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0.0001%の確率でしか逢えないという運命のひとに出会えましたが諦めて国が決めた婚約者に嫁ぎます

作者: 大高 紺

お目にとめて頂き、ありがとうございます。

ゆるゆるですが、よろしくお願いいたします。


 蝋燭を模した灯りがゆらゆらと壁に複雑な影を描く。

 巨大な寝台の端にちんまりと浅く腰かけて、ジェイドは揺れる影を睨みながら、今日の挙式で初めて顔を合わせた夫、エチエンヌを待っている。


 寝室は広く、余計な家具は一切ない。幾つかの凝った間接照明と、クリスタルの水差しとグラス、それに琥珀色の酒が入ったデキャンタなどが置かれたサイドテーブルと、ジェイドがかつて見た中で最高に大きくてフカフカで寝心地が良さそうな寝台。以上。……普通はもう少し何かあるだろう。布張りの椅子とか揃いのカウチとか小卓とか、せめてオットマンくらいあっても良いだろうに、それすらも無い。つまりこの寝室で脚を休めたくば、寝台に座るしかないのである。


 最初はジェイドも立っていた。お仕度がなどと言われて一足早く宴席から連れ出され、ぎちぎちのコルセットからの解放に息つく間もなく、全身ぎゅうぎゅうに磨かれ香油で揉まれ、固辞したにも関わらず寝化粧までも念入りに施された挙句、羞恥を通り越して無の境地に至るようなセンセーショナルな夜着を纏わされて押し込まれたこの寝室で、茫然と立ちすくんでいた。いつ夫がここへ来るかと戦々恐々、震える脚を根性で踏ん張って、逃げ出したくなる気持ちを圧し潰して。


 そして、どのくらい待ったか、遂にジェイドは疲労感に負けて寝台の端っこにごく浅く座った。一日中我慢した華奢なハイヒールのせいで、爪先も脹脛も腰も痛めつけられていて、風呂でちょっと揉んでもらったくらいでは回復しなかったのだ。


 ランダムなストライプがシックなカーテンは、たっぷり床まで垂れている。その重厚な生地が、ライトアップされている筈の庭の景色はおろか、宴の名残りの騒めきも遮断しているのだろう。ジェイドには、この部屋の中のことしか感じ取れない。

 仄かな花の香り。自分のたてる微かな衣擦れと、知らず零れる吐息。

 そしてその全てを掻き消す勢いの、ものすごい速さで打つ自分の鼓動と、血の気が引いてちりちりする唇と……沸々とこみ上げてくる激烈な怒り。


 十八年間生きてきて、初めてジェイドは『煮えくり返る』という言葉の実態を理解した。


**


 ジェイドは大人しい性質ではない。自分で充分、判っている。燃える赤毛は伊達ではない。癇癪持ちではない(と自分では思う)が、納得できない事には、引き下がらずに立ち向かう方だ。言葉でも、態度でも、折り合いが付くまでは、相手が異性であろうと年齢に開きがあろうと、真剣に向き合ってきた。そんなジェイドを、親友は言うに事欠いてじゃじゃ馬とか言ったけれども、そんなことは無い筈だ。

 だって、折れるべきところは折れ、譲れないところだけを護ってきた。まあ、どうにもならない場合のみ、人よりいささか恵まれた魔力にモノを言わせた事も無いではないが、概ね平和的に解決してきたつもりのジェイドである。……もう二度と面と向かって親友に訂正を求める日は来ないにせよ、じゃじゃ馬はない。

 

 そんなジェイドにとって、今回のこの結婚が、どうにもならなかった最たる物だった。


 何しろ、ジェイドにはハナから選択の余地が無かった。

 隣国の筆頭魔術師一族の嫡男の嫁にと、国の上層部を通して申し入れが来たのである。


 最初に先方から内々の打診が来た時、ジェイドは非常に困惑した。彼女は当時十歳にもなっていなかったうえに、逢ったことも無い相手と婚約するなど時代錯誤も良いところだと、両親ともども、穏便に断ろうとしたものだ。


 そもそも、そんな雲上人からジェイドに話が来る理由が判らない。


 よっぽどの資産家だの、才気溢れる優れた家柄ならばともかくも、ジェイドの家はごく一般的な家庭なのだ。父親は魔力に恵まれたので、乞われて国に仕えているけれど、それだけだ。両親とジェイドと弟の一家四人で不自由なく暮らせる程度の稼ぎの、至って普通の勤め人でしかない。娘のジェイドも、ちょっと多めの魔力持ちではあるのだが、あくまでも『ちょっと』多めだ。他に目を引く才能や頭脳の持ち主でもない。衆目認めるところの美少女でもない。そんな身で、自国よりよっぽど大国である隣国の、しかも筆頭魔術師アルノー家の嫡男の嫁が務まるわけが無いから、全身全霊、抵抗した。


 言うまでも無く、そんなことは両親だって判っており、彼らも何とか回避するべく頑張ってくれたのだけれど。


 何度申し入れても続く辞退に業を煮やしたらしい相手方が、選りによって国家の重鎮を通してごり押して来ては、両親もジェイドも謹んでお受けする以外、どうにも出来なかったのである。


かくて、彼らの婚約は結ばれた。

何故か遂に互いの顔を合わせることなく、立ち会いの使者と両家の親と書面のみでとはいうものの、つつがなく。


 最後まで抵抗し続けていたジェイドは、とうとう婚約が成立するまで、いや、成立してなお、釣書もポートレートも見なかった。

 最初は、見てから断るのは失礼なのではないかと、幼いながらも気を回した為だった。だが、ゴリ押しに負けてからは、もう何だかむかっ腹が立って、見るのも嫌と拒否し続けた。


 婚約の証にと贈られてきたジュエリーも、彼女は見ずに済ませるつもりだった。が、何故か婚約成立以来、変に悟ったような顔の両親から、礼状と返礼品を出さねばならないと懇々と諭され、あからさまに嫌々開封はしたは良いものの、結局、手には取らなかった。


それは非常に透明感が高く、分散(ファイア)も美しいオリーヴグリーンのスフェーンがあしらわれたペンダントで、精緻にカットされた中石(センターストーン)は、光が当たると煌びやかに虹色に弾けた。


 とても綺麗な石で、正直、強く惹かれたものの、ジェイドはむうと心からその輝きを追い払って、添えられたカードを読み、そうかこういう色の瞳の男が自分の婚約者なのかと思うなり、ぷっつりとペンダントから興味を逸らした。そして、己の名前と瞳の色に因んで、翡翠を鳥の形に彫ったピンに素っ気ないカードを添えて贈り返した。


 それ以降も、婚約者となったエチエンヌ・アルノーからは、誕生日のたびにジュエリーと手紙にポートレートが添えられて届いた。それでジェイドも同じように、当たり障りのない装飾品や文具に、ささやかなカードと、もっとささやかなポートレートをつけて、エチエンヌの誕生日に贈り返した。


 エチエンヌは贈り物こそ几帳面にくれるのだが、どういうわけだか逢いには来ない。だからジェイドも、相手を訪ねて行くことはない。

 物理的にも心情的にも、距離が縮まる気配が無い。

 ただ、互いに互いの色に因んだものを贈り合う、それだけの交際が何年も続いた。


 その間中、飽くまでも婚約に納得がいかないジェイドは、溜まっていくポートレートを頑として見ず、ジュエリーも箱から出しもせず金庫の中に積むに任せていた。それを知った親友から、かなり強めに窘められるまで、ずっと。


