比翼の君と夢を見た
“──王の不興を買い、父とともに迷宮に幽閉されてしまった青年、イカロス。
二人は鳥の羽根を蝋で固めて翼をつくり、空を飛んで逃げ出すことに成功する。
蝋は熱に弱い。それゆえ、父ダイダロスはイカロスに、太陽に近付いてはならないことを忠告する。
しかし自由を手に入れたイカロスは調子に乗り、みずからの力を過信し、父の忠告を忘れて太陽神ヘリオスに近付いてしまった。
太陽の熱に蝋の翼は溶かされた。
すべてを失ったイカロスは、救う手立てもなく、真っ逆さまに大海原へ墜ちていったという──”
抱え込んだ箱の重みが指に沁みる。
こころよい重みに顔をしかめて、行く手の急坂を見上げた。
最寄りの中井駅から丘の上の我が家へたどり着くには、嫌でも坂を登らなければいけない。昔は大荷物を抱えるたびに帰り道で息切れを起こしていた。この街には何度も泣かされたな──。たかだか二年前の苦労を他人事ながらに偲んでいる自分が奇妙に思えて可笑しくて、へへ、と変な息が漏れた。
急がなくちゃ。
片付け途中の荷物と同居人が私を待ってる。
気合いを入れて坂を上り、入り組んだ街路を抜けて、アパートの前に立った。野口荘と銘打たれた木造二階建てのアパートは今夜も古ぼけていた。鉄製の外階段が音を立てて軋むたび、ああ、きっと私の帰りはあの子に気づかれてるな、と思った。それでもちょっぴり脅かしてやりたかったから、忍び足で二〇三号室のドアに近づいて鍵を一気に回した。
「おかえり!」
即座に飛んできた声が私を失望させた。玄関で待ち構えていた女の子は、いたずらっぽく口を歪めて、しょげる私を上目遣いに覗き込んだ。
「ビックリさせようとしたんでしょ」
「また失敗したけどね」
「わたしがスミレの帰りを勘づかないわけないじゃん。無駄だって何度も言ってるのに」
「私の方こそ、スミレじゃなくて純音だって何度も言ってる……」
「長いこと呼び続けて慣れちゃったよ。そろそろスミレも慣れてよ」
「長いことって、たった二年間でしょ」
ふへへ、なんて私に負けず劣らずの変な鼻息を漏らしつつ、後頭部を掻いた彼女は私の前に立って、音もなく廊下を歩いてゆく。灯りのついた居室が廊下の先で私を待っている。殺風景になったものだ。ミニテーブルもコタツも本棚も撤去され、代わりに点々と転がった無機質な顔の段ボールが、帰り着いた私を静かに眺め回す。
もうじき、この景色も見納めなんだな。
こらえていた寂しさが目尻ににじんだ。
けれども彼女の前で悲しい顔なんて見せたくなかったから、私は目尻を指で拭って、前を向いた。
「ただいま、ユウカ」
彼女──ユウカは軽やかにきびすを返して、もう一度「おかえりっ」と微笑んだ。
初めての独り暮らしも今日で二年になる。東北地方の故郷を飛び出し、広い東京の片隅に家を借りたとき、まだ私は右も左も分からない十八歳だった。通学先の短大の近所に借りたかったのだけど、そこは新宿区という都心有数の地価高騰エリアで、私の薄っぺらい財布で家賃を支払えるのは新宿駅から私鉄で四駅の町はずれに建つ、築四十七年のオンボロアパート一棟きりだった。
ようやく入居に漕ぎつけて、荷物の搬入も終えて、さあ新生活だと心を奮い立たせているところに、彼女は現れた。
ユウカは座敷童子を名乗った。座敷童子なんてもっとこう、おかっぱで、和服を着ていて、背格好の小さな子どもだとばかり思っていた私は、同年代の女の子みたいなユウカの姿に驚いた。背丈も私とほとんど同じで、洋服を着ていて、こそばゆそうに後頭部を掻きながら、彼女は「この姿の方がビックリさせないかと思って」とはにかんでいたっけ。
驚いて腰を抜かした私に、ユウカは同居を願い出た。お世話はなんにも要らないからここにいさせてって、あの上目遣いで頼み込んできた。それ以来、彼女は私の部屋に定住している。座敷童子のひとりやふたり棲みついていても不思議じゃないほど古い物件だったのもあるし、座敷童子の存在を信じる風習が私の身近に残っていたことも相まって、なし崩し的に私は定住を許してしまった。そのうち、短大の勉強も忙しなくなって、いちいちユウカの存在を気にかける余裕もなくなった。
ユウカの姿は他人には見えない。実体がないから家事もできない。ぼんやり窓の外を眺めたり鼻歌を口ずさんだり、あるいは居眠りに興じながら、ときどき私の様子を覗きに来るだけ。まるでペットの小鳥みたいだ。住み慣れない大都会の片隅で、私は小鳥みたいな同居人の不思議な見守りを受けつつ、ひとりで奮闘を重ねてきた。
