四章 解決する表層の結果と解決しない深層の心理について
1、
猪狩はあるビルの前に立っていた。三階建てのビルで、二階の窓には「真崎探偵事務所」と書かれていた。階段を上り扉の前で止まる。一度深呼吸。扉をノックする。
しばらくの沈黙の後「どうぞ」という声。猪狩は中に入る。
部屋の中は整理整頓が行き届いていた。入って左の窓際にはデスク。その前に接客用のソファーとテーブル。右側には食器棚と小さなガスコンロがあり、真崎はそこでお湯を沸かしている。
「やあ、やっぱり君だったか」真崎は微笑む。「二十パーセントくらいで矢式さんかなと思ったんだけど」
猪狩は黙っている。
「ここに来たってことは犯人がわかったのかな?」
「ああ」猪狩はそれだけ答える。
「コーヒー飲むかい? インスタントだけど」
猪狩は何も答えない。
「はあ……」真崎はため息をつく。「その様子だと本当にわかっているみたいだね」
「ああ」猪狩はもう一度答える。「なんで殺した?」
2、
「なんで? 君がそれを聞くとは思わなかったな。」真崎はコーヒーを淹れる手を止めない。「興味がないと思っていた」
「何かしらの弁解が聞けると思っただけ」
「弁解、ね……。ないよ、そんなもの。僕は秋山美冬を殺した。動機はある。けれどそれを人に話す意味があるとは思わない。人を殺した罪は変わらないし、同情も求めていない。それよりも、君がどうやって気づいたか気になるな」
「時計」簡単に答える。
「ああ、あれはまずかった。」
「なんで密室にしたの?」
「ああ、何でだろうね。気づいてほしかったのかな? 君みたいな誰かに。確かに密室にする事で、事象の不可能性で身を守る事と、気づかれる事によるリスクを天秤にかけてのことではあったけど、賢い人間ならすぐ気づくだろうからね」
そう言ってから真崎は煙草を取り出し、火をつける。「でも実際のところ一番いい殺し方は通り魔に見せかけた殺人だよね。けど彼女の場合ガードが固くて無理だったんだ。で、思いついたのが密室。通り魔では殺せない。ならこういう閉鎖的環境で殺すしかない、ならば普通に殺すよりは密室殺人の方が安全と考えた。それだけ。ただ、誰かは気づくと思った。そして、それならそれでもいいと思った。」
猪狩は何も喋らない。どう切り出したらいいか、わからなかった。
「自首はするよ」猪狩の気持ちを察したかのように言った。
「ばれたから君を殺す。なんてことはないよ。君が気づかなくても自首していたかもしれない。ばれないように色々と細工をしたわけだけど、結局罪の意識から逃れられなくてね」
「じゃあ、なんで……」
「人を殺そうとする人間の気持ちがわかる?」真崎が聞いてくる。論旨がずれていると思ったが、猪狩は答える。
「いや、わからない。わかりたくもない」
「そう。……それが正解だ」
しばらくの間、沈黙。
「彼女も来るのかい?」口を開いたのは真崎だった。猪狩はしばらく考えて、奈美香のことだと判断した。「彼女」とは「She」のことか「Girlfriend」のことか。猪狩は「She」の事だと思う事にした。
「いや、知らない」
「来ると思うよ。たぶん彼女も気づく。彼女の場合頭の回転が速いけど無駄が多い。可能性を片っ端から挙げていくからね。君の倍くらいアイディアがあると思うよ。そして君はあの時一つも意見を出さなかった。それは、意見が無いんじゃなくて少しでも非合理的な意見は排除しているんじゃないかな、って思った。勘だけど。君だっていくつも考えがあったんじゃないかな? だから、彼女じゃなくて君が来ると思った」
再び沈黙。真崎は煙草の火を消す。「じゃあ、そろそろ行くかな」彼は立ち上がり、扉へと向かう。
3、
奈美香は走っていた。気づいてしまった。急いでどうなるわけでもない。会ってどうなるわけでもない。どうするわけでもない。だが走っていた。人通りは少なかった。たまにすれ違う人々は、走っている奈美香を怪訝そうに見つめるが彼女は気にも留めない。
