二章 転回する彼の思考と展開される彼女らの好奇心について
1、
数十分後、ホテルは警察関係者で埋め尽くされた。被害者の部屋はもちろん、ロビーまで警官だらけとなった。
猪狩たちホテルの客は、ロビーで待機するように言われている。四人はソファーに腰掛けている。
「殺された女の人、誰?」藤井が聞いてきた。怜奈は気が動転しているのだろう、ずっとうつむいている。
「さあ、ホテルの中では何回か見たけど」猪狩が答える。
「あたしも知らない」奈美香は怜奈のほうを見る。二人の視線も集まる。
「なあ、休ませた方が良くないか?」猪狩が藤井に聞く。
「ああ、聞いてくる」藤井は近くの警官の方へ歩いていった。
さて、どうしたものか。
奈美香は先ほど起こった不可解な現象について考えていた。しかし、思考がまとまらない。こういった事態は小説の中だけだと思っていた。実際に起こってみると異常なほどの緊張感を感じる。人の死という現実が自分の身体を縛り付けている。この中で平気で推理を展開できる名探偵たちは、やはり小説の中の人物なのだなと実感する。しかし、それでも気になるものは気になるのだ。深呼吸をして落ち着こうとする。
そうしているうちに藤井が歩いてきた。
「部屋で休んでいいってさ。あとで話を聞きに来るってさ」
「そう。怜奈、大丈夫?」奈美香は怜奈の顔を覗き込むように言った。
「うん」怜奈は小さな声で答えた。決して大丈夫には見えない。奈美香は怜奈に肩を貸して部屋に連れて行った。
四人は怜奈の部屋に入った。怜奈はベッドの端に座り込む。奈美香はコップに水を注いで怜奈に渡してやった。怜奈はそれを少しずつ飲む。少しよくなったように見える。
「ありがと、奈美香」怜奈は奈美香に微笑む。若干の無理があるように思えたが、良くなってはいるようだ。
「無理するなよ」藤井が心配そうに声をかける。その時ドアがノックされた。猪狩が一番近かったのでドアを開ける。真崎だった。
「やあ、大丈夫かい? 今、下の一〇五号室で事情聴取やっているから。あとは君たちだけだよ。そのうち警察が呼びに来ると思うけど。じゃあ、お大事に」そう言って微笑むと真崎は部屋から出て行った。
「真崎さんって良い人ね。こういう気遣いができる人っていいわぁ」奈美香は嬉しそうに言う。
しばらくすると警官がやってきた。どなたからでも、ということで猪狩が最初に行く事にした。
2、
猪狩が一〇五号室に入ると、警官が二人いた。一人は三十代くらいで背が高い。がっちりとした体格で、もう一人は五十代くらいだろうか。若干白髪混じりで小柄だ。二人とも椅子に座っている。部屋に椅子はひとつしかないからどこからかもって来たのだろう。
「すいませんね、お手数をおかけします。道警の大竹と申します」若い方の男が愛想よく言う。「どうぞおかけになってください」猪狩は言われた通りに椅子に座る。
「ええと、まず、殺された被害者と面識はありましたか?」
「いえ、ないと思います」
「思います、と言うと?」
「顔を見てないんで。名前も顔も知りません」
「ああ、失礼しました。」そういうと大竹はテーブルの上のファイルから写真を取り出す。「こちらです。秋山美冬さんというのですが」
猪狩は写真を見た。ホテルに来てから何度か見た顔だ。海に行くときにロビーで見かけたし夕食のときも居た。
「いえ、ここでは何度か見ましたけど話もしていません」
「そうですか。では、事件が発覚したときの事を教えていただけますか? 他の方の話だとあなたもいたそうですが」
「えっと、風呂から上がって部屋に戻ろうとしたら音が聞こえたんです。目覚まし時計みたいな。で、たしか尾崎さんでしたっけ、記者の人が扉をノックしたんですけど反応がなくて。うるさいから鍵を開けて中の様子を見ようって事になって、オーナーが鍵を持ってきたんです。あの音って何だったんですか?」
