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 ノノヴィの一〇年ちょっとの人生の道程は、惨憺たるものだった。


 親の顔も知らず物心ついたときには、ノノヴィは孤児院にいて、そこの環境は劣悪のひとことだった。


 大人の機嫌ひとつで叩かれ蹴られ、血尿が出たときノノヴィは初めて「死」というものについて考えずにはいられなかった。


 ノミだらけの布にくるまって固い床で寝るから、ノノヴィの柔らかい肌はいつも赤い点が散っていた。


 要領よく大人たちに取り入れた子供の一部はその限りではなかったものの、その孤児院にいる多くの子供たちは虐待を受けていた。そしてノノヴィはここで今さら言うまでもなく、後者のグループに属する子供であった。


 かと言って孤児院を飛び出したところで、行く当てもない。行く当てがなくて孤児院にいるのだから、当たり前だ。


 多くの子供たちは浮浪児になるよりも、立派な屋根と壁があって、粗末でも食事にありつける孤児院を選ぶ。ノノヴィもそうだった。


 それでも子供たちはチャンスさえあれば、この劣悪な孤児院以外の、もっと清潔で血の通った扱いを受けられる場所へ行きたいと、だれもが思っていた。



 ノノヴィは、あるとき街の酒場に住み込みの給仕として働きに出された。


 給料は孤児院に紹介料だとかの名目であれこれとピンハネされ、ノノヴィの手元に残るのは幼児のお駄賃ていど。


 それでもノノヴィが正当な報酬を金銭という形で手にするのはこれが初めてだったから、それだけなら耐えられたかもしれない。


 しかしノノヴィはすぐに、酒場の店主が給仕として己を雇い入れた理由を察した。


 含みのあるいやらしい目で全身を舐め回すように見られて、お次はやたらに体に触られることが増えれば、社会経験のないノノヴィですら、店主のその目的を察するのは容易だった。


 「少しお金が貯まるまでは耐えよう」――ノノヴィは込み上げてくる嫌悪感を押し殺して、給仕の仕事を続けた。


 だが酒場の屋根裏部屋に与えられた粗末な自室で襲われた瞬間に、どうしても耐え切れなくなった。


 鼻息荒く迫ってきた店主の股間を思い切り蹴り上げて、ノノヴィは逃げ出した。


 酒場の営業時間が終わってからの出来事であったから、外にある日が高い真昼間で、太陽の光がさんさんと降り注ぐ明るい石畳をノノヴィは裸足で駆け出した。


 ノノヴィの背後で店主の怒声が上がる。「お前なんてクビだ」と店主がわめいているのをノノヴィはかろうじて聞き取ることができた。


 ノノヴィとてもう二度とあの酒場に戻るつもりはなかった。


 さりとて行く当てはない。わずかな貯金もすべて酒場の屋根裏部屋に置いてきてしまった。今さら頭を下げて戻るなんてことはできないだろう。


 同じように頭を下げるなら、孤児院が妥当だろう。しかしノノヴィの胸中は、当たり前だか鉛を呑み込んだかのような気持ちにならざるを得ない。


 孤児院へ戻らずに働き口を探すことも考えたが、今のノノヴィは一文なしだ。それにノノヴィからすれば正当防衛と言えども、街にある酒場の店主に暴力を振るってしまった。この街でそんなノノヴィを雇おうと言う人間がいるのかは甚だ疑問だ。


 心機一転、違う街へ行くのが一番だろうが、ノノヴィは繰り返すが一文なしの身である。乗合馬車に乗るのも金がいる。さすがに徒歩で別の街へ向かうのは、自殺行為に近いことはノノヴィにもわかっている。盗賊から魔獣まで、ノノヴィに襲いかかるであろう最悪のイベントは想像だけでも枚挙にいとまがない。


 そうしてあれこれと考えながら、ふらつく脚で向かった孤児院の前には、野次馬が立ち並んで半円を作っていた。


 街で見かける馬車よりも、よほど立派な毛並みの馬が引く車の中に、孤児院の院長が半ば引っ立てられるようにして入れられるのが、野次馬の最後列にいるノノヴィにも見ることができた。


 院長は後ろ手に縄で拘束されており、ひどく歩きにくそうにしながらも、のろのろと車の中へ大人しく入る。その横顔はノノヴィの知る院長とはまったくの別人に見えるほど、しおれていた。


 立派な馬車の周囲には、これまた立派な身なりの青年たちがいて、みな真剣な表情でなにかやり取りをしている。その中でも院長に向けられる視線は鋭く厳しく見えて、ノノヴィ自身は別になんら悪事を働いていないというのに、なんだか身が凍るような気持ちにさせられた。


 ノノヴィはそんな気持ちから逃れるように、孤児院の門扉に視線を移す。門扉のすぐ向こう側には、子供たちが一列に並ばされており、みな今のノノヴィのように不安な面持ちで突っ立っていた。そのそばには、幾人かの青年らが立っている。


 ――「児童虐待」「人身売買」「児童売買春」……。ようやくノノヴィの耳に野次馬たちのさざめきのような声が入ってくる。


 院長が入れられた車を引いている馬とは別の、毛艶のよい黒馬に乗った青年の凛とした声があたりに響き渡る。


「この孤児院の所業を知る者は事情聴取に応じて欲しい」


 野次馬たちのあいだに動揺が走り、ノノヴィにはそのざわめきが大きくなったように聞こえた。


「――()の院長の所業に加担していた者には、みな沙汰がくだると思え」


 次いで、どこか脅しかけるような響きを持った青年の声を聞いて、野次馬たちはクモの子を散らすようにばらばらとその場から立ち去る。


 残されたのは、この街では見かけない顔の、旅人や行商人らしき人間たちと、青年と同じ仕立ての服に身を包んだ者たち、そしてノノヴィだけとなった。


 ノノヴィはただ呆気に取られることしかできなかった。


 かろうじて、どうやら院長たちノノヴィらを虐げていた大人は、その悪事がどこかしらからか明らかとなり、どこかへ連れて行かれたということだけは理解できた。


「――ノノヴィ?」


 呆然と突っ立ったままのノノヴィに向かって、だれかがその名を呼んだ。


 ノノヴィが焦点を合わせれば、孤児院の門扉の前にいかにも温厚そうな顔つきの、たれ目の男が立っていた。黒馬に乗っている青年や、他の青年たちとは身にまとっている服が違う。他の青年たちが黒を基調とした制服らしき同じデザインの服を着ているのに対し、ノノヴィのすぐ手前まで駆け寄ってきた男は、真っ白なコートのようなものを身につけている。


「ノノヴィ! ノノヴィだ!」


 男は感無量といった表情で今にもノノヴィに抱き着かんばかりだった。


 けれどもノノヴィは男の顔に心当たりがなく、またつい先ほど酒場の店主に襲われたこともあり、恐怖心から無意識のうちにあとずさる。


 そんなノノヴィの様子を見て、男は次に悲しげな目つきでこちらを見た。


「ノノヴィ? ……もしかして、覚えて、ない?」


 ノノヴィは上手く言葉を発することができず、しかし無言のままにうなずくことはできた。


 男は落胆した様子を隠そうともせず、落ち込む気持ちのままに目を伏せたようだった。


「――突然ごめんね? 私はエンプワーリ。石魔法医で、ええと……前世の君を愛していた者、なんだけど」


 ノノヴィはまた呆気に取られて、何度か目をしばたたかせることしかできなかった。

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