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星降る箱館、澪の誓い

作者: メーアニー

第一章 北の涯にて


――暁の光は、まだ遠かった。


雪混じりの風が、荒涼とした蝦夷の大地を容赦なく吹き抜けていた。

箱館の海は灰色に渦巻き、五月の終わりとは思えぬ冷たさが、戦いに疲れ果てた兵士たちの肌を刺す。


砲声が遠くにこだまし、煙が微かに五稜郭の屋根を覆っている。

兵士たちの肩に積もる埃と疲労。

彼らは、それでも命じられた砦を守ることだけに全身を傾けていた。


五稜郭の一角、質素な板張りの部屋の中で、土方歳三は黙って硝子窓越しの空を仰いでいた。

外は薄曇りで、遠く函館山の影が青くかすんでいる。

頬に残る傷の疼きも、もう慣れてしまった。

「……近藤さん。俺は、もう一度、江戸へ戻れるのだろうか」


ふと、口をついて出たその言葉が、静かな空気に吸い込まれていった。

かつての新選組――誇り高き隊士の絆や、京都の町を駆け抜けた日々――全てが遠い夢のように思える。

戦況は日々悪化し、新政府軍は陸と海から圧倒的な兵力で迫ってきている。

兵たちはみなやつれ、負傷者は増え続け、弾薬も食糧も尽きかけていた。

だが、歳三の胸に去来していたのは、ただ戦の行方ばかりではなかった。


――彼女。


あの奇妙な女と出会ったのは、ほんの数日前のことだった。

夕刻、巡察を終えて砦に戻ろうとした歳三は、松林の傍らに、見慣れぬ人影を見つけた。

黒髪は肩口で乱れ、異国風の布地の衣服――少なくとも、この時代の蝦夷地にはあり得ぬ姿。

彼女はうっすらと雪に濡れ、力なく倒れていた。


「大丈夫か」

歳三がそう問いかけると、女はゆっくりと顔を上げた。

凍てつくような空気の中、その瞳だけが不思議な光を宿していた。


「ここは、どこですか」

はっきりとした標準語、どこか異国訛りすら感じさせる響き。


「ここは箱館だ」

女は、小さく首を振った。「そんなはずはない……私、確かに……令和の、東京で……」

「令和?」

歳三は、耳慣れぬ単語に眉をひそめる。

女は混乱していた。

だが、尋問にも耐え、どこか遠い目で、箱館戦争や新選組について語る知識――それは到底、この時代の女性に知り得るはずのないものだった。


その夜、彼女を砦の離れにかくまった。

江戸育ちの歳三には、戦場で女を助けることがいかに危険かわかっていた。

それでも、あの時の彼女の瞳が、どうしても脳裏から離れなかった。


---


「名前は?」

「……澪。澪、と呼ばれていました」


その名に、歳三はどこか懐かしい響きを覚えた。

「令和という時代から来た、と……それは、どういう意味だ?」

澪は躊躇いがちに、だが真剣な眼差しで語り始めた。

彼女の話は夢物語のようだった。

時空を超えてこの時代に来てしまったこと、元の世界では箱館戦争も新選組も“歴史”として語られるものであること――

スマートフォンと呼ばれる小箱を見せて、「これが未来の道具です」と呟いた。

光る画面、映し出される色鮮やかな画像や文字。

最初は新政府の間者か、あるいは異国のスパイかと疑った。

だが、その恐怖や戸惑い、涙まじりに“令和”という言葉を繰り返す澪を見て、歳三の疑念は徐々に溶けていった。


「……なぜ俺のことを、そんなに詳しく知っている」

「歴史の教科書で読みました。でも、実際に会ってみると、あなたは……人間らしくて、すごく、優しい目をしていて……」


歳三は苦笑した。

「優しいだと? 俺は人斬りと呼ばれてきたんだぞ」

澪は首を振った。

「本当は、違うと思います。あなたは、誰よりも仲間や信念を大切にしている――そういう人だと、私は思う」


暫しの沈黙。

部屋の外では、夜警の交代を告げる声が響いている。


---


数日が過ぎた。

澪は、静かに砦の生活になじもうとした。

持ち込めるものはわずかだったが、彼女は包帯巻きや簡単な炊事、怪我人の世話を申し出た。

「なぜ、そんなに懸命に働く?」

歳三が問うと、澪は小さく笑って言った。

「私には、何もできないと思っていた。でも……今、あなたたちと一緒に生きている、この時間だけは、未来の私にとって大切な記憶になる気がするんです」


戦況は日々悪化し、五稜郭の外では砲撃の音が絶えなかった。

澪は度々外を見つめては、何かに怯えるような顔をする。


「未来を知っているなら、俺たちの運命も――知っているんだな?」

歳三が静かに尋ねた夜、澪はしばらく沈黙した後、ぽつりと言った。


「はい……知っています」

「……俺は、ここで死ぬのか」

澪は膝の上で拳を握り締める。

「でも、私は、あなたに生きてほしいんです……」


窓の外は、遠くで火の手が上がっていた。

時折、遠雷のような大砲の音がこだまし、砦の空気は張り詰めている。


歳三は悩んでいた。

かつて江戸の町で、剣一本で世を渡り、同志と共に“誠”の旗のもと、死地を越えてきた自分。

それが今、たった一人の女のために、戦う理由さえも揺らぎそうになっている。

「俺は、何を守ろうとしているんだ……」


時折、澪と共に歩く裏庭で、彼女は未来の話を語った。

「この戦争は、やがて終わります。けれど、新選組は――あなたは、伝説になるんです」


「伝説、か……そんなものになって、何の意味がある」


「意味があるかどうかを決めるのは、きっと生きている人たちです。歴史は、いつも残された者が書きますから」


歳三は深く息をついた。

彼女の存在が、己の運命の枷を断ち切るものなのか、それとも新たな鎖なのか、まだ分からなかった。

ある日、澪はそっと言った。

「歳三さん、もしも……もしも、あなたが生きて未来に行けるとしたら、何をしたいですか?」


歳三は、しばらく考え、そして微笑した。

「生きて未来に……? さあな。俺はこの時代しか知らねえし、剣しか知らねえ。ただ……」