「時計ですね。隠されていました。いろいろと細工がされているようで、今調べています……」大竹は言葉を切った。喋りすぎたようでもう一人の刑事に睨まれている。細工がされていたということは、その時計が密室に必要だったという事だろうか。
「鍵を開けたのはオーナーでしたか?」大竹は咳払いをして質問を再開した。
「え? たしかそうでしたけど」
「その前に鍵がかかっているのを確認しましたか?」
「いえ……」
なるほど、警察は本当はあの部屋が密室ではなかったと考えているのだろう。でもたしか部屋を空けようとしたのは尾崎だったはずだ。二人が共犯でないかぎりそれはない。そもそも、本当に密室だったのか。猪狩は自分がいつもより積極的な思考になっている事に気づいた。
「窓の鍵ってかかってました?」猪狩は聞いてみた。
「……かかっていましたよ」大竹は少し渋い顔をした。あまりいろいろ質問するなということか。
「では最後に今日の行動について教えて下さい。夕方以降でいいですよ。」
「えっと、たしか海から帰ってきて七時まで友達と四人でトランプをしていました。それから夕食を食べて……七時半過ぎくらいから八時半くらいまでは自分の部屋にいました。それから風呂に入って、出てきたところで終わりです」聞かれている事を答えているだけだが、いつもより饒舌だと自己分析する。
大竹はメモを取っている。年配の刑事はずっと考え込んだ表情だ。
「もういいですよ。ありがとうございます」
3、
怜奈はだいぶん良くなったようだ。自分もさっきより落ち着いてきた。奈美香はそう思い、ずっと思っていた事を口にしてみた。
「誰がやったのかしら?」二人は驚いたようだ。
「ああ、そういう話になるの?」藤井は苦笑いする。怜奈も驚きはしたようだが、興味をそそられたようである。やはり、女子の方が強い世の中になったのだろうかと考える。ちょうど猪狩が入ってきた。
「次、誰が行く?」猪狩が聞いてきた。
「じゃ、俺が」藤井が立ち上がり、部屋から出て行った。
「誰がやったと思う?」奈美香は猪狩に尋ねる。
「さあ、それよりどうやってやったか気になる」
「あ、たしかに」
「どういうこと?」怜奈が首を傾げる。彼女は鍵を見ていない事に気がづく。
「ああ、テーブルの上に鍵が置いてあったのよ」奈美香が説明する。
「密室?」
「そういうこと」
「窓も?」
「あ」それはすっかり忘れていた。全く見ていなかった。
「かけてあったよ」猪狩が答える。
「本当に?」奈美香は猪狩に尋ねる。
「知らない。警察が言っていただけだから」
「本当に密室ね」奈美香がつぶやく。
「そうでもないだろ。鍵が二つあればいいんだから」
「あ、そうか」
「でも普通は部屋の鍵って一つじゃない? あとで伯父さんに聞いてみるけど」
確かにホテルの鍵が二つ以上あるとは聞いた事がない。あとはマスターキーだけだろう。
「じゃあ、可能性は二つね。みんなの目を盗んでカウンターからマスターキーを盗んだか、外から何らかの方法で窓かドアの鍵を閉めたか」
「もう一つ、あの時、まだ犯人が中にいた」
「ありえる?」怜奈が首をかしげる。
「さあ、ベッドの下とか、クロゼットの中とか。でも可能性は低いよ」
「なんで?」
「警察が来るまで俺がずっと見てた。ロビーからだけど」
「うーん。じゃあ、やっぱりキーを盗んだか、外から鍵をかけたかね。でも、カウンターからキーを盗むのってかなりハイリスクじゃない? 戻さなきゃいけないし」奈美香が言う。
「こんなところで殺す事自体ハイリスクだ」猪狩はそう言うと立ち上がった。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「部屋。なんか馬鹿馬鹿しくなってきた。だって警察の仕事だろ、これ」そのまま部屋を出て行った。
「つまんない男……」奈美香は猪狩の後ろ姿を睨みながらつぶやいた。
「あれ、康平は?」入れ替わりで藤井が戻ってきた。
「部屋に戻っちゃった」怜奈が説明する。「さっきまで、密室の話で盛り上がってたんだけど」