 誰より親しい友人に呆れられたことで、漸くジェイドは、不本意ながらもひとつくらいは身に付けるべきかと諦めの境地に至り、届いたばかりの箱を手に取ったのだが。


 親友には、更に呆れられる羽目となった。


***


「すごい可哀相なんだけど、その婚約者」


 スティーヴンが呆れたような哀しいような気持ちでそう言ってやると、ジェイドはきょとんとした。


 ジェイドとスティーヴンは、魔術学院に入学して以来の親友だ。入学して、すぐに親しくなって、それからずっと、スティーヴンは誰よりも長く彼女と時を過ごしてきた。


ジェイドは小柄な方ではないが、スティーヴンは更に頭ひとつ以上は背が高い。しかも頭身のバランスが非常に良く、すっきりと短い黒髪に整った目鼻立ち、細身に見えて実はしっかり筋肉質の体躯のうえに成績も良いと来るので、自惚れではなく、人目を惹く自覚があった。


経験上、下手に特定の異性と親しくしては要らぬトラブルを招くと知っていたスティーヴンは、ジェイドと頻繁に一緒に過ごすに際して、非常に慎重に振る舞った。予防線も兼ねて、今どき珍しくも婚約者が、それも『切に願った』婚約者がいると情報を流し、誰とどれだけ一緒に居ようと害の無い関係性を保つ人間だと周囲が捉えるように謀ったのだ。


 何があろうと、ジェイドの近くに余計な異性を近づけたくないし、自分にもジェイド以外の異性の接近など必要ない。間違っても割り込まれては困るのである。


「可哀想?」


 念願かなって、ジェイドとは自分が一番近しい。

 いつものように一緒に昼食を摂り、午後の授業までの一時をとりとめない雑談で過ごす中、またひとつ増えたプレゼントの愚痴を溢したジェイドに、スティーヴンは堪らず目線を遠くに飛ばした。


「本当に未だに顔も知らないとか有り得ん。冗談だろ。何年、婚約してんだよ」


「だって逢いに来ないんだもの」


「…うん、まあ、それはアレだけどさ。でもさ、ポトレを貰ってんでしょ。それくらい見とけよって話」


「所詮、ポトレよ。見ても意味ないわよ。どこまで本人に忠実かなんて判りゃしない。一般的に言って、釣書に添えるシロモノなんて、モリモリに盛ってるものだしね」

 

仏頂面で言うジェイドに、スティーヴンは眉が下がるのを自覚した。


「だとしても。釣書だって読んでないって言うし、顔すら知らない、マジで丸っきり何にも知らない男と、ジェイドはこのまま結婚できるのか? 盛り画でも何でも見ておけよ」


「あのねぇスティーヴン、出来るかどうかじゃないのよ。するしかないの」


「いや、お前さ……」


飽くまでも他人事みたいなジェイドに、スティーヴンは嘆息した。


 この、自分の将来に無頓着な親友の事が、もどかしくてならないと言わんばかりに。


 ジェイドは判りやすい美貌の持ち主ではない。だが、翠の瞳が印象的な容貌は清冽で、見事な赤銅色の髪を無造作に結って男女兼用の色気もへったくれも無い制服のローブに身を包んだところが禁欲的で逆にそそるなどとほざく一部男子に偏執的なファンがいるだなんて、全く知らないだろう。まして、呑気で無防備な本人に代わって、スティーヴンが日々睨みを効かせているだなんて、考えたことすらあるまい。


 それ自体は良い。スティーヴンが勝手にやっている事なので、文句は無い。むしろ下手に本人が気づいてしまうと、ジェイドの事だから挙動不審に陥るだろう。それでは煩い小蠅がまとわりつく隙を余計に生みかねないので、一生、気づいてくれなくて良いとスティーヴンは考えている。


 だが、婚約者に関しては、話が全く別だろう。

 婚約者は蠅ではない。断じて蠅であってはならない。愛し合い、一生を共にする、彼女にとってかけがえのない存在の筈だ。

 それを興味のキョの字も示さず、あっしには関りの無い事でござんすみたいな虚無的な気持ちのままでいてはいけない。ジェイドは終始一貫不本意なのかもしれないが、だとしてもその婚約者の報われなさ加減が不毛の一言に尽きるではないか。


 婚約者がジェイドを想っているのは間違いない。しかも、ジェイドが考えるよりずっと深く。


 何しろ、贈ってくるモノが並大抵ではない。今回の十六歳の祝いの品然り、何処の世界に、逢ったことも興味も無い婚約者に、こんなに見事なスフェーンのピアスを贈って来る奴が居ると言うのか。


 鮮やかなオリーヴグリーンの地色に、オレンジやダークブラウン、淡いライムイエローなど、華やかに硬質なファイアが散る、誰が見たって最上級のスフェーンを、揃いでふたつ。デザインはシンプル極まりない。雫石が耳朶から揺れるだけだが、大きさが大きさなので、存在感が半端ない。


 独占欲(誰にも渡さん)


 身に付ければ、そう書いてあるも同然だ。しかも大文字で。


 そんなモノを貰っておいて、結婚()()()()()()とは何事か。

 心底どうでも良さそうに、ぶらーんと指先から件のピアスを吊るして見せて来る、このジェイドの姿を見たら、求婚者としては泣きたくなるだろう。スティーヴンは泣く。男として、これは切ない。高価なものを粗略に扱われるのもだが、何より、全く気持ちが通じていないのが一目で判る、その姿が涙を誘う。


「やめろジェイド、もっと繊細に扱え。割れる。スフェーンは脆いんだぞ」


「はーーーーい」


 石の形に窪みを付けた専用の小箱に仕舞い込んだものの、無造作にポケットに放り込むジェイドに、スティーヴンの肝が冷える。だから割れると言っているのに。


「これより、スティーヴンがくれたペンの方が嬉しい。あれ、欲しかったの。ありがとう」


 無邪気な笑顔で言われて、スティーヴンは悶絶しかけたが、皮一枚で平静を保ち、ただにっこり笑い返すに留めた。危ねえ。あの無表情からの満面の笑み。マジやべえ。そういう気持ちは、一切、外に出さない。出ていないと思いたい。ジェイドの態度が変わらないので、きっと隠し通せているだろう。だがそれはそれでちょっと切ないと思うスティーヴンは、心の中が複雑骨折している自覚もあった。


「だけど、そっちにも婚約者が居るんだから、いくら私とはいえ、彼女以外の女の子にプレゼントなんて、本当は良くないよ。そっちは上手く行ってるんでしょ?」


 そんなことを言ってくるジェイドはとても可愛い。ひとの思惑にも視線にも無頓着で、スティーヴンの事を婚約者持ちの人畜無害と信じて疑わないところも、癖のある赤毛も翡翠色の瞳も、透けるように白い肌に散っている、隠す気も無い淡い雀斑も、何ならローブに隠している綺麗な躰も、何もかもが好ましかった。


「うーん、まあ、それなり? …ちょっと気難しい子ではあるんだよね、でもそこも可愛いんだけどさ」


「なら余計に私を構う暇に、彼女をきちんとケアしなさいよ。…うちの婚約者じゃあるまいし」


憎まれ口も可愛い。もう何をしても、ジェイドの全てが可愛いとスティーヴンは報われないジェイドの婚約者(スフェーン)に思いを馳せながら、傍らの彼女を見下ろし、嘆息する。