ふと、澪の目をまっすぐに見つめる。


「今は、お前とこうして話しているこの時だけで、十分だ」


澪の頬が紅くなった。


歳三は、無意識のうちに微笑む自分に気づいた。


外ではまた一陣の風が窓を叩きつける。

その風は、時代を越えた新たな運命の扉を、静かに、だが確実に開けようとしていた――。


第二章 運命の流転


「この戦いは……無駄になるのですか?あなたたちの死は、歴史から消されてしまうのですか?」


澪の言葉は、夜明け前の静寂を切り裂くように土方歳三の胸に届いた。

その一言は、澪自身の涙と同じ重さで、土方の心を深く、静かにえぐった。


暁を待つ箱館の空はまだ暗く、遠くで時折、砲声が響く。

五稜郭の廊下には湿った空気が漂い、灯りの揺れる影が土方の横顔をぼんやりと照らしていた。


土方は無言のまま、手にした煙管を弄んだ。

硝子越しの夜空には、見えない星がきっとどこかに瞬いているはずだった。

「何が無駄で、何が意味あることかなんざ、俺にはわからねえ。ただ、俺たちには、今を戦う理由がある。それだけだ」


言葉にした途端、自分の声がひどく遠く、虚ろに思えた。


澪は膝の上で拳を握りしめたまま、長い睫毛を震わせている。

「歴史の本には、あなたたちの名前は残ります。でも、どんな思いで生きて、どんな覚悟で戦っていたかなんて、ほとんど伝わっていないんです。私は、ただの通りすがりの旅人です。あなたたちの痛みも、誇りも、未来の人は本当にはわかっていない……」


歳三は静かに咳払いをした。

「なら、お前は何のためにここへ来たんだ?」


澪は少し考えてから、真剣な瞳で言った。

「たぶん、あなたに会うためです――未来の誰かが、本当はあなたたちのことを見ている、あなたの戦いが確かに誰かの心を動かしていると伝えるため……かもしれません」


土方の胸に、得体の知れない熱が灯るのを感じた。

澪は、この戦場において異質な存在だった。

五稜郭の粗末な廊下を歩く彼女の姿は、いつも物静かで、どこか儚かった。

けれど、その目は確かに、何かを“見る”目をしていた。

彼女が傷病兵に寄り添い、口元を引き結びながら手当をする姿に、兵たちは最初は警戒しつつも、次第に打ち解けていった。


「お前は、怖くないのか。戦が、死が、すぐそこにあるぞ」

夜、薄暗い灯りの下で土方が尋ねた。


澪は小さく首を横に振る。

「怖いです。私は、誰かの死も、血も、見たくありません。でも、何もせずに見ているほうがもっと怖い。……私は、未来で、たくさんの戦争や悲劇の記録を本で読んできました。でも、実際の痛みや苦しみを、こうして近くで感じたことはなかった。だから、ここであなたたちと生きることは、私にとっても意味があることだと思うんです」


「……お前は変わっているな」

土方は苦笑しながらも、どこか羨ましげな眼差しを咲に向けた。


数日が過ぎた。

新政府軍の圧力は日増しに強まった。

砲弾は五稜郭の壁を砕き、負傷者が増え、兵糧は尽きかけていた。

それでも歳三は、日に何度も砦の巡察を怠らなかった。

澪は、そんな彼の後ろ姿を見つめ続けていた。


「歳三さん、あなたがいなかったら、きっとみんなすぐに折れてしまうんですね」

澪はある日、傷の手当をしながらそう言った。


土方は首をすくめて言った。

「俺は、新選組の“鬼”と呼ばれた男だ。優しさなんてものは、戦場には不要なんだよ」

「でも、私はあなたの中に、仲間を想う温かさを感じます」

「……どうだかな」

その声は、どこか自嘲的だった。


---


澪は、何度も歳三に問いかけた。

「死なないでください」

「未来はあなたを待っているんです」

「あなたには、この時代の枠を越えて生きてほしい」


そのたびに歳三は、苦々しげな顔で視線を逸らした。

だが、澪の真剣な眼差しに触れるたび、自分の心の奥に揺らぎが生じるのを否応なく感じていた。


夜更け、澪は歳三の部屋の前で立ち尽くしていた。

戸口越しに、灯りの揺れる影が壁に映っている。

「……少し、お話してもいいですか」


「構わねぇよ」


澪は小さな箱――スマートフォンを手にしていた。

その画面には、鮮やかな光の粒が瞬いている。

「これが、未来の記憶なんです。写真や言葉や、すべてがこの中に入っています」


歳三はそれを見つめ、しばし沈黙した。

小さな画面に、桜の咲き誇る京都、夜明けの浅草、令和の高層ビル群――異国の景色にも似た、時代を超えた情景が映し出される。


「これが、お前の生きていた世界か」

「はい。でも、どこか寂しいです。ここには、あの時代の息遣いや、あなたたちの声や熱が、もう残っていませんから」


歳三はそっと、箱を澪の手ごと包むようにした。

「……お前の世界では、俺たちは、どんなふうに語られている?」


「伝説です。勇敢で、誠実で、最後まで信念を貫いた人として。けれど、本当のあなたたちの“心”までは、きっと伝わっていません」


土方は、深い溜息をついた。


「伝説、か。そんなものは、死んだ者の飾りだ。生きている間に何ができるか、それだけが、俺たちのすべてだと思っている」


澪は、小さく嗚咽を漏らした。

「でも、私は、あなたが生きる未来を見たい。……運命は、変えられるかもしれないと思うんです。もし、あなたがこの戦場から逃げて、別の人生を選んだら……」


土方は静かに首を振る。

「俺の居場所は、ここしかない。仲間も、己の誇りも、すべてを賭けて生き抜く。それが、俺の選んだ道だ」


「……その先に、死が待っていても?」

「死ぬ覚悟は、とうにできている」

「でも、私は……」


澪の言葉は、そこで途切れた。

澪は、その夜、五稜郭の裏手の松林を歩いた。

静かな夜風に、遠い国の花の香りが混じる気がした。

思わず涙が頬を伝った。


(私は……この時代に来た意味を、見つけたい。歳三さんを失いたくない。けれど、彼の運命を変えることで、本当に未来が救われるのだろうか)