「なんだ、俺だけ仲間はずれ?」
4、
奈美香は警察の事情聴取を終え、一〇一号室の扉をノックする。わかったことは少ない。殺されたのは秋山美冬という女性でOLということだけだった。しばらくの間があり、中井夏美が顔を出す。
「やっほ」奈美香は笑顔で小さく手を振る。
「ああ、奈美香ちゃん。入って入って」中井も笑顔で返す。
奈美香と中井は今日知り合ったばかりである。中井はH大の二年生である。先に話しかけてきたのは中井のほうで、互いにミステリー好きという事がわかって、意気投合したという経緯である。
「大変な事になったね」奈美香が話を切り出す。
「うーん、でも私見てないからなあ。奈美香ちゃん、見たんでしょ?」
「うん、ちょっときついわね」奈美香は苦笑いする。思い出すと寒気がしてくる。
「私駄目だわぁ、きっと。こういうのは本の中だけにしてよ、って感じ」
「事件のとき、何してたの?」奈美香は思い切って聞いてみる。実はこれを確認しに来たのだ。
「なに、アリバイ確認? うわぁ、事件解決する気なんだぁ?」中井は目を丸くする。「いいよいいよ。えっとね……いつ?」
「夕食のときはいた気がするのよね、殺された女の人。だから、その後」
「えっとね」中井の目線は天井を向いている。思い出そうとしているようだ。「しばらくは、食堂にいたかな? 貴裕としばらく話して、仕事があるからって、彼厨房に引っ込んで行っちゃったから部屋に戻って、何時頃だったかなあ? 覚えてないや。その後すぐお風呂に行ったよ。」貴裕とはここで働いている中井の彼氏の事だろうと奈美香は推測する。
「ふーん、じゃあ、彼には一部アリバイがあるのね。オーナーも一緒かしら?その辺は怜奈が聞いているかしら」
「がんばってね」
「なんの得にもならないけどね。好奇心って嫌だわ。わかってるのに止まらないもの」奈美香は微笑んだ。
6、
怜奈はカウンターの奥の部屋にいた。事務室のようなところである。
「まいったよ。ただでさえ経営が厳しいのに、殺人事件があったなんて広まったらどうしようもないよ」オーナーの林はため息をつく。苦笑いすらできないようだ。
「伯父さん、大変ですね……」
「警察にもいろいろ聞かれるし、冗談じゃないなあ、こっちにはアリバイがあるのに…… 高石君とずっと夕食の後片付けをしていたんだ」
怜奈はしめた、と思った。一番聞きづらかったことを自ら話してくれた。もっとも、怜奈は自分の伯父が人を殺したとは全く思っていない。
「なあ、高石君?」林は椅子に座ったまま首だけ後ろを向いて高石に同意を求めた。怜奈は彼が中井の彼氏だろうと思った。
「はい」とだけ高石は答えた。
「もう、早く犯人を捕まえて欲しいよ。でないと商売あがったりだよ」
7、
猪狩は自分の部屋に戻るところだった。階段を上っている途中で話し声が聞こえてきた。
「で、探偵としてはどう考えているわけだい?」真崎の部屋の前で尾崎が話しかけている。盗み聞きするのもどうかと思ったが、そのまま聞くことにした。何か事件について聞けるのではないかという期待があった。事件があってから確実に思考が変化している。理由はわからない。
「なにも。僕の仕事じゃないですよ。」真崎は素っ気ないが微笑んでいるようにも見えた。
「そんなこと言わずにさあ」
「何を聞きたいんですか?」
「もちろん、犯人は誰か? でも情報が少ないわな。とりあえず、密室のトリックかな?」
「さあ? でも方法はいくらでもありますよ。誰にでもできます。僕にもアリバイはないですしね。あなたにもないでしょう?」
「まあな、自分の部屋で仕事をしていたからな」
「とにかく情報が少なすぎます。そして情報が増える事もないでしょう。僕は警察関係者じゃない。むしろ容疑者だ」
「まあ、そうだな」尾崎は舌打ちした。そして自分の部屋に戻ろうとする。
「そういえば、中年の夫婦、見ませんね」真崎が呟いた。