 早く気付いてくれれば良いのに。

 せめて卒業までには何とか。


 心底そう思うのだが、哀しいことに、道のりは遠そうだった。

 

**** 


 スティーヴンの瞳は、赤みの勝った、綺麗なヘイゼルだ。その瞳で真直ぐ見詰められると、何となく居心地が悪くなるのだが、ジェイドは決して嫌では無かった。


 たまにそうやってスティーヴンはじっと見つめてくる。気づいたジェイドが視線を合わせるたびに、彼はくしゃっと子供のように笑う。


 クラスメイトや後輩の少女たちが相手の時とは違う、気取らない笑顔だと思う。他の娘たちと喋っている時のスティーヴンは、もっとずっと優しい笑顔の癖に眼の色が硬くて、明らかに一線を引いているのが判る気がするのだ。


 ジェイドの前とは、全然、違う。


 それが、ジェイドには苦しかった。

 とても苦しくて、親しくなればなるほど、身動きが取れなくなった。

 スティーヴンは、ジェイドを女の子扱いするわけではない。他の子(クラスメイト)達にはたまに見せる、エスコートのような、尊重するような振舞いをしない。逆に、彼女たちには触れないように注意しているようなのに、ジェイドにだけは無造作に肩を叩いたり頭を小突いたりしてくる。そう、同性の友人たちにするのと同じように、気軽に。


 そうやって絡んでくるたび、抗議の声を上げてやり返すのだが、そんな気易い遣り取りが、どんどんジェイドの心には重たく苦しく圧し掛かってくる。スティーヴンにだって婚約者がいるくせに。可愛いって惚気る癖に、どうして自分にだけ皆とは違う笑顔を向けるのか。ぐるぐるぐるぐる考えて、ある日、ジェイドはとうとう自分の気持ちを持て余して泣きたくなった。


 これ以上、親しくなってはいけない。心を預けてはいけない。

 そう思うのに、スティーヴンから声を掛けられると、笑顔を向けられると、無条件で傍に行ってしまう。

 

 このままじゃ駄目だ。

 何故なら、もうすぐジェイドは学院を卒業する。そうしたら、例の婚約者との挙式が待っている。相変わらず、顔も知らない婚約者との。


 在学中の三年間も、エチエンヌはジェイドを訪ねて来ることは無かった。恒例のプレゼントとポートレートは滞りなく届き続けたが、スティーヴンへの気持ちを自覚してしまってから、罪悪感のあまりジェイドはそれらに全く手を触れることが出来なくなってしまった。


 几帳面な整った字で書かれた手紙しか知らない相手だけれど、将来を共にすると、自分の意志ではないにせよ約束しているのだ。


拒否が許されない状況だった、そこに気持ちは無かった、それでも約束は約束だ。

相手には誠実であらねばならない。

そのくらいの事は、いくらジェイドが子供でも理解していた。

優しくて格好いい同級生に恋などして良い立場ではない。


……実のところ、嫁ぐ約束は破らないのだから、己の気持ちくらいは自由で良いのではないかと、ジェイドもちょっと思ったのだが、暫くして、それはもっと辛い事になると身に染みた。


だから、この気持ちには蓋をしなくてはならない。


いや、蓋だけではいつか開いてしまうかもしれない。厳重に鍵をかけて心の底に深く深く埋めてしまわなくては、苦しむのは他でもない自分であり、何でなのかは未だにさっぱり判らないもののジェイドを望み続けてくれるエチエンヌに対して不誠実極まりない。

……エチエンヌがいつか浮気でもすることがあれば、その時にはジェイドも埋めた恋心を掘り返して、懐かしく思い返して、それから改めてお墓を建てるくらいはしても良かろう。その時のために、いま思いきるために、嫁ぐ勇気を蓄えるために、ジェイドはひとつだけ、スティーヴンに叶えて欲しい我儘があった。


「遊園地に行きたいだ?」


卒業試験も終わり、無事に全教科をクリアしたジェイドは、あとは卒業式まで特に通学する必要もない。嫁入り支度に本気を出さねばならない日々なのだが、そればかりでは気が滅入る。


「駄目? スティーヴンももう登校しなくて良いんでしょ。一日くらい、私に付き合ってよ」


「そりゃ良いけど」


心なしかスティーヴンは嬉しそうだ。その様子にほっとして、ジェイドは小さく息を吐いた。


「なんで遊園地? しかも俺と」


「いや、実は行ったことなくて。スティーヴンは行き慣れてそうだから、アテンドしてくれないかなーなんて思って」


「ああ? 行ったことないのか? 全然?」


 スティーヴンは首を傾げた。ジェイドにも女友達は普通に居る。よく連れ立って遊びに行くのを知っているからだろう、ジェイドの言葉に不思議そうな顔をしている。


「すごく子供の頃に一回だけ行ったんだけどねぇ。はしゃぎ過ぎてものすごく具合が悪くなって、救護室に担ぎ込まれてね。碌な思い出が無いのよ。しかも何でかトラウマみたいになっちゃって、それっきり。でも、結婚前に一回くらい、皆みたいに行ってみたいの」


「……ふーん」


 スティーヴンは唸ったけれど、すぐに大きな笑顔を見せた。


「ん、いいよ。で、いつが良いの? 他にも誰か誘ってる?」

 

「ううん。ふたりで行きたいんだけど……スティーヴンは困る?」


「俺は全然。ジェイドが良いなら、喜んでエスコートするよ」


 だから! 大事なひとが居る癖にそういう事を満面の笑みで言ってくるとか何なの! 内心、地団太を踏みたくなったが、そもそも強請ったのはジェイドで、そんなのはただ快諾してくれただけのスティーヴンへの八つ当たりでしかなくて。


 泣きたいような飛び跳ねたいような複雑な気持ちで、翌々日の昼前に、遊園地の入口で、と、約束した。


*****


 約束した日は、絵に描いたような好天だった。


 暑くもなく涼し過ぎもせず、外で遊ぶには絶好の気温と日差しに、ジェイドは心置きなく遊び倒したい気持ちと、生まれて初めてのデート(もどき)に気合を入れ過ぎて引かれたくない乙女心の間を取って、カジュアルな生地だがディテールの可愛いワンピースに、少しごつめのブーツを合わせた。化粧はしないが、普段は雑に結い上げている赤毛を緩く下ろして気に入りの髪飾りで纏め、学院での色気のイの字も無い制服姿とは一線を画したつもりで、いざ遊園地へと繰り出して。


 入口に佇んでいるスティーヴンを見つけて、思わず立ち止まった。

 そして、少なくとも彼と並んで、彼に恥をかかせない程度の出で立ちである事に心からほっとし、次いでしゅるしゅると弱弱しく息を漏らした。


 制服ではないスティーヴンを見るのは初めてだ。あの誰が着ても陰気に見えること請け合いのローブですら、破格に着こなすスティーヴンである。その私服姿たるや、これを拝めただけでもういいかも、などと思ってしまうほど恰好良かった。何でもないシャツとスリムパンツに軽いジャケットを羽織っているだけなのに、こんなに様になるとはどういうことか。


 照れも手伝い、逆切れ気味にジェイドは彼の前にずかずか歩いて行ったが、思いのほか嬉し気に褒めてくるスティーヴンに気迫負けしたうえ、実にスムーズに手を繋がれて、真っ赤な顔を晒すことになった。


「何から乗りたい?」


 軽やかな音楽に迎えられ、並んでゲートをくぐった処でそう訊かれても、何しろジェイドにはよく判らない。だから全て、スティーヴンに丸投げした。面倒がって嫌がるかと思ったけれど、それじゃ緩い処からね、と笑いながら、すんなりエスコートしてくれた。


