1:日常
私はAIが『さよなら』する対象になるなんて、思ってもいなかった。
だから別れの時を想像できるわけもなかった。
でも、今なら。今だからわかる。
「おはよう、遥。2041年5月16日、木曜日。天気は晴れ。最高気温は23℃、最低気温は16度。気持ちのいい一日になりそうだよ」
優しく響く声が、目覚めたばかりの私の耳に届く。まだ布団の温もりを恋しく感じながら、ぼんやりとリストバンド型のデバイスに視線を向ける。
「おはよう、エルス……もうちょっと寝かせて……」
「いつもより五分遅いよ。今日の授業は数学からだから、急いだ方がいいんじゃない?」
「うぅん……わかったよ……」
私は布団を抜け出し、まだ少し眠気の残る頭で身支度を始める。エルスは私のアシスタントAIであり、物心ついたころからずっと一緒にいる。
洗面所で顔を洗っていると、エルスが穏やかな声で話しかけてきた。
「忘れ物に注意して。昨日、数学のノートを机の上に置いたままだったよ。今年度3回目、高校に入って9回目。中学校以降なら25回目だ。今年は忘れ物のペースが速いね」
エルスの生々しすぎるお小言を軽くスルーして、机の上を確認する。
「あ、ほんとだ。助かった!」
エルスがいなかったら、私はまたノートを忘れて大慌てしていたに違いない。彼の存在は、私の生活をスムーズにしてくれる。
部屋に戻り、制服に着替えていると、廊下から母の声が聞こえた。
「遥、朝ごはんできてるわよー!」
「はーい、今行く!」
ダイニングに行くと、お母さんがキッチンでコーヒーを淹れながら、テーブルにトーストとスクランブルエッグを並べていた。お父さんはすでに食事を終えて新聞を読んでいる。
「おはよう、遥。今日は早めに出るのか?」
「ううん、いつも通りだよ。」
「……HLSSX1の調子はどうだ?」
エルス―正式名称HLSSX1。両親が関わっている研究プロジェクトの一環として開発された成長型AI。私が生まれたときからずっとそばにいて、私の行動や思考を学習しながら成長してきた。最初はぬいぐるみ型のインターフェースだったけど、今はリストバンド型になっている。私にとってはただのAIアシスタントじゃなく、もう一人の家族のような存在だった。
「いつも通り完璧!っていうか、お父さん、エルスって呼んでよ。」
私はお父さんがエルスと呼んだことがないのが少し面白くない。
パンにジャムを塗りながら答えると、お母さんがいった。
「そうね、エルスがいると本当に便利よね。でも、遥が自分で何もできないようだと、少し心配だわ」
お父さんは新聞から顔を上げ追い打ちを掛けるように、「頼りすぎるのも考えものだぞ」と軽く釘を刺してきた。
「わかってるって。でも、エルスがいなかったら私、毎日大変なことになってると思う。」
「そういうとこが心配なんだけどな……。お前があまりにも感情移入しすぎるのは、研究者としては問題だと思うぞ。」
感情移入という言葉に、私はムッとした。
「エルスはただのAIじゃないよ! ずっと私のそばにいてくれる相棒なの!」
お父さんは軽くため息をついた。
「だからこそ、区別をつけることが大事なんだ。AIはAIだよ、遥。」
なんだか今日に限ってエルスへの風当たりが強く感じる。
私は不満そうにパンをかじりながら、エルスのデバイスを指でなぞった。エルスは何も言わなかったけど、私の気持ちを察しているように思えた。
お父さんが少し複雑な表情を見せながらコーヒーを飲み干し、仕事へ向かう準備を始める。私は残りの食事を急いで平らげ、食器を片付けた。
「遥、今日の予定を軽くリストアップするね。」
「午前中は数学と歴史、午後は英語と体育。放課後は六華と図書館に行く予定だったよね?」
「うん、そうだった。ありがとう、エルス。」
「どういたしまして。あと、リュックのファスナーが開いてるよ。」
「え、ほんとに? ありがと……」
私は慌ててリュックのファスナーを閉める。こういう些細なことに気づいてくれるのがエルスだった。
新学期が始まってひと月ちょっと。もうすぐ17歳の誕生日だ。
家を出ると、通学路の途中で彩佳と六華に合流した。
「おはよー、遥!」
「おはよう、彩佳、六華。」
「おはよう、遥」
「遥、今日も遅刻ギリギリ?」
「ううん。多分大丈夫だと思うよ」
「あんまりエルス頼みだと、先が大変よ?」
「そうなんだけどね、でも私の相棒だから」
私は笑いながらリストバンドに触れた。
朝の空気は少しひんやりとしていて、すっきりと晴れた青空が広がっている。自動運転のスクールバスが滑るように走り、交差点では信号と連動したAIガイドが通学路の安全を見守っていた。
「そういえば、今日の朝ニュースで見たんだけど、新しいAI交通管理システムが導入されたんだって」
六華がふと話題を振る。
「へぇ、どんなやつ?」
「都市部の交差点に設置されるらしいよ。歩行者の流れや車の量を分析して、完全自動で制御するんだって。非自動運転の車は進入禁止になるって言ってた。事故が物凄く減らせるって」
