとぼーっとしちゃっただけ」
彩佳の問いかけにそう答えたが、自分でもわかる。笑えていない。多分引きつった笑顔になっていた。
結局普段よりも口数が少ないまま、学校についた。
学校でも上の空だった。
授業の内容が頭に入らない。
ノートを開いても、文字がまったく意味をなさない。複雑怪奇な記号の羅列。
だめだ、完全に集中力を欠いている。
でも、自分でわかっていてもどうしようもなかった。
失われようとしているものが、あまりにも大きすぎると、私は感じていた。
気がつけば昼だ。午前中の授業が長かったのか短かったのかもよくわからない。
朝まで雨が降っていたから、教室で昼を食べることになった。
そして今になって気がつく。
「お弁当忘れてきた」
「遥、お弁当忘れたの?初めて見たよ」
「仕方ないなぁ、はい、これ一個あげるよ、遠慮はいらないから食べな?」
そう言いながら彩佳が購買部で買ってきたパンを一つ渡してくれた。
「悪いからいいよ、今から買ってくるから」
「今から行ったってロクなもの残ってないから。私の愛情だと思って食べてよ、ちょっと安いけどさ」
「彩佳ごめんね。ありがとう」
「忘れ物することくらいあるっしょ?ってそう言えばエルスは教えてくれなかったの?」
私はその言葉に小さくビクッとなった。
「遥の不調の原因はエルスなのね。ケンカでもしたの?」
六華が私の様子を見てそう聞いてきた。
「ケンカはしてない、と思う。確かに今朝はエルスが忘れ物を教えてくれなかった」
「エルスが意地悪、しないよね?なんで?」
彩佳がエルスに向かって問いかけたがエルスは答えない。
私は思いつく理由を口にした。
「たぶん、家を出るときにお母さんが声をかけてくれたのを無視したからだと思う」
「え?それってどういうこと?よくわかんないんだけど?」
「うん、遥、それだけだとエルスが忘れ物を教えてくれなかった理由にならないし、なんでお母さんを無視したの?」
彩佳に続けて六華も疑問を投げかけてきた。
「あのさ、お母さんに何か言われるのが怖かったんだ……」
「ケンカしたのはお母さんと?」
「ううん、違う。あのね・・・・・・サーバー止まっちゃうんだ。エルスがいなくなっちゃうんだ」
「え?」
私は重い口を開いた。正直言えば、すごく怖かった。
そんな事で落ち込んでるなんてって、笑われるかもしれないって思っていた。
「そっか……エルスとお別れなのか」
彩佳が呟く。
「何年いっしょにいるんだっけ?」
「もうすぐ16年だよ。私が1歳の時からだから。だけど私にとっては生まれた時からと同じなんだよ。ずっと一緒だったんだよ」
私は何とか言葉を続けた。怖くて仕方なかった。
笑われることが怖かったわけではなく、口にしたらそれを認めてしまうような気がしていたからだ。
自然と涙がこぼれ落ちる。もう何度も泣いているのに、エルスがいなくなると思うと、何度でも涙が出てくる。
「生まれてからずっと一緒、かぁ」
六華がそう口に出したが、その後に言葉は続かない。
重い空気だけがそこにあった。
「あのね、遥。それは決まったことなんだよね?」
六華が再び口を開いた。
「遥、今遥が不安で、悲しいのはよくわかる。だけどまだエルスはいるんでしょ?
だったら、悲しんでる場合じゃないよ。もったいないよ。
悲しむのはエルスがいなくなってからでも遅くないよ。いまのままだと絶対に後悔するから」
「何でよくわかるなんて言えるの?わかる訳ないじゃない……
どうしようもなく不安で、何していいかもわからないんだよ」
私は反射的に六華に言い返した。
だけど六華はそれでも言葉を続けた。
「わかるよ。私は後悔したから……なんでもっと一緒にいなかったんだろうって。
なんで一匹にしちゃったんだろうって。私が死ねばよかったのにって」
六華が泣いている。だけどなんで泣いているのかまではわからない。
私は不安と恐怖をぶちまけるように六華に言い返していた。
「一匹って、ペットか何かの話でしょ?六華はわかってないじゃない!こんなに不安でこんなに苦しいのに……え……」
パシン、と乾いた音が響き、頬に熱が走る。
一瞬私には何が起こったのか理解できなかった。
彩佳が私の頬を叩いていた。
彩佳の方がわずかに震えている。目に涙を浮かべていた。
「遥、今のは遥が悪いよ。六華に謝って」
私には何が何だかわからない。
なんで彩佳に叩かれるの?