 玩具みたいなトロッコで不思議の森を探検するアトラクションから始まり、緩やかに回転する鳥の形の遊具に乗って上へ下へと空中散歩し、火の山の中を駆け抜ける初心者向けのローラーコースターに乗った。

 昼食代わりにクレープを食べ、焼き菓子の屋台と飲み物の屋台もはしごした。木陰のベンチで串に刺したフルーツを齧り、お腹一杯になったところで、園内を一周する水路でのゴンドラ遊びを満喫した。

 そして、満を持してここの目玉である、最後の最後にドラゴンの口の中に飛び込む大型ローラーコースターに挑戦したジェイドは、大絶叫の果てに足腰が立たなくなり、慌てたスティーヴンに抱きかかえられるようにしてカフェに入り、ぐんにゃりとテーブルに突っ伏した。


 やられっぷりに苦笑したスティーヴンが、そっと頭を撫でてくれるのが気持ち良くて、ジェイドは唇を綻ばせて目を閉じた。だから、スティーヴンが酷く切なそうな、そして幸せそうな笑顔で髪を梳いてくれていることなど、ジェイドにはとうとう判らなかった。


「だいぶ暗くなってきたな。そろそろ帰るか?」


 カフェから出て、そうスティーヴンが呟いた時、確かにもうかなり陽が落ちて帰るべき時間が来たのは判ったけれど、余りにも名残惜しくて、ジェイドは迷わず首を横に振った。


「スティーヴンの時間が大丈夫なら、もう少しだけ一緒に居て」


 彼の腕をそっと掴んで見上げるなんて、今までジェイドはしたことが無い。家族以外の異性の腕にすがるなんて、エチエンヌに誠実であろうと意識して異性との距離を取ってきたジェイドにとっては、全くの初めての経験だ。

 だからスティーヴンが顔を背けて口元を抑えて仰向いてしまったのを見て、慌てて手を離して飛び退いた。はしたない事をした、呆れられてしまったと思って、両手を意味も無く胸の前で振りながら取り消そうとしたのだが、大股一歩で距離を詰めてきたスティーヴンにぐいと手を引かれて、たたらを踏んだ。


「ジェイドが居たいだけ一緒に居る。……次は、何がしたい?」


 真直ぐに瞳を覗きこまれて、眩暈がした。赤とオレンジが散るヘイゼルの瞳が、名残の太陽を弾いてきらきら光る。目が逸らせなくて、ジェイドは固唾を呑んで、意識して瞬きを繰り返した。魅入られる。駄目。これ以上は何があっても駄目。


 だって、スティーヴンが見つめる人は、他に居るのだ。そして自分にも見つめるべき人が居る。自分が来るのを待っている。遂に一度も見たことも無いけれど、もう少しで夫になるひとが居るのだ。


 ……ああ、だけど、一度でいい。スティーヴンとキスしたい。今だけで良いから、たった一度でいいから、それ以上は決して望まないから、今だけ本当の恋人同士のように、吐息を絡めて見つめ合いたい。


 そんな軽はずみにも程がある自分の気持ちにぎょっとして、ジェイドは慌てて後ずさった。何考えてるの。馬鹿なの。絶対に駄目、だって一度でもスティーヴンとキスしてしまったら、きっと忘れられなくなる。この先、エチエンヌ()とキスするたびにコレジャナイと思いながら添い遂げるなんて、どんな地獄。それにスティーヴンの婚約者にだって申し開き出来ない。それこそ一生逢う事も無いひとだけれど、だからと言ってスティーヴンに裏切らせて良いわけが無い。駄目駄目駄目駄目ダメだったら。


「あれ! あれに乗りたい!」


 闇雲に指さしたのは、ティーカップだった。色とりどりの大きなカップがくるくる回る、自分で回転が制御できる、お調子者がぶん回して酔っぱらうアレだ。


「……ああ、判った。判ったけど、お前、あれ多分また酔うぞ」


「え? 自分で馬鹿をやらなきゃ良いんじゃないの?」


「いや、そうなんだけど、……まあいいや。どうせ最後には乗せるつもりだったし」


 聞き取れないほど低く呟いて、スティーヴンは掴んだままだったジェイドの手を引いて、賑やかな音楽と楽し気な悲鳴が誘ってくる乗り場に向かう。


「俺が選んで良い?」


 お好きなカップにどうぞ! と、にこやかな係員に何か囁いたスティーヴンから、変に真面目な表情で強請られて、ジェイドは首を傾げつつ頷いた。そして何故か訳知りな笑顔で手を振る係員にも疑問は残ったが、とにかくスティーヴンが決めたカップに素直に乗り込んだ。


 それは、色鮮やかなカップの中でも抜きんでて目立っていた。中央の一段高い壇の上に鎮座しており、地色の白銀の上から全体に隈なく金とブロンズと深紅で複雑な柄が描かれていて、他を圧して大きい。そして何故か座面が無い。まさかの立ち乗りか。安全面はどうなっているのだ。


「何これ。何かの術式に見えるんだけど。そして何で座るところが無いの」


「まあまあ。良いからここに俺たちの魔力を乗せる」


 本来はカップの回転をコントロールするハンドルがあるべきところに、蔓のような台座に支えられた正八面体の結晶が煌めいている。ジェイドは瞬きして、周囲を見渡し、結晶に視線を戻し、当たり前のように指先に魔力を乗せて準備万端のスティーヴンを見て、また結晶を見る。


「何よこれ。他のと違う」


「良いから、ほら、ジェイドも早く。音楽が始まる」


「えええええ?」


 急かすスティーヴンに煽られて、ジェイドは深く考える前に魔力を指先に練り上げてしまった。

 青白い光が纏いつく人差し指で彼に続いて結晶に触れた次の瞬間、結晶が溶けて銀色の光となって噴き上がり、ジェイドたちのカップをドーム状に覆った。同時にカップ自体も術式を残して透き通り、まるでちかちか瞬く蔓薔薇の鳥籠みたいに変貌する。周囲からどよめきが上がり、華やかな音楽が始まった途端、何と鳥籠状のそれがふわっと浮き上がった。今や聞こえてくるのは大歓声だ。気のせいでなければ指笛も。それも幾つも幾つも。


「うひゃああっ」


 可愛くない悲鳴を上げながら、ジェイドは両手を振り回す。浮き上がった籠がゆらゆらと回転を始めて身体が宙に放り出され、蔓薔薇のネットに柔らかく弾かれてバウンドする。


「なななななにこれ!!!」


「ジェイド、ほら」


 突発事態に逆上するジェイドを尻目に、スティーヴンは器用に蔓薔薇を蹴っては宙に漂って、余裕のある笑顔で手を差し伸べて来る。こうなることが判っていたのだ。そりゃそうだ、だってスティーヴンがこのカップを選んだ。係員がニヤニヤしていた理由も今なら判る、だってこれ、掴まれるところが何処にも無い。蔓薔薇の上を弾かれながら無様に転がり回るか、さもなくば。