彼女は、眠れぬ夜を何度も過ごした。


ある日、砦に激しい砲声が響き渡った。

新政府軍の進撃はさらに苛烈になり、負傷者が続出した。

咲は必死で包帯を運び、兵たちの傷を洗った。


「これじゃあ、持たねぇぞ……」

副長格の隊士が呻く。

歳三は叫んだ。「負けるつもりで戦う奴は、今すぐ去れ!」


その眼には、鬼気迫る光が宿っていた。

それでも、澪は彼の背中から目を離さなかった。


夜、澪は意を決して歳三に告げた。


「私は、未来からきたから、あなたの最後を知っています。だけど、私はその未来が間違っていたらいいと思っている。あなたがこの戦場を生き抜いて、違う運命を選ぶところを見てみたいんです……」


歳三は、その時初めて、苦しげな笑みを浮かべた。


「ありがとう、澪。でも、俺の生き方はきっと変わらねぇ。――それが俺の、誇りなんだ」


澪はその手を握った。

「たとえ一日でも、一時間でも、あなたと生きていたい。未来に戻る時、私はあなたの声や温もりを胸に刻んで生きていく」


「……澪、お前は強いな」


「違います。私も弱い。あなたを守れないことが、怖いんです」


二人はしばらく無言で寄り添った。

外では、遠く砲火が夜空を赤く染めていた。

澪は、覚悟を決めた。

運命に逆らってでも、土方歳三を救いたい。

けれど、彼の意志の強さも、歴史の流れも、どうしても変えられないのかもしれない。


その夜、澪は日記を書いた。


――運命とは何だろう。

私は未来から来て、すべてを変えられると信じた。でも、彼が選ぶ道は、彼だけのものだ。

私はただ、彼と過ごす一瞬一瞬を、胸に刻みつけたい。

彼が“生きていた”ことを、未来で必ず伝えたい。

私にできることは、彼を愛することだけ――


澪の涙が紙を濡らした。

夜が明けていく。

五稜郭の上空に、かすかな暁の光が射し始める。

土方歳三は、窓の外をじっと見つめていた。

その背中には、かつて見たことのない柔らかな影が差している。


彼はまだ、戦士であり続ける。

けれど、澪と出会ったことで、心の奥に新たな痛みと、温かな光を抱えていた。

(たとえ運命が変えられなくても、俺は最後まで、お前のために生きてみせる)

箱館の空には、春の名残の星が、微かに瞬いていた――。


第三章 愛と誓い

二人の間に芽生えたのは、時代もことわりも超えた、淡く、けれど燃えるような愛だった。


五月の箱館は、いつになく風が冷たい。新政府軍の包囲網がさらに狭まり、五稜郭の砦にも、常に焦げた硝煙の匂いが染みついている。澪は、傷病兵の看護に奔走しながらも、心のどこかで歳三の姿を探し続けていた。


砦の小さな庭に咲く、雪をまとった薄紫の野草。

澪は、それをひとつ摘み取り、袖のなかにそっとしまった。


その夜。

五稜郭の一室で、歳三は澪を静かに迎え入れる。


「澪、お前、最近寝てないだろう。目の下に隈ができているぞ」


澪は微笑んで首を横に振った。「私のことより……歳三さんこそ、怪我はもう大丈夫ですか」


「かすり傷だ。こんなもの、昔は毎日だった」


歳三は乱暴に笑ったが、澪には彼の強がりがわかっていた。

そっと彼の袖を掴むと、歳三はふと真剣な顔になる。


「澪。……俺は、侍としてずっと戦ってきた。近藤さんや沖田、皆と共に幕府を守り、誠の旗を掲げて……でも、気がつけば、こうして北の果てで、負け戦のなかにいる」


澪は息を呑んだ。


歳三は続ける。「本当は、怖いんだよ。負けるのも、死ぬのも。……けど、それ以上に怖いのは、何のために生きたのか、自分でもわからなくなることだ」


澪はそっと、彼の手を握る。


「歳三さん、あなたは……何も間違っていません。私が未来で知っているのは、あなたが最後まで誇りを失わなかったこと。それだけです」


歳三は俯き、小さく笑った。


「誇り、か……それが残るなら、いいんだろうな」


二人の間に、静かな沈黙が流れた。


戦火の隙間に、短い逢瀬がいくつも訪れた。


ある日、澪は五稜郭の裏庭で、歳三と二人きりになった。


「私、子どものころから歴史が好きでした。けれど、どんなに本を読んでも、“その時代に生きた人の気持ち”までは想像できなかった。今、こうしてあなたといると、すべての歴史が“生きたもの”に思えてきます」