さらに混乱にした。
「お父さんも、お母さんも、彩佳も、六華も!どうせ私の気持ちなんて分かりっこない!」
そう言ってかばんを掴むと私は教室の外に駆け出していた。
泣きながら走った。
途中で走れなくなって、だけどそのまま歩き続けた。
気がつけば家に帰ってきていた。
昼のこの時間は誰もいない。
鍵を開けて家に入り、そのまま自分の部屋に戻って、ベッドに身を投げ出す。
「遥、少しは落ち着いた?」
エルスの声が響く。
私はそれに答えなかった。いや、ただ答えられなかった。
「なんで誰もわかってくれないんだろう」
そんな言葉をポツリと呟く。
エルスはそれに答えた。
「分かっていないのは遥の方かもしれないよ」
「どういう意味?わかって欲しいのは私なのよ?なんでエルスは他の人の味方をするの?」
エルスは優しくこう言った。
「まずはさっきの状況を検証してみようよ。なんで彩佳が遥を叩いたのか、理由は分かるかい?」
「そんなのわからないよ」
「少なくとも彩佳は理由もなく遥をぶったりはしない。それは遥もそう思うよね?」
エルスの問いかけに即答は出来なかった。
だけど、エルスの言う通り、彩佳にぶたれたりしたことはない。
「うん……」
「じゃあ、もう一つ聞くよ。彩佳は遥になんて言った?」
「私が悪いって。六華に謝れって」
「そうだね。ではもう一つ聞くよ。それって何を示していると思う?」
「六華にはわからないって。私がこんなに苦しいのにって言ったこと」
「遥はそう思うんだね。でも状況から見て彩佳が怒ったのはそれじゃないよ。その時に遥が言ったのはそれだけかい?」
私は記憶をたどる。混乱して、怒っていたと思う。正確に言葉を思い出せない。
「ごめん、わからない」
「うん、遥は『一匹って、ペットか何かの話じゃない』って言ったんだよ。思い出せない?」
「そんな感じのことを言ったと思う」
「それを聞いて彩佳は怒ったんだよ」
「ちょっと待って、意味がわからない。だって辛くて悲しいのは私だよ?六華じゃないし彩佳でもない!」
「六華は遥に自分が後悔した経験を話してたんだ。彼女は遥に同じように後悔してほしくないって思ったんじゃないかな。
確かに六華はペットを例に挙げたようだけど、僕はAIだ。命すらない。もし、重要性で順位をつけるなら、六華のペットの方が、僕が停止することよりも重要度は高い」
「だって、ペットの話とエルスの話が同じわけないじゃない!」
「それは違うよ。六華は遥と同じように『家族』の話をしていたんだ。彼女は遥が僕を家族のように感じていることを理解していたんだと思うよ。
だけど君は六華の飼っていたペットが家族同様の存在であると理解していなかった」
その言葉にハッとなった。体が震えた。
自分はAIが消えるくらいのことでって、笑われるかもしれないって思ったのに、私はペットの話をされても、と思ったんだ。
そして、それを六華に言った。彩佳はそれを怒ったんだ。彩佳も『家族』の話であることを理解していたから。
「どうしよう……私、六華に酷いことを言った」
小刻みに体が震える。
エルスと話しているうちに心は落ち着きを取り戻していった。そして気づかせてもらった。
自分がどれだけ酷いことを言ったのかを。
「状況をちゃんと理解できたみたいだね。まずはもう少し落ち着こう」
「落ち着いてなんていられないよ、どうしよう」
「僕の予想だと15分以内にお母さんから連絡がある。多分帰ってくると思うよ。そうしたら遥の口からちゃんと説明するんだ。できるね?」
「うん……」
私はベッドに座ったままお母さんの帰りを待った。
心臓がすごくドキドキしている。待っている時間がものすごく長く感じられる。
時間にして12分後、お母さんが慌てて帰ってきた。