 運動神経の良い同乗者にしがみ付いて、彼のステップ頼みで空中浮揚を堪能するか。


「なんってモノに乗せるのよおぉぉお?!」


「いや、お前が乗りたいって言うから」


「こんなんじゃないいいいいいい」


「もう乗っちゃったからな。酔いたくなければ、はい」


 良い笑顔で両手を広げるスティーヴンが悪魔に見える。しかしこのままではあられもない姿を彼の前で晒すことになってしまう。ワンピースの裾を片手で必死で抑えながら、ジェイドはもう片方の手をスティーヴンに突き出した。ぐっと引き寄せられて腰を支えられ、漸く安定を得られたジェイドはお腹の底から安堵の息を吐き、それから出来る限りの勢いをつけて肘でスティーヴンの腹を突いた。想定外の攻撃に呻くスティーヴンに僅かに溜飲を下げ、思いのほかしっかり回された腕を叩く。苦しいくらいに巻き付いているのだ。少し緩めてくれないと、密着し過ぎでジェイドの心臓がもたない。いろいろもたない。


 音楽に合わせて魔術の籠が回転しながら上へ、下へ。暮れていく空と、瞬く灯りの遊園地。眼下に広がる、きらきら光る蔓薔薇越しの景色は夢のようだ。危なげなく姿勢を保つスティーヴンの腕の中に居る、それが余計にジェイドを夢見心地にしている。最初の衝撃が過ぎて、楽しむ余裕が出てきたジェイドは、声を立てて笑った。後頭部に掛かる息遣いで、スティーヴンも笑っているのが伝わってきて、擽ったくて、紛れもない幸福感に満たされた。


 やがて、音楽が緩やかになり、術式は解ける。蔓薔薇は結晶に戻り、最後に魔力の残滓が辺りに散って、ふわりと消えた。


 何故か周囲から大喝采が起きて、見ず知らずの人々から口々に祝福される。意味が判らず、曖昧に笑いながらその場を離れたジェイドは、少し離れたベンチにぐったり座り、はしたなく背もたれにぐにゃりと寄りかかった。

 横目で隣に座ったスティーヴンを見る。…クリームをたらふく舐めた猫か。何をそんなに嬉し気に笑っているのか。こっちは疲れ果てているというのに。


「あぁぁぁぁ酷い目にあったぁぁぁ」


「言っとくが、乗りたがったのはお前だからな」


「私が乗りたかったのは、普通の! くるくる回る奴!! 何でよりによってアレに乗せたの!!」


「喜べよ。あれが起動出来る奴、なかなか居ないんだぞ」


「えええ?」


「拍手喝采されたろ? あれは少しくらいの魔力を乗せても起動しない。出来ても良くて薔薇のケージになるだけで、球体にまでならないし、浮き上がりもしない。あんな風に動かせるのは、ものすごく低い確率なんだよ」


「…ランダムってこと?」


「違う。相性だ」


 ……不穏な言葉が聞こえてきて、ジェイドは姿勢を正した。


******

 

「相性って、どういう意味?」


「まんまだよ。乗り込んだ人間の相性が良ければ良いほど、あの結晶の作用で魔力が融合して増幅する。どこまで絡み合えるかで、どの段階まで術式が展開するかが決まる。ちなみに先刻の俺たちのが、特別中の特別(ワンインアミリオン)。……ま、所詮、子供騙しと言えばそれまでだけど、それでも俺たちの相性が抜群なのは本当」


 淡々とスティーヴンは説明するが、ジェイドの理解は追いつかない。いや、追いついてはいるけれども認めたくない。認めるわけにもいかない。


「…つまり、私とスティーヴンの場合、滅多に無いくらいに魔力の相性が良いってことね?」


 動揺してはいけない。見えないところでスカートを握りしめて、ジェイドは密かに深呼吸する。


「主席のスティーヴンと魔力の波長が合うなんて、ちょっと面映ゆいわね。実力では雲泥の差だもの。あ、でも、光栄だし、嬉し」


「間違ってはいないけど」


 ぶった切ってきたスティーヴンの声のトーンは何故かひんやりと下がっていて、ジェイドは何となく危機感を感じてにじり下がった。


「……お前、判っててはぐらかしてるよな?」


 折角、穏便に言い変えたのに。

 努めて冷静に振舞ったのに、聞いたこともない低い声で言い捨てて立ち上がったスティーヴンに追いつめられる。上から覆いかぶさるようにベンチの背に両手を突かれて、逃げ場を無くしたジェイドは反射的に顔を伏せて縮こまった。異性慣れしていない(免疫がない)ジェイドである。体の大きい男に圧し掛かられるのは単純に怖い。


「……思い出せよ。お前とあれを起動したのは初めてじゃない」


「はい?」


 酷く切ない声で囁かれて、ジェイドは思わずまともにスティーヴンを見上げ、オレンジの散るヘイゼルが予想外に近くにあることにたじろいだ、その次の瞬間、強引に唇を塞がれて。


「……んんっ」


 頭の中が真っ白になった。


 急激に動悸が上がり、心臓が焼け付く。だがジェイドは一瞬で我に返った。これ駄目。ダメなやつ。上ってきた血が同じくらい激しく下がり、指先が冷たくなってくる。


「んんんん!」


 スティーヴンの肩に胸に手を突っ張って暴れた甲斐あって唇が離れて、ジェイドは顔を背けて大きく息を吐いた。


「何すんっ」


 喚いたのは失敗だった。あっという間に二の腕と後頭部を掴まれて引っ張り上げられ、再び、噛みつくようなキスが降ってくる。しかも今度は半端に唇が開いていたから、冗談では済まない深いキスに良いだけ翻弄されて、ジェイドの眦に涙が滲む。


 駄目だったのに。絶対にスティーヴンとキスしたくなかったのに。すごくすごくしたかったけど。したかったけど、駄目だったのに!!


 だからスティーヴンの唇が離れ、拘束が緩むや否や、ジェイドは力いっぱい彼を突き放した。ぼろぼろに泣いている自覚がある。みっともない顔になっているだろう。髪だってぐしゃぐしゃに違いない。貪られた唇に至っては、切れてるんじゃないかと思うほど痛いし腫れぼったいが、精一杯の威厳を保ち、やらかしておいて何故か自分の口元を抑えて茫然と立ち尽くしているスティーヴンを睨み上げた。


「ジェイド、ええと、ごめん俺、いや違う、そうじゃなくて」


 目を泳がせて何事か言い始めたスティーヴンは、可哀そうなくらい狼狽して見えた。当たり前だ。可愛い婚約者がいるくせに、何回も目の前で惚気たくせに、一目惚れで口説き落としたって照れて見せたくせに、それどころかジェイドの婚約者(エチエンヌ)への態度が酷いと責めまでしておいて、それなのに自分たちの相性がどうとか可笑しなことを言いだしてジェイドを混乱させて、その上、……その上ぇぇ!!