歳三は、優しく澪の髪を撫でた。「生きてみなけりゃ、分からねえこともあるさ。俺も、剣の道を選んだ時は、こんな終わりが待ってるとは思わなかった」


澪は、小さな声で囁く。「もし……もしも、もう一度生まれ変われるなら、どんな人生を選びますか?」


歳三はしばらく考えて、青い空を見上げた。


「もう一度か。……そうだな。もし、お前みたいな女と、平凡に暮らせるなら、それも悪くない」


澪は泣きそうな顔で微笑んだ。


戦況は悪化の一途をたどった。新政府軍の猛攻撃に、味方の砦は一つまた一つと陥落していく。五稜郭の中にも、不安と絶望が静かに広がり始めていた。


そんな夜、歳三は澪にすべてを語った。


「俺には、背負ってきたものが多すぎる。侍としての誇りも、仲間への想いも、江戸への未練も、全部捨てきれないまま生きてきた。でも――」


歳三は深く息を吸い、澪を真っ直ぐに見つめる。


「お前と出会って、初めて、自分が“誰かのために生きたい”と思った」


澪は涙をこらえきれず、肩を震わせた。


「私は何もできない。歴史を知っていても、あなたを救えない……」


「いいんだ、澪。お前が、そばにいてくれるだけで、俺は……」

歳三は澪の手を両手で包み込む。


「それだけで、もう十分だ」


澪は嗚咽を漏らしながら、彼の肩に顔をうずめた。


やがて、運命の日が近づく。


新政府軍は総攻撃の準備を進めていた。砲声は一層激しくなり、五稜郭の壁は崩れ始めていた。兵士たちの間にも、もはや“勝利”という言葉はなくなっていた。


歳三は、自ら最前線へ赴き、部下たちに檄を飛ばす。


「諦めるな! 俺たちは、最後まで誠を貫くんだ!」


その背中を、澪は遠くから見つめていた。彼女の心には、涙と誇りと、どうしようもない恐怖が入り混じっていた。


――この人は、本当にここで死んでしまうのか。


澪は、未来の歴史を何度も思い返した。教科書に載る“土方歳三の死”。

だが、いくら記録をたどっても、その“心”だけは、未来には残らない。


だからこそ、澪は覚悟した。

たとえ歴史が変わらなくとも、自分だけは歳三の生き様を胸に刻み、未来で語り継ぐのだと。


砲声が止んだ夜、五稜郭の本丸は一瞬の静寂に包まれていた。


澪は歳三の元にそっと足を運んだ。

夜更けの灯りに照らされた土方の横顔は、どこか少年のように優しかった。

歳三は黙って澪の方へ手を伸ばし、そっと引き寄せる。


「澪、お前が未来の人間だと知った時、最初はただ戸惑った。だが……今は違う。お前とこうしていると、運命も歴史も、すべてが遠く感じる」


澪は震える声で言った。

「私もです。あなたと過ごす今が、私のすべてです。だけど……私はあなたを救えない。運命を変えられない自分が、悔しくてたまらない」


歳三は澪の涙をそっと指先で拭った。


「運命なんてものはな、もともと己で選んできたつもりだ。誰のせいでもねえ。お前がここにいてくれるだけで、俺は生きてよかったと思える」


二人はそっと唇を重ねた。

戦火の中に生まれた静かな温もりが、ふたりの心を繋いでいた。


翌日、歳三は自ら志願して出陣の先頭に立つことになった。


「無茶だ、副長!自ら前線に出るなんて……」


古参の隊士、が制止するが、歳三は静かに首を振った。


「俺が行かねば、皆が保たねえ。俺が“誠”の旗だ」


澪は遠くから、その背を見送るしかできなかった。

自らの手の中で温もりの余韻を感じながら、ただ、静かに祈るしかなかった。


戦闘の合間、歳三は澪の元に戻った。

傷だらけの顔に、ほんの少し安堵の色が浮かんでいた。


「澪……お前がいてくれてよかった。俺は弱くなったかもしれねぇな」


澪は首を振った。「違います。あなたは今、一番強いと思う。誰かのために生きたいと思うのは、きっと本当に強い人だけです」


歳三はしばらく黙ってから、ポツリと呟いた。


「……お前が未来に戻ったら、俺のことをどう語る?」


「私は……きっと、こう言います。“土方歳三は、最後の侍だった。愛することを知った、本当の人間だった”って」


歳三は微笑み、澪の手を握りしめた。


「それで十分だ」


その夜、五稜郭の外れでふたりきりになった。


星明かりの下、歳三は己のすべてを語り始めた。

近藤勇のこと。

沖田総司のこと。

剣の道を選んだ少年の日々。

京の町で、仲間と共に駆けた栄光と苦しみ。

新政府軍との抗いようのない力の差と、敗者としての孤独――


「……今でも夢に見る。近藤さんともう一度話せたらと。総司が元気だったころの新選組に戻れたらと、未練がましく思う夜がある」


澪はそっと歳三の肩に頭を預けた。


「私は、あなたがその未練を抱えたままでもいいと思う。あなたのすべてが、私にとって誇りです」


二人は静かに時を過ごした。

外では砲声が遠ざかり、ただ風が松林を揺らしていた。


数日後、五稜郭に運命の日が訪れる。


澪は、歳三のもとへ最後の想いを伝えに行った。

「……約束してください。私が未来に戻った時、あなたの生き様を絶対に忘れないって」


歳三は大きく頷く。「俺も約束する。お前がいる限り、俺の人生は消えねぇ。……澪、お前と出会えて、よかった」


澪は涙を堪えながら、彼の胸に飛び込んだ。


「私は、どんな未来でもあなたを愛しています。生きていてくれて、ありがとう」


そして夜明け、総攻撃の火蓋が切られた。


歳三は誠の旗を高く掲げ、仲間たちとともに戦場へと駆け出す。

澪は、砦の片隅で彼の背中を見送りながら、祈り続けた。


(この愛と誓いは、たとえ時代が消し去っても、私の胸に永遠に生き続ける)


