今日も今日とて令嬢は逃走する
ガシャンと飛び乗った拍子にレンガを積んだ壁が崩れ足場を失い、体勢を整いきれないままの彼女は自分に喜々として手を伸ばして捕らえようとする整った顔立ちをした、けれども紛れもない狂人を苦々しい思いで見つめていた。
時を遡ること十年ほど前。
王城で華やかな見合いの場が開かれていた。様々な家格の少女たちが野心や希望や憧れを抱いてたった一人の少年の為に健気に、優雅に、大胆に自分を印象付けようと火花を散らす。
あるものは幼いながらにそれまで培ってきた知識を。あるものは生まれ持ってきた優れたる美貌を。またあるものは後ろ盾をもってアピールし我こそはと婚約者の席をと水面下で熾烈な戦いを繰り広げ。
それとは反対にその令嬢たちのあまりの気迫に恐れを抱いて身を小さくして影を消すもの。親に言われるがまま参加はしたものの王子より珍しい王城の菓子を口に詰め込んで満面の笑みを浮かべるまだまだマナーを学びきれてはいない幼女。
更には泣き出して親元に帰りたがり少し離れた位置から子どもらを見守る護衛に泣きつき駄々をこねるものもと広い広い会場を設けられていたがゆえになかなかの混沌を極めていた。
「殿下はどのような方がお好みですの?」
「……互いに支え合い、高め合えるものが好ましい。一方的に負担をかけられるのは男であれ女であれ、いずれは不満が爆発する。そうだろう?」
「まぁ、立派なお考えだと思います!」
「殿下は前衛的な発想をお持ちでございますのね!」
ここで婚約者の地位を得られれば後からどうとでもできる。それこそ妃の位につくまでに長い時をかけて王子の考えを説得できれば、自分たちの思うように女性として最高の地位に立てると太鼓持ちのようにキャッ、キャッと高い声で肯定を示す少女たちに王子は無言のまま、しかし不快を僅かにその紺碧の目に浮かべ顎を引くのみに反応をとどめた。
少女たちの人数が多いために事前にくじを引かせて、誰が、何分、質問の数も互いに三点ずつと決めている為に王子がどれだけうんざりとしても、また同じような質問が重なったとしても耐えなければならない。
そもそも自分の婚約者候補を絞るための会なのだ。問答無用で政略を結ばれるよりもまだ恵まれている。そう友人である側近候補や専属護衛に宥められては文句も言うに言えないだろうが。
王族に珍しく、政略であるものの国王と王妃が相思相愛でいて、由緒正しい伝統を否定はしないもなるべく自分たちの子どもにも恋愛感情を抱けるものをとした両親の親心からこの場は成り立っている。
憮然としながらもない胸を寄せて誰から教わったのか色仕掛けを企もうとする少女を半目で見つめ、まぁはしたないと外からヒソヒソと陰口を叩く順番待ちの少女らにもチラと視線を向ける。
そしてハァ、と憂鬱を紛らわすように小さく溜め息を吐いたところでまた話し相手が変わった。
あとどれだけいることかと手元に置かれた名前と特徴が書かれた一覧を……。このカンニングペーパーはあまりに少女たちに興味が抱けないと愚痴をこぼした為に側近候補がこっそり作り上げた禁忌だ。本当はこんなものを持っていてはいけない。
少女たちにバレたらどれだけやる気がないか、どれだけこの見合いを軽んじているのかがバレてしまう。
しかしそれでもいいと王子は視線を落とし、それから少女と顔を合わせた。
直前まで話していたソバージュの髪が自慢だった娘と違い、大人しく、まとう雰囲気も落ち着いて見える。目を爛々と輝かせた飢えた獣の如き形相でもない。
サラサラと指通りの良さそうな薄灰色の髪を結い上げ、繊細な髪留めでまとめ上げている。きりりとした怜悧な目も好感を覚えた。
話しが終わったはずの令嬢が近場に留まりまだ会話のチャンスを伺っている、そんな物怖じしそうな空間でも己のペースや意をしっかりと見せて淡々と受け答えする。
王子の三つの問いかけが終わり、今度は彼女の番だ。
少女の薄紅色の小さな唇が開き、問いを紡ぎかけた。まさにその瞬間だった。
少女がはっと何かに気付いたように切れ長の目を見開くと、自身に手を伸ばして右にと引き倒しにかかった。
何事かと王子が思うのと同時にガタンと何かが先程まで自分の体のあった場所を通り、テーブルへと突き刺さる。
突き刺さったそれの柄しか自分たちには見えないが子どもの体に刺さっていたならばただでは済まない長さである。
「皆、伏せろ!かがめ、襲撃者だ!立っていると的になるぞ!命が惜しければ騒がず伏せるか物陰に隠れるんだ!」
悲鳴をあげかけた令嬢たちも慌てて頭や腹を庇って地に伏せ、あるいは近くに控えていた護衛の元にと行けるものたちは身をかがめながら寄っていく。
今、下手に悲鳴をあげればどうなるかは幼くとも貴族の子どもたちだ。教えられ、逃げ方、逃走までの時間稼ぎ、状況の把握や大人の助けが来るまでの待機の仕方も習っている。
だからこそそれぞれに言われるがまま、家の教え通りに従い犠牲者は出ずに済んだ。
話していた令嬢の機転からテーブルの横に落ち、それから下へと隠され更にはその身を覆い隠すようにした彼女のおかげで王子は護衛が駆けつけるまで安全を確保され、令嬢の身にも特にこれといった追撃も行われなかった。