「この浮気野郎ぉおぉぉぉ!!」


 スティーヴンが咄嗟に目を閉じ、歯を食い縛ったのが判った。叩かれるのを覚悟したのだろう。それは良い、良い判断だ。ジェイドもその気満々だ。


 だが、狙いは頬ではない。そんな甘い報復では済まさない。


 ジェイドは拳を握ってフルスイングで引き、ついでに魔力を練り込み、スティーヴンの鳩尾めがけて思い切り叩き込んだ。


「……っは!」


「…ったぁぁぁぁいいいいい!」


 鋼かと思うほどスティーヴンの腹筋は硬く、打ち込んだジェイドが悲鳴を上げる。それでも流石にジェイド渾身の魔力が乗ったパンチは相当に効いたのだろう、スティーヴンはよろっと後ずさって、膝を付いた。


「おま、お前、……っか~~~」


「それで済んで有難いと思えぇ……ぃたぁぁいぃぃ」


 未だ残るキスの衝撃と拳の痛みに新たに涙が滲んでくる。負けるもんか。ジェイドはぐいぐい目元を拭い、見上げてくるスティーヴンに向かって仁王立ちで宣言した。


「今日、付き合ってくれたことにはお礼を言います。時間を割いてくれてありがとう。だけど、…スは絶対に許さない。もうスティーヴンとは絶交します。卒業式でも話しかけないで下さい」


「は!?」


「三年間、お世話になりました! 婚約者さんとお幸せに!!」


「待て…っ……うぉあ~ぁ……効いた…………」


 蹲る彼を置いて、後をも見ずにジェイドは駆け出した。通り過ぎざま、例のティーカップの係員がぽっかり口を開けていたのが見えたが、見なかったことにして精一杯の駆け足で出口を目指す。

 あれだけのこと(渾身のアッパー)をかましてきた以上、園内だの帰り道で追いつかれたら目も当てられない。身の置き所がない。スティーヴンが復活する前に、何としてでも距離を稼ぎ、出来ることなら家まで帰りつきたい。


 滅多にしない全力疾走に脚と心臓が悲鳴を上げる。

 明日は間違いなく筋肉痛で苦しむだろう。大歓迎だ。肉体的に辛いほうが、よっぽど良い。耐えやすい。


 ……でも、どんなに体を痛めつけても、あのキスの記憶は、きっと上書き出来ないだろう。

半泣きのまま、ジェイドはがむしゃらに走り続けた。


*******


 それ以降、ジェイドは徹底的にスティーヴンを避けた。


 あの翌日、彼から詫び状と一緒に小さな花束が届いたが、ジェイドは花束だけ寝室に活け、肝心の手紙は読まずに金庫に封印した。どうせ言い訳が書いてあるだけだと思ったのもあるが、どんなものでも、エチエンヌとの生活が苦しくなった時のために取っておこうと思ったのだ。いざと言う時に慰められるかもしれないと。……読んで改めて腹を立てる可能性のほうが高い気もするが、それならそれでその怒りをその先を生きる燃料として使えば良い。いや、夫との生活が苦しい前提がもう駄目だ。改めよう。エチエンヌはきっと良いひとだ。逢ったことないけど。まだ顔を知らないけど。


 今こそポートレートを見るべきだろうかと、スティーヴンからの花束を睨みながらジェイドは唸った。だが、もう、ここまで来たら、いっそ見ないまま嫁いで、何の情報も持たずにまっさらな状態でエチエンヌと向きあったほうが上手くいくんじゃないかと、ジェイドは無理矢理な理屈を捏ねて、結局、見ずに済ませた。両親は呆れていたが、もう好きにしなさいと匙を投げたように言って、放っておいてくれたのはありがたかった。

 

 その代わりと言っては何だが、ジェイドはエチエンヌから贈られたジュエリーを全て金庫から出し、身に着けることにした。


 どれも最高級と一目で判るスフェーンたち。濃いオリーヴグリーンに散る、鮮やかなファイア。オレンジに深紅、ブロンズ、ライムイエロー。……誰かの瞳をちょっと思わせるからとか、そんな理由ではない。無いったら無い。だってこれはエチエンヌの色なのだもの。


 卒業式にも、ジェイドはスフェーンを着けて行った。一番最初に貰ったペンダントだ。子供の彼女に合わせたからだろう、石があまり大きくなくて、普段使いしやすいのだ。制服姿にも違和感なく使えた。


 スティーヴンは主席での卒業だから、真ん中くらいの成績だったジェイドとは、大きく席次が離れている。それを良いことに、ジェイドは徹頭徹尾、彼とは目線も合わさないよう、細心の注意を払いながら一日を過ごした。

 ジェイドから寄りさえしなければ、スティーヴンとは簡単に距離を置けた。これが最後と女生徒たちが群がるし、後輩たちも別れの挨拶に押しかけてきて、彼は身動きが取れないからだ。人気者は大変だ。


 彼らの在学中の距離感とのあまりの差に、周囲からもの言いたげな視線を貰ったり、スティーヴン本人からの恨めしそうな視線もたびたび感じたが、ジェイドは知らん顔で友人たちとゆっくり別れを惜しみ、彼が人垣から解放される前にそそくさと帰宅した。


 その塩対応に、いよいよ再構築を諦めたのだろう、スティーヴンからはとんと何も言ってこなくなり、ジェイドは寂しいような、ほっとしたような、複雑な心境で結婚準備を進め。


 とうとう、その日がやってきて、ジェイドは嫁ぐために隣国へ渡った。


********


 隣国とはもともと国交が深いし、言語も近い。


 だからコミュニケーション自体に不安はなかったが、身分差というか、家格の違いにジェイドは長年に渡って腰が引けていたのだけれど、結果としては杞憂に終わった。


 確かに、アルノー家はジェイドの想像を遥かに越えて裕福だった。贈られてくるジュエリーで薄々察してはいたものの、いざ目の当たりにした冗談のようなお屋敷には腹の底から驚愕したし、自国では見たことすらない『使用人』という人々に囲まれる生活様式にびびり倒したジェイドだが、そこに住まうアルノー家の人々は大変に穏やかな人達で、蒼褪めるジェイドをびっくりするほど歓迎し、温かく迎え入れてくれたのだ。

 筆頭魔術師を父と戴く魔術一家と聞いて苛烈な人の群れのように思っていたのだが、落ち着いて考えれば、ただの偏見だった。


新居だと案内された別棟は、不思議なことにジェイドの好みにドンピシャの内装だった。『別棟』の存在に新たにびびりつつ、しかし何故にこんなにしっくりくる佇まいなのかと疑問は覚えたジェイドだが、それは一瞬のことで、かつて無い緊張感に全ては塗りつぶされ、新しい家族の厚意に感謝するのが精いっぱいだった。


 ここの生活に慣れるまでは、だいぶ時間が掛かりそうだが、もう来てしまった以上は頑張るしかない。

 荷解きしながら、ジェイドは観念の臍をしっかと固めた。


 というわけで、散々に血の気を引かせつつも、ジェイドは改めて自分に気合を入れ直し、いざ夫となるひととの対面に備えたのだが。


 何故かこの期に及んでなお、肝心のエチエンヌとは顔合わせが叶わなかった。


「ごめんなさいね。ひん捕まえておけば良かったわね。まさかここまで帰って来ないだなんて」


 挙式前夜、夕食も終わり、ジェイドはサロン(などという部屋があるのだ、アルノー家の本館には)にちんまり座っていた。紅茶を勧めてくれつつ、いささか物騒な言葉で謝ってくるエチエンヌの姉、目を見張る美貌を曇らせたエレーヌに、ジェイドはどう返事をするべきか迷って、結局、無難に笑顔を返すに留めた。


「あーんーなーにー貴女がお嫁に来てくれるのを待ち侘びてソワソワしてたくせに、気が付いたら居なくなってるって、どういう了見かしらね。腰抜けか」


「普通に後ろめたいんでしょうよ。バカ息子が」


 ……後ろめたいとは。ええとそれは遂に一度たりとも逢いに来なかったことでしょうか。ええ、()も。いやしかし、それはジェイドとて同罪である。来ないから行かないなどという子供の理屈で、アルノー家を訪問せずじまいだったわけで。