夜空に、遥かな未来の星が、ひときわ強く瞬いていた。


砲声が本格的に五稜郭を包囲し始めたのは、五月中旬、肌寒い雨が三日も続いたころだった。

夜明けとともに大砲の咆哮が轟き、石壁を揺らすたびに砦の中では瓦が落ち、床板が震えた。

兵士たちは黙々と持ち場につき、汗と血のにおいが蔓延する本丸には、重苦しい沈黙が張りつめていた。


澪は包帯や薬壺を両手に抱えて走り回り、負傷者の呻き声と格闘していた。

砲撃の合間に、小刀で服を裂き、傷を洗い、手を震わせて縫合する――何度も嘔吐しそうになるのを、澪は歯を食いしばって耐えた。


「嬢ちゃん、大丈夫か……?」

壮年の隊士が声をかける。

「すみません、大丈夫です。皆さんの方こそ、少しでも傷が浅いうちに……」


彼女の声は震えていたが、目だけは必死で強さを保とうとしていた。


戦場に咲く、一輪の白い花のようだ――誰かがそう囁いた。


その夜、砦の暗がりで、歳三は古参の島田魁と酒を酌み交わしていた。

島田の声は、夜の砦に似合わぬほど豪胆だった。


「なぁ土方さん、もう降参してもいいんじゃねぇのか? これ以上、無駄に血を流すこともねぇだろう」

「……降参したとて、俺たちに生きる道はねぇさ」

「あんたは本当に不器用だな。最後の最後まで“誠”にこだわりやがる」

「それが俺たちの“誇り”だったろうが」


島田は苦笑し、残った酒を一気に飲み干す。


「……澪ちゃんのこと、幸せにしてやれよ」

「俺に“幸せ”がわかると思うか?」

「思わねぇな。でもよ、あの娘、いざとなったら不思議と誰より強い目をするぜ」


歳三は黙って頷き、澪の姿を思い浮かべていた。



戦況はさらに悪化し、食糧も尽きかけてきた。

新政府軍は容赦なく砲撃を続け、隊士たちの士気も次第にすり減っていく。


「副長、弾がもう持ちません!」

若い隊士が叫ぶ。

歳三は冷静に指示を出す。

「後退は許さん。ここが最後の砦だ。……俺たちが崩れれば、すべてが終わる」


隊士たちは、土方の鬼気迫る目に導かれ、再び持ち場に戻る。

その背中には、疲労と諦念と、ほんの僅かな誇りが宿っていた。


澪は、包帯を巻く手を止めて、彼らの姿を見つめていた。

彼女は、未来の本でしか知らなかった“新選組”の本当の姿を、この目で見ていた。


(皆、生きたいと願いながら、それでもこの場所で戦うことを選ぶ――それは、時代を超えて私の胸を打つものだった)



戦火が一時止んだ昼下がり、澪は松林の隅に身を寄せて、未来のスマートフォンを手の中で撫でていた。

画面には、令和の春の青空、コンクリートの街並み、そして彼女自身の家族や友人たちの写真が並ぶ。


(本当に私は帰れるのだろうか。もし帰れたとしても、もう元の世界には戻れないような気がする……)


澪の心は揺れていた。

このままここで、歳三のそばで生き続けたいという想いと、未来へ帰り、彼の“真実の物語”を語り継ぎたいという誓い。


そのとき、背後から歳三の声が聞こえた。


「お前、未来のことばかり見てるな」

「……すみません」

「謝るな。俺はお前のこと、今を生きる人間だと思ってる」

歳三は、珍しく優しい目をしていた。


「……もし俺がここで死んでも、お前の中で生き続けるなら、それで十分だ」


澪は涙をこらえ、頷いた。


「必ず……あなたのことを伝えます。私はあなたのことを、未来の人たちに、本当のあなたを知ってほしいから」

やがて、五稜郭の最後の日が来た。

早朝から猛烈な砲撃が始まり、城壁は激しく崩れ落ちた。

歳三は、自ら馬にまたがり、最前線に向かった。

「副長! 無茶だ!」

「黙って見送れ。俺が前に出れば、皆もまだ戦える」

歳三は、馬上から大声で叫んだ。

「俺に続け!新選組は、ここで終わらせねえぞ!」

銃弾が飛び交う中、隊士たちが次々と倒れていく。

澪は、その光景を涙を流しながら見守っていた。

必死に叫んだ。「生きて、歳三さん!」


しかし運命は、容赦なく牙をむく。

歳三の肩を、銃弾がかすめた。

血が滲み、彼は馬から落ちそうになるが、それでも必死で立ち上がる。

「まだだ……俺はまだ、終われねえ……!」

隊士たちの叫び、砲声、煙。

箱館の空は真っ赤に染まっていく。

戦闘が一段落した夕刻。

砦はもはや瓦礫の山と化していた。


歳三は、最後の力を振り絞り、澪の元へ戻った。

服は破れ、全身に血がにじんでいる。

「……澪。これが、俺の選んだ生き様だ」

澪は、震える手で彼の傷を押さえた。

「ごめんなさい、何もできない。何も……」

歳三は、澪の手をしっかりと握る。

「いや、お前がそばにいてくれたから、俺はここまで生きてこれたんだ。……ありがとう、澪」


二人は、互いの温もりを確かめるようにしばらく抱き合った。

外では、遠くから夜警の鐘が鳴り響いていた。

その晩、咲は最後の決意を胸に刻む。

(私は未来に戻ったら、必ずこの戦いと、この愛を語り継ごう。歴史の行間に埋もれた“心”を、必ず伝えよう)


夜空には、雲間から星がひとつ、強く輝いていた。

それはまるで、時代を越えて続く“誓い”の灯火のようだった――。


第四章 最後の選択


五月十一日――

箱館の空は朝から鉛色の雲に覆われ、冷たい風が北の大地を震わせていた。

五稜郭を囲む新政府軍は夜明けとともに総攻撃を開始し、砲撃は地鳴りのように続いた。

外堀を渡って押し寄せる兵の影、空を裂く号砲、兵士たちの叫びと断末魔。

一瞬ごとに、砦のあちこちが炎に包まれていく。


澪は本丸の片隅で、傷病兵の手当てに追われていた。

包帯を血で真っ赤に染めながらも、耳は絶えず外の戦況に集中していた。

(もうすぐ……もうすぐ、この場所も、すべて終わってしまう)

