(5)
エンプワーリが馬車までの道のりを行くのに、裸足のノノヴィをお姫さまのごとく横抱きにしたのにはさすがに参った。ノノヴィが恥ずかしくて身を縮こまらせても、エンプワーリはあまり気にした様子はなかったが。
それよりもエンプワーリはノノヴィの栄養状態のほうが気にかかったようだ。たしかにノノヴィの手足は木の棒のように細い。ノノヴィは年齢のわりに身長が高く、それゆえに余計手足がひょろりと細長いのが目立つ体型だった。
「おいしいもの、いっぱい食べようね」
エンプワーリがそう言うと、ノノヴィの腹だけは正直に鳴った。酒場で雇われているあいだも、ロクな食べ物にはありつけていなかったせいだ。そういった理由であったものの、やはり空腹を訴えるように鳴った自身の腹が、ノノヴィは少々憎らしくなって、同時に羞恥心を覚えざるを得ない。
一方、エンプワーリの言葉に期待と安堵を抱く自分にもノノヴィは気づいた。エンプワーリがこう言うからには、彼はノノヴィを飢えさせる気はないようだ。エンプワーリの経済状況はわからないため、腹いっぱい、たらふく食べられることを大いに期待したわけではなかったが、久しぶりにまともな食事にありつけそうだとノノヴィは思った。
そうしてそのままエンプワーリに連れられて、ノノヴィは人生で初めて馬車に乗った。もしかしたら物心つく前に、馬車でこの街へきたのかもしれないが、ノノヴィの記憶にある限りでは馬車に乗るのは初めてのことだった。
エンプワーリ曰く、この馬車は警察が保有するものらしい。であればエンプワーリも警官なのかとノノヴィは考えたが、違うようだ。そういえばエンプワーリが「石魔法医」と言っていたことを、ノノヴィは先ほどの怒涛の展開の中からどうにか発掘する。
「お医者さんとしてきていたんですか」
「そうだよ。……こういった事件の被害者は心に深い傷を負う。今はまだ、もしかしたら傷ついていることがわからないかもしれないけれど、状況が落ち着いてきて、初めて自分の心の傷を自覚することもある。そういうわけで、まあ私がしたことは一時的な処置でしかないんだけれどね……でもみんな、少しでも心穏やかに過ごせたらと願ってやまないよ」
ノノヴィは手の中にある布でできた巾着をそっとにぎり込んだ。柔らかく、手触りのよい巾着の中にある石は、まだじんわりとあたたかな温度を保っている。
エンプワーリが「事件」とか「被害者」といった単語を用いたことで、ノノヴィは自分の置かれていた環境が、少なくともエンプワーリからすると異常なものであったことを再度自覚する。
孤児院では叩かれることは日常茶飯事で、ときには殴られ、蹴られることもあった。肉体的に傷つけられたという自覚であれば、ノノヴィにはもちろんあるが、目に見えない心のことまではわからない。
「ノノヴィも、つらくなったら言うんだよ? 声に出して、だれかに言うだけでも少しは心が軽くなるから」
「……わかりました」
ノノヴィにはエンプワーリの言葉にどれほどの真実性があるのかまでは、わからなかった。
ノノヴィはこれまで、弱音を吐いたことはなかった。吐く機会も、相手もいなかった。
つらいときにはぐっと唇を引き結んで、嵐が過ぎ去るのを待つように、ただ耐えること以外、ノノヴィにできることはなかった。
そのことをノノヴィは特別不幸だとか、不遇であるとか思ったことはなかった。理不尽に耐えるのは、ノノヴィにとっては日常だった。
それらを言葉にして、口から出したとして、いったいなにが変わるのか――。
これまでのノノヴィはそう思っていた。
「だれにだって心がつらくなってしまうことはあるから、それを口にするのは恥ずべきことじゃないんだ」
けれどもエンプワーリは、ノノヴィに「つらくなったら『つらい』と言っていい」と言う。ノノヴィはそのエンプワーリの申し出を、特別うれしいとは感じなかった。逆に、うっとうしいだとか偽善的だと思ったわけでもない。
ただノノヴィの感受性というものは、これまでの境遇から心を守るために閉じられて、まだ開いていないだけなのだ。
ノノヴィは己の視界が徐々にひらけていくような気持ちになった。それはノノヴィが人間性を取り戻している過程であった。ただノノヴィは普通の人間が持っている、そういったものすべてをまた自分のものにできた瞬間が訪れることに対し、かすかな恐怖心を覚えた。
ノノヴィが「人間」になれて、そうして己の過去を振り返ったときに、心は深く傷つくのではないか……。
ノノヴィは直感的に、そんな予感を覚えずにはいられなかった。
そうしてその瞬間が訪れたときに、ノノヴィは果たしてエンプワーリにきちんと伝えることができるのか。……そもそも、そのときそばにエンプワーリはいるのか。
己の将来のため、保身のためにエンプワーリを欺いたノノヴィだったが、これからの見通しはまったく不明瞭と言ってよかった。
そもそもそんな訪れるかわからない未来よりも、今はエンプワーリに対し、ついた嘘が露見することのほうが恐ろしい。そちらの未来はノノヴィにも容易に想像することができる。
「――あの、まだわたし、前世のわたしについてきちんと思い出せなくって……前世のわたしって、どんなひとだったんですか?」
ノノヴィは小手先で嘘に嘘を重ね、エンプワーリからどうにか彼の「愛したひと」についての情報を引き出そうとした。
「できるだけはやく、思い出したくて」
ノノヴィがそう言えば、向かい側に座るエンプワーリは眉を下げて困ったように微笑んだ。
「そんなに急いで思い出すことなんてないよ、ノノヴィ。君はこれまで大変な目に遭ってきたんだ。今は心も体も休めて……そうすればそのうち、自然とすべて思い出すさ」
「でも――」
「あせらなくてもいいんだよ、ノノヴィ。君がすべて思い出せても、思い出せなくても、私にとって君が愛おしい存在であることに変わりはないんだから」
エンプワーリはそう言って、ノノヴィが望んだ答えを出してはくれなかった。
嘘をついている手前、ノノヴィはこれ以上、下手なことを言って馬脚を露わすわけにはいかないと、口をつぐむことしかできなかった。