「──プレゼント、いっぱいあるね」
床に座り込んで箱の包装を破いていたら、いつものようにユウカが中身を伺いにきた。
「これから引越しだって言ったのに、みんな聞いてくれなくて」
「中身は何なの?」
「いま開けたのが万年筆、そっちの箱がぬいぐるみ、向こうの箱はコーヒーメーカー」
「わ、すごい。スミレの名前が彫ってあるんだ」
「だからスミレじゃなくて純音だってば……」
お約束通りの突っ込みをこなしつつ、取り出した万年筆を眺めてみる。側面に彫り込まれた【梶浦純音】の文字に、じんと胸が熱くなった。こういうのって、きっと一朝一夕で用意できるものじゃない。もっと喜べばよかったな。
「送別会、楽しかった?」
しげしげと万年筆を見つめながらユウカが問う。私は「うん」とまばたきを打って、ひとまず万年筆をケースの中へ収めた。
「楽しかったよ。夜遅くに歌舞伎町で解散だったから、帰り道はちょっと怖かったけど」
「オトナになったなー。最初の頃は繁華街になんて近寄ろうともしなかったのにね」
「二年も暮らしたんだから少しは成長するもん」
実は電車に乗るまで友達の手を握っていたなんて絶対に言えない。うきうきと目を輝かせるユウカを尻目に、私は次の箱へ指をかけた。
送別会を開いてくれたのは通学先の短大──研心大学短大部の友達だった。卒業と同時に神奈川県へ引っ越すことを話したら、みんなは口々に「飲み会やろう」と言い出して、お店選びも集合場所のセッティングも済ませてくれた。入学したての頃は身寄りも何もなくて不安でいっぱいだったのに、気づけば、こうしてたくさんの人に恵まれている。この心強さを二年前の私にも分けてあげられたらいいのに、と思う。
「成長かぁ」
包装を破く音に混じってユウカの感嘆が響いた。
「わたしもね、スミレはすっごく成長したなって思うよ。この二年間、どんなことがあっても歯を食い縛って耐えて、一度も夢を投げ出さなかったもんね」
「投げ出さなかったわけじゃないよ。それに、そのとき支えてくれたのはユウカだったでしょ」
「わたしは何もしてないよ。頑張って成長したのはスミレ自身だよ」
「私の成長なんて、受け持った子たちほど大したもんじゃないし」
あとスミレじゃなくて純音だ、とは付け加えなかった。もはや徒労に終わるのは分かり切っているし、突っ込めば突っ込むほどユウカを喜ばせる気がして癪だった。
突っ込みの代わりに軽く視線を放った。まるで、それでいいんだよといって私の頬を撫でるみたいに、破いた包装紙を丸める私の向こうでユウカは穏やかに微笑んでいた。照れくさくなった私は、ろくに中身の確認もしないままプレゼントを段ボールに入れた。
【せんせいげんきでね】
可愛らしい文字に彩られた一枚の色紙が、梱包の影に隠れて見えなくなった。
私の夢は保育士だった。
中学生の頃から憧れてきた仕事だ。
地元に残るのが嫌で、高校卒業と同時に上京した。短大の子ども学科に通って、実習経験も積んで、二年後には保育士になって就職する心積もりだった。
願書を宅配便で取り寄せたおかげで、志望校が東京にあることは呆気なく親にバレた。両親には最後まで反対の説得を受け続けた。東京での独り暮らしなんてできるわけない、泣いて帰ってきても知らないぞと脅された私は、かえって発奮した。何がなんでも一人前の保育士になってやると覚悟を決めて、第一志望に選んだ研心大の合格をもぎ取り、門戸を叩いた。朝早くに登校して講義へ臨み、夕方まで図書館にこもり、休日はアルバイトに励み、帰宅するや否や疲れて眠りに落ちる日々が始まった。
研心大では長らく友達ができなかった。暇さえあれば勉強している私に取っつきにくさを覚えたのか、実習仲間のクラスメートたちは微妙に私から距離を取っていた。日常会話の相手は座敷童子のユウカだけだった。ユウカは家事も何もしてくれないけれど、私が帰り着くと必ず玄関で待っていて「おかえりっ」と笑う。はじめは適当にあしらっていた私も、そのうち義務感に駆られて「ただいま」と返すようになった。
実体を持たないユウカは部屋の電気さえつけられない。深夜の玄関にぬぼーっと立つユウカの姿が怖かったので、じきに照明をつけっぱなしにして出かける癖がついた。何気のない「ただいま」と「おかえり」の応酬から始まった私たちの関係は、電気代が嵩むのと裏腹に、友達の不在を補うようにして少しずつ深化していった。
「スミレは頑張りすぎるんだよ」
「もっと手を抜いたらいいのに」