心のどこかでそう悟っていた。

けれど、希望を捨てることだけはできなかった。


土方歳三は、白い羽織に鮮やかな血が飛び散るのも気にせず、必死で各所を駆け巡っていた。

「持ちこたえろ!ここが崩れれば、すべてが終わるぞ!」

声が嗄れ、足元はふらつく。だが、彼の背は誰よりも大きく、仲間たちの支えだった。


島田魁が駆け寄る。「副長、もうだめです、兵が持ちません――」

歳三は振り返り、静かに言う。「最後まで“誠”を忘れるな。それが俺たちの生きた証だ」

その言葉に、隊士たちは顔を上げ、最後の力を振り絞った。


火の手はどんどん近づき、あちこちで爆風が吹き荒れた。

瓦礫に埋もれた仲間を救い上げようとする若い兵士、膝をつきながらも銃を構え続ける老人――

その一人ひとりの姿を、澪はまばたきもせず見つめていた。

「みんな、生きて……どうか、生きていて――」


だが、歴史は容赦なく進んだ。

本丸裏手の小さな部屋で、歳三と澪は束の間の再会を果たす。

外では砲弾の爆発音、瓦礫が崩れる音が絶えない。


歳三は疲れ切った表情で澪を抱きしめた。

「澪。俺は……ここで終わる。お前は、未来へ帰るんだ」

澪は泣きながら首を横に振る。

「一緒に逃げて! この時代を離れて、未来で生きて。あなたがいれば、私はどこにいたって幸せになれる。何もかも捨てていい、お願い……私のために生きて!」

歳三は澪の頬を両手で包み、その涙を親指で拭った。

「……俺はな、どうしてもこの戦場に残らなきゃいけねえ。仲間を、誇りを、ここに置いて行くわけにはいかねぇんだ」


澪は歯を食いしばる。「そんな誇りより、あなたの命のほうが大切です!」

「……お前が俺を好きでいてくれるなら、それで充分だ。俺の生きた証は、お前の記憶の中に残る。それだけで、俺は……」


歳三の眼差しは、迷いなく真っ直ぐだった。


「約束してくれ。未来で、俺のことを思い出してくれるって」


澪は号泣しながら、何度も何度も頷いた。

「絶対に、絶対に忘れません。あなたが生きた証を、私が未来で伝え続ける」

歳三は、ほんの一瞬だけ優しい微笑みを咲に見せた。

それは、長い戦いの日々に一度も見せなかった、本当の自分の笑顔だった。

戦場の轟音がふたりを引き裂くように響いた。

歳三は立ち上がる。「もう行かねえと。……ここが俺の死に場所だ」

澪は、袖を掴んで離さなかった。

「いやだ、行かないで――お願い、神様、どうかこの人の命を……」

歳三はそっと咲の手をほどき、その手の甲に唇を落とした。


「ありがとう、澪。お前と出会えて、幸せだった」

そして、白い羽織をひるがえし、五稜郭の外へと消えていった。

澪は、その背中を最後まで見つめていた。

涙で霞んだ視界のなか、彼の姿は、まるで炎のなかに消えていく幻のようだった。


歳三は、砦の最前線へ駆け込んだ。

負傷兵を背負い、剣を振るい、最後の銃弾を撃ち尽くした。

「副長!副長、もうこれ以上は――」

叫ぶ隊士たちの声。

だが歳三は構わず、血まみれの手で旗を掲げ続ける。

「俺たちは、ここで死んでも――“誠”は死なねぇぞ!」

その声は、爆音のなかにも力強く響いた。

島田が叫ぶ。「土方さん!」


だが、轟音とともに、敵兵の銃弾が歳三の肩を貫いた。

歳三はそれでも立ち上がる。

だが、さらに一発――胸を撃ち抜かれ、彼はゆっくりと地面に膝をついた。


「澪……」


微かに澪の名を呼ぶと、空は真紅に染まった。

砦の一隅、澪は己の心を握りしめていた。

(運命は変えられないの? 歴史は、やはり残酷なの……?)


だけど――

澪の中には、確かに燃える炎があった。

(私は必ず伝える。あなたが生きた証も、愛も、全部、未来に持ち帰る)

澪は、袖の中に隠した歳三の羽織の端切れを握りしめた。

涙と血に染まったその布は、彼が生きた証そのものだった。


やがて戦が終わり、箱館は静かになった。

五稜郭の空には、曇り空の隙間から一条の光が射していた。

澪は、ぼろぼろの砦の片隅でひとり、空を見上げた。

どこからともなく風が吹き、遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる気がした。


(あなたの生きた証は、消えない――

たとえ歴史があなたを忘れても、私は忘れない)

澪はそっと目を閉じ、祈るように呟いた。

「ありがとう、歳三さん。あなたに出会えて、本当に幸せでした」

彼女の涙は、静かに頬を伝い、夜明けの箱館に消えていった。


それは、時代を越えて受け継がれる“誓い”となった。

澪はその後、不思議なめまいとともに現代へと還ることになる。

だが、彼女の胸には、あの日々の記憶と歳三の最期の言葉が、永遠に生き続けていた。


――歴史は変わらなくても、心のなかの“真実”は、決して消えはしない。


イベント会場を出た夜、澪は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。歴史を語るということが、こんなにも心の奥を震わせるものだと、初めて実感した。

自分が体験した“奇跡”を、言葉にして人に伝える――その責任の重さと、それを受け止めてくれる人がいることの温かさ。

澪は歩きながら、何度も自分の胸に手を当てた。

(私は、もう一人じゃない。私の中で生き続ける土方さんも、今日ここにいた人たちも、きっとどこかでつながっている)


イベントで出会った数人の若者が、駅までの道すがら咲に話しかけてきた。


「先ほどのお話、すごく心に残りました。歴史って、ただの過去じゃなくて“生きてる”んですね」

「私は歴史が苦手だったけど、今日のお話を聞いて“人”の話なんだって思えて、興味が出ました」

「土方歳三さんの“誠”って、現代でも大切にしたいことですね」


澪は微笑み、静かに頷いた。

「みんながそうやって感じてくれたことが、私にとっても何よりの励ましです。きっと歴史は、私たちの心のなかでこそ生き続けていくものなんだと思います」


若者たちは澪とSNSを交換し、「今度、もっと話を聞かせてください!」と別れ際に手を振って去っていった。


---


帰宅した澪は、リビングのソファに身を沈めて目を閉じた。

イベントの緊張と余韻がまだ身体の奥に残っている。

部屋の片隅には、小さなガラスケースに入れた羽織の端切れ――土方歳三が託した“生きた証”が、そっと飾られている。


澪はケースを開けて、その布にそっと触れた。


(土方さん、私はあなたの誇りや想いを、未来に伝えることができたでしょうか?

もしも、あなたが今ここにいたら、どんなふうに生きていただろう――

どんな言葉を、どんな生き方を、私たち現代人に伝えようとしただろう)


ふと、澪の心の奥底に、土方の凛とした声が響く気がした。


――「迷うな。己の選んだ道を、胸を張って歩け。

どんな時代でも、人が人を想い、誰かのために生きる――それが、“誠”ってもんだ」


澪は思わず涙ぐみ、そっと布を胸に抱いた。


「ありがとう。あなたに出会えて、本当に良かった……。私も“誠”を胸に生きていきます」


---


その晩、澪は久しぶりに家族に電話をした。

普段はつい仕事の話や他愛のない世間話ばかりだったが、その日はなぜか無性に家族に会いたくなった。


「お母さん、今度また一緒に旅行しようよ」

「お姉ちゃん、箱館の話もっと聞かせて」


澪は土方歳三や新選組、あの戦いの時代に生きた人々のこと、そして自分が感じた“歴史の中の人間らしさ”について語った。


家族は最初は驚いていたが、やがて真剣に耳を傾けてくれた。

「昔の人も、今の私たちと同じように悩んだり苦しんだりしてたんだね」

「お姉ちゃん、歴史の話なのに、なんだかすごく身近に感じるよ」


(私が語ることで、また誰かの心に小さな灯火がともる。語り継ぐとは、こういうことなのかもしれない)


