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 ノノヴィは自らの保身のために嘘をついた。


 帰ってはこないだろう相手のフリをして、喜ばせてあげる慈善事業……そんな風にうそぶけたのであればよかったが、ノノヴィはエンプワーリのその、「愛したひと」を待つ切実さを踏みにじる覚悟は、とうてい持ち合わせていなかったことを思い知らされた。


 かと言えど、今さら「嘘でした」と言い出す覚悟も定まったわけではない。


 ノノヴィは暗澹たる気持ちで、それでも雑草を抜いて余計な葉をかき、花々に水を与えた。庭仕事をしているあいだ、ノノヴィの気持ちが晴れる瞬間は、一度たりとも訪れはしなかった。


「ただいま、ノノヴィ」


 「おかえりなさい」とお決まりの文句を口にしながら、エンプワーリの穏やかな顔を見たことで、ノノヴィは己の胸の中心部がさらに重くなったように錯覚する。


 エンプワーリがこうして、優しい声で「ノノヴィ」と呼ぶべき相手は、ここにいるノノヴィではない――。


 その事実に、ノノヴィの心は押しつぶされそうになる。


 一方エンプワーリはそんなノノヴィの心の揺れ動きに気づいているのかいないのか、彼女の前に紙袋を差し出す。ノノヴィは促されるままにそれを手に取り、折られた口を開ける。途端に、ほっとするようなよい香りが立ちのぼって、ノノヴィの鼻をくすぐった。


「患者さんのご家族にいいパン屋があるって聞いて、そこで買ってきたものなんだけれど……ノノヴィはどれがいい?」


 スライスされたパウンドケーキが、ふたり暮らしでも食べきれる数切れぶん、紙袋の中に入っている。


 ノノヴィの目にはどれも食欲を刺激され、思わず生唾を呑み込んで喉が上下しそうになった。


 ノノヴィのこれまでの生活では、このような甘味ははっきり言って嗜好品で、めったなことではありつけないものという認識だった。しかしそれは今、ノノヴィの目の前に無防備にある。エンプワーリに対し抱いていた重い罪悪感を一瞬忘れられるほど、ノノヴィは心惹かれた。


「もちろんぜんぶ食べていいんだけど、一日じゃちょっと食べきれないからね」


 ノノヴィは「じゃあ」と少し上ずった声で一枚選ぶ。


 エンプワーリは、ノノヴィがところどころに赤っぽい果実の身が練り込まれたパウンドケーキを選んだ様子を見て、微笑んだ。


「やっぱりそれを選ぶんだ」

「……え?」

「ノノヴィは甘酸っぱい味が好きで、なかでもクランベリーを使った品には目がなかったから」


 エンプワーリはたれ目の目じりをさらに下げて、うれしそうにしている。


 一方、そんな言葉をかけられたノノヴィは激しく動揺し、戸惑いの言葉を口にしてしまう。


「でもわたし、前世の記憶なんて……まだ」


 途中まで言葉にしたところで、臆病風に吹かれて「まだ」と言い訳がましいセリフを取ってつける。


 それでもエンプワーリは穏やかに微笑んだままだった。


「自覚がないだけで、きっと徐々に戻ってきているんだよ」


 心から、うれしさがにじみ出ているような、慈愛に満ちた目。エンプワーリのそんな視線に耐え切れず、ノノヴィは手に持った紙袋の中に視線を落とした。


 なにげなく選んだパウンドケーキ。赤っぽい果実の身が、クランベリーという果物であることすらノノヴィは知らなかった。だから、この選択は全くの偶然で、そもそもノノヴィはエンプワーリに対し、彼を明確に騙そうと嘘をついている状態だ。


 この偶然を喜ぶべきなのだろう、嘘つきの悪人は。


 けれどもノノヴィは逆に怖くなった。なにもかもノノヴィに都合よくことが回っているような気になって、あとでひどく突き落とされるのではないかと考えてしまう。


「庭仕事はどうだった? 怪我はしなかった?」


 エンプワーリの言葉に、ノノヴィはハッと我に返って、唇を引き結んだままうなずいた。


「庭仕事は……花たちが色々と教えてくれたので、たぶん、きちんとできていると思います」

「それはよかった。花たちはやはり君には親切なんだね。私には『花の声』は聞こえないからわからないけれど……」

「あの、それで花たちから『花の一族』と『石の一族』について教えてもらったんですけど」

「……ああ。あまり、その話はしていなかったね」


 クランベリーが練り込まれたパウンドケーキから逃れるように、ノノヴィは今日、花々から聞いた話についてエンプワーリに確認を取ろうと思った。


 ノノヴィはその生い立ちから社会常識には疎い。もしかしたら、花の一族と石の一族の話は一般常識なのかもしれないが、ノノヴィの知識の中にはない。ゆえにエンプワーリにきちんと聞いておこうと思ったのだ。


 ……そこからもしかしたら、エンプワーリが愛した「ノノヴィ」の話も聞けるかもしれないと思って。


 エンプワーリはノノヴィの質問に、やはり疑うようなそぶりを見せず答えてくれる。


「花の一族は今は少数で寄り固まって、ひとの手の届かないような場所で集落をつくって暮らしていることが多いんだ。だから今は滅多なことでは花の一族の姿は見ないと思う。もちろん、そういう暮らしをしていない花の一族もいるけれどね」

「そう、なんですか……」

「私にも花の一族に友人はいるし、もしノノヴィがそういった集落に行きたいのであれば連れて行ってあげられるよ。私は入れてもらえないだろうけれど……」


 ノノヴィは「花の声」を聞くことができる以上、恐らくは花の一族の血を引いているのだろう。しかし花の一族に会ってみたいという気持ちには、今はまだなれなかった。


 それよりもエンプワーリの物言いで気になるところがあり、ノノヴィは尋ねた。


「――石の一族と花の一族は『相容れない存在』だって花たちが言ってましたけど……」

「……ああ、そうだね。昔はけっこういがみ合っていたというか……でもまあ今は両者ともにそう数が多いわけじゃないし、さっき言った通り花の一族は滅多なことでは集落からは出てこないから、衝突することもなくなったかな。だから、ノノヴィが心配することはなにもないよ」


 ノノヴィはエンプワーリの言葉の意図をつかみ損ねて、何度かまばたきをした。


「同族たちが数を減らしていくのはさみしいと言えばさみしいけれど……でも、私たちにとっては少しだけいい世界になったってこと」

「『いい世界』……」

「うん。ノノヴィといっしょにいられるんだから、これ以上のことはないよ」


 ノノヴィは、エンプワーリが愛した「ノノヴィ」といかにして死に別れたのかは知る由もない。


 けれどもエンプワーリの言いぶりからして、大なり小なり、花の一族と石の一族のいがみ合う関係が、ふたりを引き裂いたのかもしれないと考えた。


 そして心底幸せそうな顔をするエンプワーリを見て、ノノヴィはなにも言えなくなった。

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