「たぶん、この辺……」
奈美香は真崎探偵事務所の場所を知らなかった。住所だけ調べてゆっくり探そうと思ってきた。しかし、途中で気づいてしまった。じっとして入られなかった。
信号機のある交差点で止まった。膝に手を着き、息を切らしている。
「あ……」顔を上げると交差点の反対側に真崎が立っていた。微笑んでいるように見える。
信号が青になった。奈美香は動かなかった。真崎はこちらに歩いてくる。
「やあ、こんにちは」真崎はやはり微笑んでいた。「やっぱり、気づいたね」
「ええ」奈美香も微笑み返す。「残念だわ」
「さようなら」真崎はそれだけ言って通り過ぎる。
「さようなら」奈美香もそれだけ返す。奈美香は真崎の背中を見えなくなるまで見つめていた。
意外とドライなものだと思った。知り合って数日しか経っていないのは確かだが、自分が彼に好意を持っていたのも確かである。理由はわからなかった。案外、自分の感情を自分で理解できるほど人間はよくできているわけではないのかもしれないと思った。
「よお」後ろから声がした。
「あ、康平」
「おう」
沈黙。何を話せば良いかわからなかった。もっとも、猪狩は話す気すらないかもしれない。
「帰ろうか」猪狩はそれだけ言った。
「うん」奈美香は頷く。なんだか、安心した気がした。
4、
「いや、全然わからないんだけど」
四人は藤井の部屋にいた。彼はアパートに一人暮らしである。海で飲めなかった酒を飲んでしまおうということだった。先ほどの台詞を発したのは藤井である。
「私もわからない。」怜奈が頷く。「どうやって真崎さんが?」
「簡単だよ」猪狩が答える。「テーブルの上にあった鍵はあの部屋の鍵じゃなかった」
「え?」二人は驚きを隠せない、いや隠す気はないだろう。
「あの鍵は別の鍵で、あの部屋の鍵は彼が持っていた。それで鍵をかけて、第一発見者になって鍵を元に戻す。探偵という職業なら、場を仕切れると踏んだんだろう。誰も部屋に入れずに隙を見て鍵をすり替えた。たぶんハンカチで鍵を取ったときだろうね。その中に本当の鍵が入っていた」
「だから、夕食のときに探偵だって言ったのよ。私が聞かなくても、自分から話していたでしょうね」
「でも、どうやって部屋に入ったの?」怜奈が首を傾げる。
「推測だけど」と前置きして「被害者は真崎が探偵だと言ったときに反応してこっちを見た。探偵に相談したい事があったんだろう。そしてそう仕向けたのはたぶん真崎本人」
「なるほど、でもどうして? 動機は?」
「それは知らない。真崎は通り魔に見せかけて殺すにはガードが固すぎた、と言っていたから、彼女は殺される事を自覚していたんだろう。それ程のことをしていた。そして、その対象が真崎だった。それと、例えば、そのことで脅迫状かなんかを送れば探偵に相談したがるんじゃないかな」
「なるほど、警察には言えないしな」藤井は感心している。怜奈も頷いている。奈美香はわかっている、といった顔をしている。
「全部推測だよ」
「そもそも、どうしてわかったんだ?」
「時計が鳴った」
「時計? ああ、やっぱりあれって時計だったの?」
「ということは死体に気がついてほしかったということだと思った。そうしないと鍵をすり替えられないから」
「でも、ちょっとずさんよね。時計を鳴らすなんて不自然すぎるもの」奈美香はふと思いついた。
「気づいてほしかった」
「え?」
「そう言っていた」
「よくわからない。密室にまでしておいて、気づいてほしかったって……」
「わからないのが普通だ。俺たちは人を殺した事がないからな」
「まあ、そうだけど……」
「はいはい、もうやめ。犯人は捕まったし、トリックもわかったし、もうこの件は終わりにしよう。せっかく飲んでるんだから、くらーい話はやめようぜ」藤井が提案する。三人もそれに賛成する。結局、物騒な話なんてしたくはないのだ。