---


数週間後、澪は歴史をテーマにしたエッセイを雑誌に投稿した。

“時を超えて心をつなぐもの――土方歳三に学ぶ、誠の生き方”

彼女が箱館で感じ、体験したこと、あの夜五稜郭で交わした約束、未来に受け継ぎたい想いを、正直な言葉で綴った。


雑誌が発売されると、編集部にたくさんの読者の感想が寄せられた。

「澪さんの文章に涙が出ました」「“生きた証”を感じる歴史の見方にハッとさせられました」

「私も大切な誰かのことを思い出して、今をもっと大切に生きていきたいと思いました」


澪は一通一通の手紙を読みながら、静かに涙した。

土方歳三の想いは、確かに現代の誰かの心に届いたのだと実感できた。


---


季節が巡り、澪は再び箱館を訪れる。

今度は語り部として、地元の学生たちに歴史を伝えるボランティアにも誘われていた。


五稜郭の星形の郭を歩きながら、澪はそっと空を見上げた。

(あなたと過ごしたあの時間は、私の一部になった。私はこれからも語り続ける。

歴史の行間に隠れた“人間の心”を、時代を超えて伝えていく)


学生たちの質問に耳を傾けながら、澪は自分が“今を生きる人”として誰かの心に寄り添うことができること、その小さな力を心から誇りに思った。


箱館の空は青く、優しい風が春の訪れを告げていた。

羽織の端切れが、その風に揺れる。


澪は微笑み、静かに誓う。


「私は、これからも“誠”を持って生きていく――

あなたの生きた証を、未来の誰かに託すために」


その誓いは、どこまでも澄み切った箱館の空へ、そして遥かな未来へと、静かに、けれど力強く響いていった。


日常への帰還と、人生の変化


箱館から東京へ戻った澪の日々は、以前と少しだけ変わっていた。

朝早く目覚めると、窓から差し込む光や、風のにおいをひとつひとつ大事に感じる。

通勤電車の中でも、仕事の合間にも、心の片隅で土方の言葉が響いていた。


職場では、同僚たちに「最近、明るくなったね」と声をかけられた。


「何かいいことでもあったの?」


澪は少しだけ微笑んで、

「大事な人に“生きてほしい”って言われたから……たぶん、それをちゃんと受け止めようと思ったの」とだけ答えた。


人間関係も、少しずつ変化していった。

相手の気持ちや弱さに、より寄り添えるようになった。

苦しんでいる人、悩んでいる人の話を、じっくりと聞けるようになった。

――まるで、土方や隊士たちの誇りや優しさが、自分のなかに染み込んだように。


休日には、地元の図書館や学校に出かけ、小さな歴史講座のボランティアもはじめた。


「歴史を知ることは、“誰かの生きた証”を受け継ぐことなんだよ」と、子供たちに語った。


「大昔のことでも、心を寄せて考えてみると、不思議と今の自分と重なることがあるの。

だから、君たちも何かに悩んだとき、昔の人の生き方や言葉を思い出してみてほしいな」


子供たちの素直な瞳を見て、澪は確信する。

自分の役目は、きっと“語り継ぐこと”なのだと。



---


春の五稜郭は、風に舞う桜の花びらで満ちていた。

澪は星形の郭をゆっくりと歩きながら、ふと振り返る――自分の後ろには、友人や仲間たちが続いている。

そのなかには、かつて歴史に興味がなかった人もいれば、澪の話に背中を押されて史学の道に進んだ若者もいた。


「澪さん、やっぱりここに来ると心が洗われる気がします」

「歴史って“今”にも生きてるんですね。……前は過去のことだと思ってました」


学生のひとりが、柔らかく微笑む。

澪は頷きながら答える。


「私たちが今この場所に立っていることも、百年以上前の誰かの生き方、選択、勇気があったからこそなんです。

その想いを、私は皆に伝えたくてここに来ました」


一同が黙って頷いた。

五稜郭の水面には花びらが散り、やがて静かに沈んでいく。


澪は、そっと羽織の布きれを取り出し、両手で包み込む。


(この布は、私にとって“誠”そのものだ。時を超えて受け継がれた“魂”だ。

――あなたの痛みも、誇りも、迷いも、優しさも、私のなかに確かに生きている。

それを、また誰かに伝えていくことが、私に与えられた使命なのだ)


---


昼下がり、澪たちは資料館へ立ち寄った。

学生たちは展示ケースの前に集まり、ガイドの説明を熱心に聞いている。

土方歳三の写真、古い隊士の手紙、砲弾、火薬壺――

ひとつひとつに触れられない重みと、あの日の空気の名残が宿っていた。


ある青年が澪に話しかけた。


「澪さん、もし自分がこの時代に生きていたら、どうしたと思いますか?」


澪はしばらく考えてから答えた。


「わからない。

ただ……誰かのために何かを選ぶ、その覚悟だけは、時代が違っても必要なんだと思う。

私も、この時代で土方さんや仲間たちが最後まで諦めなかった姿を見て、“生きること”の意味を深く考え直しました。

だから、現代に生きる私たちも、自分なりの“誠”を持っていたいですね」


青年は頷き、「自分も何かを受け継げたらいいな」と微笑んだ。


---


その夜、澪たちはホテルの小さなラウンジに集まった。

窓の外には夜桜が照明に浮かび上がっている。


「こうやって皆で語り合う時間も、大切な歴史の一部なんですね」

誰かがつぶやくと、別の友人が「歴史は物語。終わりじゃなくて続いていくんだ」と応じた。


澪は静かにグラスを持ち上げ、心の中で歳三に語りかける。


(私は、たしかにあなたに出会ったことで変わりました。

大切な人のために生きること、弱さも強さも、後悔も希望もすべて抱えて生きていくこと。

それが、きっと“誠”の意味なんだと)