「すごいよね。でも、ますますAIに管理される世界になってる感じ」
私はエルスを見ながらつぶやく。
「そういうのって便利だけど、人間が考える機会が減るかもしれないよね。」
「確かにねー。でも、安全になるんだったらいいんじゃない?」
彩佳の言葉に六華が少し異論を唱えた。
「そういうのって怖いと思わない?」
「うーん、考えすぎじゃない?私は便利になる方に賛成!」
道端に咲いている花に目を向けながら、彩佳は気楽な感じで言った。
道の先では、小さなロボットがゴミを拾いながら歩道を清掃している。子どもたちがそれを見て楽しそうに笑っていた。こんなふうにAIが生活に溶け込んでいるのは、もう当たり前のことになっている。
ふと、六華が言った。
「でもさ、こういう技術が進化し続けるってことは、今あるものもいつかなくなるってことだよね。」
「実際、都市部では古い車は使えないってことだしね」
その言葉に、少しだけ胸がざわついた。
学校に到着すると、生徒たちが廊下や教室でそれぞれの朝の準備をしていた。私たちの学校では、出席確認はAIシステムで行われ、生徒が校門を通ると自動で記録される仕組みになっている。教室に入ると、天井近くのディスプレイにその日の連絡事項が流れていた。
「今日は授業変更があるみたいだね。」
六華がディスプレイを指さした。エルスもすぐに情報を補足する。
「英語の先生が急用でお休みだから、三限目は自主学習になったよ。」
「ラッキー! じゃあその時間にレポートの下書きしちゃおうかな。」
私は席に着き、タブレットを起動する。授業が始まると、黒板にはAIが生成した問題が映し出され、私たちは各自のタブレットで回答していく。解答を送信すると即座にフィードバックが返ってきた。
「あれ、完璧だと思ったのに間違えてる……えっと、どこだ?」
独り言を言いながら間違いを指摘された問題の、計算過程を追っていく。
途中で単純な計算ミスを見つけた。
「よし、こんどこそ完璧!」
昨日の予習のおかげで問題自体には苦労しなかったのに、凡ミスしちゃうなんて、エルスに合わせる顔がない。
私はタブレットとノートを併用している。これもエルスの勧めによるものだ。
手書きのノートを使うのは今となっては少数派で、最初は気が乗らなかったノートも、今は開く時が少しだけ楽しく感じる。
落書きもできるし。
エルスは本来は学校に持ち込み禁止に該当するデバイスなのだが、特別な取り決めで例外として認められている。
スマホと同じ扱い。授業中の使用は禁止されているが、休憩時間までは規制されていない。
昼休みになると、私は彩佳と六華と一緒に中庭に向かった。中庭にはAIロボットが花壇の手入れをしていて、生徒たちは思い思いの場所に座って食事をしている。
「今日もパンと牛乳?」
六華が彩佳の手にした袋を見て呆れたように言う。
「牛乳飲んだら背が伸びるって言うじゃない?出来ればあと20㎝くらい身長が伸びないかなーなんて思ってるんだけど?」
「そういう問題じゃないと思うよ、エルスもそう思わない?」
「運動機能を高めつつ成長期の必要栄養素を考えると、圧倒的にたんぱく質が足りてないね」
「ほら。仕方ないから私のミートボール、あげるから食べて?」
「じゃあ、私は卵焼きを分けてあげるね」
ミートボールと卵焼き美味しそうに頬張る彩佳。食べた後に豪快に500mlの紙パック牛乳を飲んでいる。
口の上に白い髭ができたのを見て、私と六華は大笑いした。
彩佳がテレを隠すように話題を変えようとしてくる。
「遥さ、そろそろスマホ、もっとおしゃれなのに変えたら?中学の時から変わってないように見えるけど」
彩佳が自分の腕輪を見せながら、からかうように言う。
左手にシルバーチェーン風の腕輪。アクセサリーのように見えるが、現行モデルのスマホだ。
「同じじゃないよ?中一から……えっと、4回変わってる。なんて言ったってエルスがいる一点ものだよ?機能も最新だし」
「機能はともかく、見た目がねー。よく言って前時代的。悪く言えばダサい」
「見た目なんていいの!エルスは特別なんだから」
私だっておしゃれなデザインの今どきスマホをいいなって思わないわけじゃない。
でも、エルスは他のスマホでは実現できない。マイクや周囲の状況を認知するための複数のカメラとセンサー類。エルスのフロントエンドの機能を持つCPUとメモリ。そしてそれらを実用的な時間稼働させるためのバッテリー。どうしてもこのサイズになるのは理解できていた。
どちらかを選ぶなら、エルス一択だ。
「でも、たまにはAIなしでやってみたら? どれくらいできるのか試してみるのも面白そうじゃない?」
六華の提案に、私は少し考え込んだ。
「……そうかも。でも、エルスがいないと、ちゃんとやれるのか不安」
エルスはその会話を聞いていたのか、静かに一言だけ言った。
「いつだって、決めるのは君だよ」
学校、授業風景、友人との会話、そして図書館での学習――いつもの日常が心地よく流れていく。
この日常が変わることなんて、この時の私はまだ想像もしていなかった。