その事実に改めて冷や汗をかきつつ、ジェイドは密かに心に刻む。辛辣な口調で息子をこき下ろすこのお義母さんは怒らせないようにしよう。そうしよう。終始黙って、見るからに強そうなお酒を啜っている義父もたいへん厳しそうで怖そうだが、間違いなくアルノー家における一番の権力者は、一見、手弱女のこの義母だとジェイドは見た。


「ジェイドさんに怒ってるんじゃないわよ? すべてバカ息子の執着というか執念というか、いやホントにごめんなさいね。私は貴女の味方ですからね、困った時は何時でも言って頂戴」


 心を読んだかのような義母の台詞を聞けば聞くほど、ジェイドの頭のなかには疑問符が湧く。執着とは。執念とは。いや、確かに逢ったこともない人間を伴侶に望み、相手の反応が薄かろうが塩対応だろうが延々と何年も高価なプレゼントとポートレートを贈り続けられる心境とは、一言で言って執念でしかないような気はするが。


「ほんとよねー。あの時、五歳? 六歳だった?? いくら『百万分の一の確率の運命』だからって、あんな齢から手放さないとか、普通に引くわ」


「たかが遊具に大層な名前を付けたものよね。煽り文句にしてもえげつないわ。実際にはもっとずっと高い確率で薔薇のケージは起動するもの。でもまあ、釣り合う年齢で異性で、かつタイプがドストライクで、ってなると、それなりに厳しい確率ではあるわね」


「……薔薇のケージ? 起動するって、何のお話ですか?」


何かとても覚えのある言葉を聞いてしまった気がして、ジェイドはぎくしゃくとエレーヌを振り返った。その前に、年齢の話をしていたのも地味に気になる。


「ああ、貴女は憶えてないんですってね。でも、エチから聞いてない? 貴女とエチエンヌ、『百万分の一』を起動させちゃって大騒ぎになったのよ。たまたまその場に居合わせただけの貴女をエチが強引に引き込んで巻き添えにしたって言った方が正確だけど」


「……聞いてません。というか」


エレーヌの言い方に、ものすごく違和感を感じる。明らかにエチエンヌと面識があるのが前提のように聞こえるのだ。だが、どう訊けば良いのか考えあぐねている間に、エレーヌの思い出話はどんどん進んでいった。


「エチが浮かれてすっかりはしゃいじゃって、がんがん跳ねてケージを転がしたものだから、貴女は振り回されてものすごく酔っちゃってね。術式が解除されて漸く真っ青になって蹲ってる貴女に気付いたエチが、今度は自分が真っ青になっておろおろしちゃって、周りの人は凄い凄いって大騒ぎだし、ご両親には申し訳ないし救護は駆けつけてくるし、それはもう…、ん? なあに?」


全然そのエピソードに記憶は無いが、沸々と嫌な予感が込みあげてくる。ジェイドは強張る表情筋を無理やり動かして笑顔を作り、エレーヌに向けた。


……スティーヴンは、あの時、何て言った?


「薔薇のケージって、あの、結晶に魔力を流すと蔓薔薇みたいな球体になる遊具のことですか?」


「そう。それ。思い出した?」


「思い出したというか、ついこの間、友人とやりまして」


「あら。ちゃんとケージになったの? それはラッキーだったわね。面白かったでしょう?」


「そうですね。忘れがたいです。非常に」


ぶつ切りの返事にエレーヌはちょっと不審そうに首を傾げたが、ジェイドはそれどころではない。


「そもそもですが、アレ、何なんですか?」


「魔力を同調させて遊ぶ遊具よ。上手いこと同調させられるとケージが構築されて、魔力フィールドが発生する。それだけの事なんだけど、システムに凝りすぎた運営側が細かく段階を設定するわ、変な名前は付けるわ、それに煽られた若い子たちが相性測定だとか運命測定とか言って喜んじゃって、長いこと人気みたいね」


 その説明は、とても腑に落ちたというか、いや、そうじゃなくて。


 ……スティーヴンは、ジェイドとアレで遊んだのは初めてじゃない、確かにそう言った。


 でも、エレーヌは、今の話は飽くまでもエチエンヌとジェイドの馴れ初めとして教えてくれたわけで。


 ジェイドは、遊園地に行ったことがない。十八年間で二回しか行ったことがないのだ。ごく幼い頃と、忘れもしないつい先日の、たったの二回。確かに幼い頃のジェイドの記憶は曖昧だ。だがあんな特殊な体験を、同じ日に違う相手と繰り返したとは思えない。


 …………………つまり、この期に及んでまだ顔を合わせようとしないエチエンヌとは。まさか。


 そこから先の記憶が、ジェイドは定かでない。どうやって会話を切り上げ、部屋に戻り、いつ寝たのか、いつ起きたのか。挙式の身支度も茫然とした状態のまま終わり、頭の中も真っ白なまま、心配そうな両親に連れられて華やかに装飾された庭に出て、祝福の声を、花びらを浴びながら、ジェイドのドレスと揃いの礼装に身を包んで目も潰れそうな夫となる男の前に、間違いようがない鮮やかなヘイゼルの瞳をきらきらさせた()の前に引き出された、その瞬間までの記憶が。


 満面の笑みのくせに目が泳いでいるスティーヴンに手を取られ、ジェイドは反対側の手を固く固く拳に握って、披露宴まで乗り切った。


*********


 大馬鹿野郎は、まだ来ない。


 馬鹿げて広い寝台の端の端に腰かけて、ジェイドは両手に魔力を纏わせ、わきわきさせながら夫の訪れを待っている。


 このまま来ないとは思えない。何があろうと来るだろう。なにせ、所謂、初夜である。こんな真似をしてまで結婚したがった大馬鹿野郎が、この機を逃す訳がない。


 だがその前に、彼はジェイドにすべきことがある筈だ。


 わきわきパチパチ青白くスパークする指先を見ながら、ジェイドは努めてゆっくりと呼吸する。

 怒りに任せて殴るのはもうやった。今回は冷静に振舞いたい。可能なら、だが。


 と、ふたつある扉の片方、ジェイドの私室に繋がるほうではない扉が、如何にも思い切りましたと言わんばかりの勢いで開き、大馬鹿野郎の顔が半分、そろりと覗いた。


「……よ」


 何が、よ、か。ジェイドは無言で夫となった男を見やり、掌を仰向け、パチパチ瞬く人差し指で彼を招いた。

 新妻として間違った方向に挑発的な仕草だが、文句は言わせんと言わんばかりの、火を噴きそうな眼差しで来いコイするジェイドに、スティーヴンは、いやエチエンヌというべきか、とにかく彼は寝室に足を踏み入れ、そこで初めて彼女の全身を視界に入れたらしく、素晴らしい速さで体ごと目を逸らした。


「おま、なんって格好してんの!」


 耳どころか首筋まで赤くした彼に、ジェイドは何となく留飲が下がった気がして、鼻で笑った。


「旦那様がご用意くださったのではなくて? いやぁイイご趣味よねーえ」


 まあ確かにコレはえげつない。自分の胸元を見下ろして、ジェイドは改めて鼻白む。いっそ丸出しより駄目な感じがするのは間違いない。

 これは寝間着ではない。下着でもなかろう。シルクとレースと紐で出来た、うすーい何かだ。脱いで丸めたら、ジェイドの片手に余裕で隠せるだろう。しかもよりによって黒。新妻向きの色ですらない。真っ白な肌と艶やかな赤銅色の髪をおろしたジェイドが身に着けたところは、自分でさえ正視出来ない有様だった。誰が何処で買ってくるんだ、こんなもの。