情けないことに庇われてしまった王子はしかし令嬢が気になり護衛に早く避難をと囲まれながらも無理を通して彼女を振り向き腕を伸ばすと、同じく避難をと急かされる彼女の華奢な左腕を掴んだ。
「なぜ、私を身を挺してまで庇った?お前も無事では済まなかったかもしれないだろう?」
「護衛が配されている場所は事前に父に聞かされておりましたので、不躾ながら直ぐに助けがくるとは思っておりました。あと、暗器が投げられたのを見て、迷う暇はないと判断してしまいました。尊き御身に無礼を働いてしまったこと、更にのしかかる真似までしてしまい、大変に申し訳ございません。実力と経験が不足しておりまして……」
父であればもっと良い対処も出来たのですが、と眉を少し下げて少女は頭を下げて王子が呆気に取られている間に二人は引き離されてしまった。
直ぐに安全な王城の一室に連れて行かれ、医者にも念のために体を診られたが転んだ時の小さな擦り傷のみで大事はない。
国王、王妃も駆けつけて泣いて腕に抱かれたり心配されてしまったが王子はそれどころではなかった。
「父上、母上。私の運命を見つけました」
母に抱かれ、豊満なその乳房に溺れそうになりつつも大事なことを告げたいと顔を少しだけ赤くした王子は母を押し返しながら真剣な顔をして伝えた。
「自分の身を投げ、私を完璧に守り通した近衛騎士団長の息女、シンディ・ロディア・マルベロを私の婚約者として迎えたく」
「なんと!」
「マルベロであるか。家柄も人柄も悪くはない。私の旧友でもあるからな。だが、娘を溺愛していると聞くぞ。もし今回の件で礼を返したいからという理由からそう思っているのであれば、シンディを蔑ろにしたり他の令嬢に現を抜かせばどうなるかわかっているか?」
「はい。他国にも誇る我が国の戦力を大幅に失うことになります。しかし、私はそのような愚かな真似はしません。それに恩を返す為にという理由での婚約ではありません」
魔女、魔物、魔人、竜と様々なものから国を守ってきたという名は伊達ではない。
そのような家系の父から娘を貰い受ける覚悟を決めるまでに王子は少女に価値があると見出していた。
頭の良さ、思い切りのある行動。そして淑女の面をかなぐり捨て叫んだ瞬間の勇ましいその姿。
ああ、これを恋と言わずして何を呼ぶ!
両親には煌めいていたと捉えられる目で。他の者たちには獲物を見定め仄暗い笑みを浮かべて飛びかかろうとしているように見えたという狂気の滲んだドロドロとした眼差しで。
王子はうっそりと笑みを浮かべて少女を追う為の準備を整え始めた。
それからというもの。マルベロ家と王家とで婚約を結ぶか結ばないかと何年とかけた話し合いの席が持たれ、主に目に入れても痛くない娘を嫁に出したくない父をどのように説得するかに焦点が置かれた。
国王とマルベロ家当主は確かに冗談を言い合えるくらいには仲も良かったが、これは別だ。
マルベロ家当主は国王があれそれと譲歩して娘を何とか貰い受けようと言葉巧みに提案を示したがどれも否と頑なであった。
「だから見合いなぞ参加させたくなかったのだ!我が娘、シンディの愛らしさは私だけが知っていれば良かったものを!」
「ええい、いつまでも往生際の悪い!娘とはいずれどこぞの誰かに嫁ぐものだ。幸せにする、絶対に他に目を移したりなどはしないと誓約書まで書いてそなたに渡そうとしている我が息子ほど誠実なものは現れんかもしれんのだぞ?!8歳の息子より大人げない真似をしおってからに!!」
「ぐううう、それでも王妃なぞに選ばれては教育の為に我が家で過ごす時間が減るだろう!」
「今からそんな寝言を漏らしていてはシンディ嬢が年頃になった時にお父様、嫌い!と嫌がられるぞ!」
「そんなことをうちの娘は言わん!絶対に、言わん!」
他言無用を厳重に言いつけられた城勤めたちに見守られる中で開かれた父親同士の話し合いの場ではそんなやりとりもあった。
隣室では母親同士の話し合いも行われていたがこちらはこちらで父親同士の話し合いよりも子どもたちの相性や手紙のやりとりから始めさせて顔合せとしようかなどといった具体的な会話がなされ、婚約に対して前向きな姿勢である。
「妾からはこれを。あの子がシンディ嬢に助けられた礼をと特注で作らせた首飾りじゃ」
「あらまぁ、こんなに大きな紺碧の宝玉をトップにあしらえて……。何と可愛らしい」
「これまであの子は女性に関心を持たずに来てしまって、母ながら心配していたがようやく初恋を迎え、妾も嬉しく思う。その贈り物は抑えきれない気持ちの現れとでも受け取ってくれれば」
「初恋に首飾り、しかも自分の色をまとってほしいだなんて熱烈ですわね。殿下も幼くとも男性。あの子にもよく言って聞かせますわ」
国宝級の装飾品すら作らせた王子の本気の度合いを母親たちは微笑ましく思う。
この時はまだ幼いからという理由と王子の初恋、それに見合いの場で起きたショッキングな事件を上書きする愛の物語という肩書きが強かったのだ。
だから誰もまだ王子とシンディ嬢の愉快な追いかけっこを予期していなかった。