ふと、テーブルの端にいた一人の女性が、羽織の端切れをじっと見つめていた。

「澪さん、それ……?」


澪は微笑み、「私の宝物です」とだけ答えた。


「何か特別なものが込められている気がします」と彼女はそっと言った。

澪はうなずく。「未来への誓いです。

――私だけじゃなく、これからも誰かが誰かの想いを受け継いでいく。

その連なりが歴史であり、私たちの生きていく“物語”だと信じています」


---


旅の最後の日、澪は再び五稜郭の堀端に立つ。

早朝の静寂のなか、桜の花びらがまたひとつ、風に舞って落ちた。


(歳三さん。

私はこれからも生きていきます。誰かのために、私自身の誠を守って。

あなたがくれた勇気を胸に、未来へと進みます)


見上げた空はどこまでも澄み、箱館の街は朝日に輝いていた。


遠く、学生たちが手を振っている。

澪は静かに歩き出す。その一歩一歩が、確かに歴史と未来をつなぐ橋になっていると感じながら。


彼女が持ち帰った愛と誓いは、こうして人から人へ、時代から時代へと伝えられていく。

そしてまた、新たな“物語”が、誰かの人生の中で静かに始まるのだった。

---

 ――星降る未来へ


箱館から帰京してしばらくしても、澪の心は静かに満たされていた。

あの日見上げた五稜郭の空、桜の花びらの舞い落ちる堀端、仲間たちの笑い声――どれもが、彼女の“これから”の歩みの背中を押してくれていた。


澪はいつもと同じ朝、窓を開けて新鮮な空気を吸い込み、日課のノートに「今日感じた小さな幸せ」を書き留めるようになった。

机の片隅には、あの羽織の布きれ。ガラスケース越しに見えるその赤い染みは、彼女に「自分の誠を忘れないように」と静かに語りかけている。


季節はめぐり、やがて新しい年度を迎える。

澪は地域の公民館で、月に一度「歴史と心をつなぐ会」という小さな読書会を開くようになった。

最初は十人にも満たない集まりだったが、口コミで少しずつ輪が広がり、今では親子連れや高校生、定年を迎えた人まで、さまざまな顔ぶれが集まるようになった。


「今日のテーマは“敗者の誇り”です。箱館戦争や新選組の話を通して、みんなで“本当の強さ”について考えてみましょう」


澪の語り口は柔らかい。

戦場の苛烈さや、誇りと迷いに引き裂かれた男たちの思い、そして“伝説”の裏側にある人間らしい弱さや優しさ――

自分があの時代に触れて感じたことを、できるだけそのまま、聞き手の胸に届けたいと思っていた。


「澪さん、歴史の人って、まるで私たちと同じように悩んだり、誰かを好きになったりしてたんですね」

「うん、きっとそう。どんな時代でも、きっと人は“誰かのために生きたい”って思うんだと思うの」

「僕も、もし大事な人ができたら、全力で守りたいな」

子供たちの無邪気な言葉に、咲は微笑んだ。


---


会のあと、澪は参加者とお茶を飲みながら、自然と自分の人生や、歴史に出会う前のことも語るようになった。


「昔の私は、自分に自信がなかったんです。どこかで“歴史なんて、今の生活に何の意味があるんだろう”って思っていたし、日々の忙しさに流されて、“自分が何者なのか”なんて深く考える余裕もありませんでした」


「でも、土方歳三や新選組のことを調べて、やがて本当に彼らの時代に触れてみて……誰かのために必死で生きること、自分の弱さや恐怖を受け入れること、そうやって人は本当の自分になっていくんだって知りました」


「歴史を知ることは、“今の私”を知ることなんですね」

参加者の一人がそう呟き、澪は大きく頷く。


---


やがて、澪に新しい仕事の話が舞い込む。

地元の博物館が、地域の歴史ガイドや語り部のボランティアを募集しているという。

「子供たちや観光客に、わかりやすく“歴史の物語”を届けてほしい」

そう頼まれたとき、澪は迷うことなく「やります」と答えた。


初めてのガイドの日、彼女は五稜郭の写真と、小さな羽織の布きれを持っていった。


「これは、新選組の副長・土方歳三の羽織の一部なんです。――本物かどうかは、正直わからない。でも、私にとっては“大切な約束の証”なんです」


「土方歳三は、最後まで“誠”を貫いた人です。負け戦と知りながら、仲間や誇りのために戦い続けました。

でも、それだけじゃない。仲間と笑い合い、弱さも迷いも抱えて、最後まで誰かを守ろうとした一人の“人間”だったんです」


「私たちも、日々のなかで迷ったり、何かを選ばなければならないことがあります。そんなとき、誰かのために誠実であろうとする――それが“誠”の意味なんだと思います」


子供たちの真剣なまなざし、大人たちの静かな頷き。

澪は確かに、言葉が届いていく手応えを感じていた。


---


時が流れ、澪もまた人生の新たな季節を迎える。

ふとした休日、澪はひとり静かに五稜郭を訪れる。

春の柔らかな陽射し、潮の匂い、遠くで遊ぶ子供たちの声――

目を閉じると、あの戦いの日々が、今も自分の中で鮮やかに生きていると感じた。


「土方さん、私は、ちゃんと生きてこれたでしょうか」

そう心で尋ねると、春風のなかにあの凛とした笑顔が浮かぶ気がした。


(人生は、いつだって選択の連続だ。迷って、傷ついて、でも自分の“誠”を信じて歩いていけばいい――)


澪は再び歩き出す。

堀端には若いカップルや修学旅行の学生たちが楽しそうに語り合っている。


自分の物語が、いつかまた誰かの背中を押すことができるように。

そして、歳三の誠の炎が、時を越えて新しい心に灯るように。


---


澪は家に帰ると、静かな書斎でノートを広げ、そっと一文を書き記した。


“私の人生は、たくさんの人の想いや歴史の証に支えられている。

過去も今も未来も、心のなかに生き続けている――

これからも、私は“誠”とともに歩んでいく。”


窓の外には、星がひとつ、またひとつと瞬き始めていた。

咲の想いもまた、遥かな時の空を超えて、どこかで新たな“物語”を生み出す種となるだろう。


そしてこの先も、静かに、強く、生きていくのだ。






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