「ばっ! なっ!?」


 言葉にならない何事かを駄々洩れにしながら、スティーヴンはわたわたと着ていた夜着の上衣を脱いで、それでジェイドをぐるぐる巻きに包み込み、頽れるように隣に座って息を吐いた。


「脱ぐなよ。絶対に脱ぐなよ、それ」


 上気した顔を両手で覆って言い募るスティーヴンを、今度はジェイドが正視出来ない。いや、首から下に目をやらなければ良いだけだと自分に言い聞かせて、明後日のほうに視線を飛ばす。

 何故、脱いだのか、そして何故こんなに近くに座るのか。呪いながらジェイドは一度ぎゅっと目を閉じ、直後に後悔した。巻きつけられた上衣に残る温もりと、清潔な香りが直撃してくる。コロンなのか石鹸なのか判らないが、見えないせいでより一層ダイレクトに迫ってくる。


 駄目だ。話を。何か話を。そうだ自分は怒っていたのだったと、ジェイドは無理矢理、吹き飛びかけていた感情を呼び戻して、隣の大馬鹿野郎の両耳を掴んで目を合わせた。


「説明しなさいよ」


「………あー。うん。ちょっと待って。今はまだダメ………」


 弱弱しく呟く彼の頭に、ぺしゃんと潰れた幻の耳が見える。掴んで引っ張っているコレではなく、へこたれた犬耳の幻が。

 

「あーもう苛々する。せめて名前くらい教えなさいよ。正しい名前は何なのよ」


「どっちも正しい。こっちの国ではエチエンヌだが、お前の国に倣えばスティーヴンだ」

 

 ……確かに。ジェイドの国でのチャールズが、こっちの国ではシャルルになる。そういう意味では彼の言い分は間違っていない。……かもしれないが。


「判った。じゃあ、どっちで呼ばれたい?」


「どっちでも。お前が呼びたいように呼べばいい。母がそっちの出なんだ。爺さん達からは普通にスティーヴンと呼ばれてる」


「……あらそう。何でも良いんだ? じゃ、しばらく馬鹿野郎でもいいかしら」


「………お前な。そういう事を言うなら俺にも言わせろ。…何年、気が付かないんだよ。俺は散々、送ったポトレを見ろと言ったよな?」


 いきなり恨みがましく睨まれて、ジェイドは仰け反った。


「何で婚約者の顔を知らないままで良いと思えるんだよ!? 見ろよ。確認しろよ。何枚送ったと思ってるんだ。いつまでたっても全く興味を示さないお前に、俺がどれだけヤキモキしたか判ってんのか」


「はあぁ!? だったら、そもそも何で逢いに来ないのよ!? そっちのごり押しで婚約したとき、何歳だった? 九歳? 十歳?? 学院で出逢うまで、何年あったと思ってんの!??」


「そ………っれは、お前、えええと」


 突然、狼狽えられて、ジェイドは瞬いた。泳ぐヘイゼルの瞳を覗き込む。


「何よ」


「……いや、その、お袋が」


「お義母さんが何」


 目を逸らして舌打ちするとか何なのか。


「言わないと脱ぐわよ」


「どんな捨て身だよ。………襲うぞ」


「やれるものならぁぁあああ??!」


 途中から派手に声を裏返して、ジェイドはひっくり返った。動きが急すぎて目が回る。上からまともに抱き締められて抑え込まれて、肺から空気を絞り取られたジェイドは次の息が吸えず、じたばたもがいた。


「………ぅおーもーいーいいぃ」


 びっくりするくらい体が自分の自由にならない。なんだこれ。どうやっても抜け出せないとか、どうなってるのか。


「暴れるな」


 くぐもった声で囁かれても、呼吸が出来ない以上、おとなしく言う事は聞けない。ジェイドはがんがん夫の背中を叩いて窮状を訴え、ちょっとだけ上がった彼の肩を更に押しのけて深呼吸した。

 死ぬかと思った。……いろんな意味で。


「だから、こうやってすぐお前を構いたがるから、お前がまたぶっ倒れるまで振り回しかねないから、俺が多すぎる魔力を完璧に制御できるようになるまでは絶対に逢いに行かせないとお袋が」


「………………ああ、そう………………」


 確かにスティーヴンは、途方もない魔力の持ち主だった。在学中、一度たりとも主席の座から降りなかった。勿論、魔力だけで主席は取れない。スティーヴンは、コントロールも練度も群を抜いていた。つまり、恐らく、幼かった彼はアルノー家で厳しい特訓を乗り越えて(恐ろしくハイレヴェルな要求だったと思われる)義母の太鼓判を得てから、全く必要が無かったであろう学生生活を送るために、わざわざジェイドの国まで来たのだ。


 ジェイドと過ごすために。


 それなのに肝心のジェイドはエチエンヌに全く興味がなく顔も知らず、当然スティーヴンが誰なのかも判らず、三年間ずっと判らないまま、卒業してしまった、と。


「俺に何か言うことは無いか?」


「………………ごめんなさい」


「………おう」


 額にキスが降ってきて、ジェイドは擽ったさに身をよじった。スティーヴンが喉の奥で低く笑う。


「でもだけど納得がいかない」


「…何だって???」


「私だけが謝るのが納得いかない! 何でちゃんと言わないの!? 自分が婚約者だって、どうして言わないわけ?!」


「興味ないですって何度も何度も何度も何度も目の前で宣言されて、お前、ワタクシが貴女様の婚約者でございますとか名乗り出られると思ってんのか!」


「知らないんだもの仕方無いじゃないの耳の横で喚かないで!」


「知らないのがどうかしてるって言ってるんだよ!」 


「もおおおお! 私の葛藤を、悩んだ時間を返してよ! スティーヴンが婚約者だって判ってたらあんなに苦しい思いをしなくて済んだんじゃないのよおぉぉ」


「………なに?」


 気の抜けた声で問い返されて、ジェイドはハタと自分が何を口走ったかを悟って真っ白になり、それから茹で上がったように真っ赤になった。


「お前が何を苦しんだって?」


「何も」


 間髪入れずに言い返したが、スティーヴンは何かを噛み殺そうとして失敗して、喉の奥から変な声を出した。


 彼が小刻みに震えるから、抱き込まれているジェイドも揺さぶられる。それが腹立たしいような、擽ったいような、温かくて広い胸の中に閉じ込められて純粋に安心していられるような、どう言えば良いのか判らないが、何だかすごく幸せなような気がしてきて、ジェイドはいつの間にかうっとり微笑っている自分に気が付いて。


 素直に、その気持ちを伝えようとしたのに。


「………………やっぱり駄目だすげえ気になる。そのエロい格好、ちゃんと見せて」


 突然ひん剥かれそうになったジェイドは、瞬間的に両手両脚に魔力をフル充填し、不埒な夫を寝台から叩き出した。



<了>


Bebe Rexha のオフィシャルが余りにも可愛らしくて好きすぎて、遊園地デートの話が書いてみたくなりました。


読んでくださってありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 予想しましたが、エチエンヌとスティーブが同一人物で良かったです。 [気になる点] 子どもの頃に出会ったエピソードがもう少し詳しく知りたかったです。 [一言] 面白かったです。
[良い点] 面白かったです! 遊園地デート、可愛い(*^^*) 魔術たっぷりのケージの仕掛けが圧巻でした! ジェイドの頑固な所も飾らない素直な人柄も大好きです。 [一言] いそいそ学園にやってきて温度…
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