第一話 :ブラック研究室で死にかけて、目覚めたら異世界でした》
──私、死んだ?
ぼんやりと開いたまぶたの奥、ぼやけた天井がゆらゆら揺れる。
無機質な蛍光灯のはずが、代わりに見えたのは古びた木製の天井と、淡く瞬く……魔法陣のような光。
「……なん、で……?」
言葉が口の奥で引っかかる。
体が動かない。頭が重い。胸の奥がひどく息苦しい。
記憶を探るようにまぶたを閉じる。
──研究室。実験。提出期限。徹夜。パワハラ。胃痛。栄養ドリンク。締切。上司の怒鳴り声。
(ああ、やば……途中で……倒れたんだっけ)
真っ白に燃え尽きた脳が、そこでようやく思い出す。
そう、私は物理系の大学院に通う理央。
そして最後に見たのは、エラー音と共に爆発した実験装置だった──。
「……っ!」
バッと体を起こす。
瞬間、視界が暗転し、何か柔らかいベッドのようなものに背中から倒れ込んだ。
「目覚めましたか、転移者さま」
「……は?」
目の前にいたのは、ローブ姿の銀髪の青年。
人間離れした端正な顔立ちに、青い瞳。まるでRPGの賢者のようだ。
「お身体の調子はいかがですか? あなたはこの〈エルスタリア〉王国へ召喚されたのです」
召喚……? 転移……? エルス……なに?
「──異世界、ってこと?」
「ええ。あなたはこの世界を救う可能性を持つ“勇者候補”のひとりです」
勇者?
いやちょっと待って、私、物理学の博士課程の途中なんだけど。
論文もまだ通ってないし、そもそもレッドブルの在庫が底をついてたし──。
「……冗談にしては、出来が良すぎない?」
ひくりと、理央の口角が引きつる。
だが、体の感覚も景色も匂いも、夢にしてはリアルすぎる。
──そしてその翌日、彼女は“魔力量測定”という試験に通される。
「測定結果……魔力量、ゼロ」
「ゼロ……? 本当に?」
「まさか……魔力量ゼロの転移者なんて聞いたことないぞ」
測定室にざわめきが広がる。
中央に浮かぶ魔力結晶は、まるで壊れた機械のように、一切の反応を見せなかった。
隣で魔法使いらしい老人が、肩をすくめて言う。
「残念ですが、彼女は“魔法を使えない”存在のようです」
「そんな……まさか、選ばれし転移者なのに?」
「選ばれし“はず”だった、だな。まあ、使えないなら仕方ない」
「元の世界に送り返せないのか?」
その場にいた人々が、好き勝手なことを言い始める。
だが、理央はその輪の中にいながら、まったく別の視点で騒動を見ていた。
(この測定装置……あまりにアバウトすぎない?)
理央の目は、測定装置の構造に釘付けだった。
魔力を測るというその機械(?)は、浮遊する魔導石と魔法陣で構成されているが──
その“原理”が、説明されないまま結果だけが信じられていた。
(出力系が自己回帰的……? これ、測定器じゃなくて共鳴器か何かじゃ?)
理央の研究者魂に、火がついた。
(なるほど。この世界、魔法が使えるとかいう話以前に、構造定義が雑すぎる)
彼女は測定結果に落ち込むどころか、目を輝かせていた。
「つまり──“定義がされてない”のよ。魔法が。構造式も。測定理論も」
理央はふっと笑う。
「だったら……私が定義してあげる」
これは、世界の常識を書き換える最初の一歩。
魔法が“感覚”で使われてきた世界に、彼女は“理論”と“数式”を持ち込む。
「魔力量ゼロ? いいじゃない。
──ゼロから始める、魔法の再定義。面白そうじゃない」
そうして一ノ瀬理央は、誰も知らない魔導理論への第一歩を、静かに踏み出した。