それがユウカの口癖だった。深夜まで勉強机にかじりついて参考書を読みふける私を、いつもユウカは眉を曇らせながら見つめていたっけ。私は相手にしなかったばかりか、時には手でユウカを追い払ったりした。こっちは必死で勉強しなきゃならないのに、のんきな座敷童子は「お化けは学校もテストもない」なんて唄いながら楽しそうに私の邪魔をする。いちいち構っている余裕なんてなかったのだ。
ご飯を食べるあいだ、布団に潜り込むあいだ、退屈しのぎの相手になってくれればいい。
私がユウカに求めていた役割はそれだけ。
そもそもユウカ自身のことさえ私は満足に知らない。いつかユウカに名前の綴りを尋ねたら「ユウは幽霊の幽じゃない?」なんて冗談っぽく返された。それが事実か否かはともかく、私が知っているユウカの情報はそれっきりだ。知ろうとするゆとりさえ持ち合わせてこなかった。自由を求めて羽ばたいたギリシャ神話のイカロスよろしく、バカ真面目な夢追い人だった私の瞳には、あの頃、夢の広がる彼方の空しか映っていなかった。
荷物の整理はいっこうに終わらなかった。終電の時刻を過ぎたのか、遠くで断続的に響いていた西武新宿線の走行音はいつしか眠りについていた。
ふああ、とユウカが大あくびをかました。
「ねー、もうそろそろ寝ないと起きられないよ」
「分かってるってば……。急かさないでよ」
ユウカに実体があったら手伝わせられたのに。いそいそと本の山を段ボール箱へ詰め込みつつ、すがる思いをかけて私はユウカを振り返った。ユウカは床に投げ出されたファイルを熱心に眺めている。この子はファイルひとつ自力では開けない。ため息をひとつ漏らして「見たい?」と声をかけたら、たちまちユウカは猫みたいに両目を光らせた。
「これ、双葉保育園でもらったやつでしょ? 見たい見たい!」
「恥ずかしいから見せるのは一瞬だけね。時間もないし」
あらかじめ断りを入れて、脇のジッパーを引き開けた。画用紙サイズの紙を折り曲げずに収められる、大型の布製ファイルだ。中には保育園児たちと撮った写真や一緒に描いたイラストなんかが無数に封入されている。一年目の終わりと二年目の中盤に受けた保育実習のあいだ、お世話になった保育園でもらった作品の数々だ。
保育士になるためには机上教育や演習だけじゃなく、本物の保育園を舞台にした実戦的な実習も受けなくちゃいけない。私の実習先として宛がわれたのは、短大と提携関係にある区内の私立認可保育園だった。区内といっても向こうは山手線の内側に当たる信濃町、こっちは町はずれの丘の上。せっかく短大の近所へアパートを借りたのに、実習先へは電車通勤しなきゃならなかった。満員電車に不慣れな私が苦労したのは言うまでもない。大事な作品を破かず持ち帰るのに、この布製ファイルはずいぶん活躍してくれたっけ。
ぐちゃぐちゃに塗り潰された塗り絵。
目玉があさっての方角を向いている私の似顔絵。
のたくった文字で書かれた解読不能の手紙。
いらないといって押し付けられた、作りかけの折り鶴の残骸。
どれも、これも、受け取ったときはどうしたものか途方に暮れたんだったな──。片付けの最中だというのについつい目が留まって、当時のよすがに浸ってしまう。
「いいなぁ、可愛いなぁ」
ユウカが目を細めた。
「スミレも小さい頃、こんなふうに無邪気に遊んでたんだよね」
「無邪気な時期なんてあったのかな、私」
「えー? 覚えてないだけじゃないの」
「かもね。もう思い出せないよ」
「たった十数年前なのに?」
「当時のものはみんな親に捨てられたから」
失笑にもならない鼻息を私は床へ落とした。私の実家に眠っているのは数点の表彰状や成績表だけだ。ぐちゃぐちゃの塗り絵みたいな手作りの作品は、みんな両親の手で破棄されたと聞いた。
私の両親は厳しい人だった。テストで満点を取れなかったり、徒競走で一着を取れなければ、嫌というほど説教を受けた。私という少女がいかに出来の悪い、ダメなところばかりの人間であるかを、両親は時間をかけて私に刷り込んでいった。私は両親の前では常に完璧でいなきゃいけなかった。怒られて、叩かれて、ガリ勉と友達に罵られていじめられるたび、理不尽な仕打ちへの憎しみが募った。
こんな大人には絶対なりたくない。その一心が高じて、保育士を目指そうと決意した。傷つく痛みを知っている私の手で、理不尽な仕打ちに耐える子どもたちを守り、伸び伸びと育ててあげたかった。
「──これ!」
上の空で作品の束を漁っていたら、不意にユウカが声を上げた。私の手は一枚の楽譜を掴んでいた。
「懐かしいなぁ。この楽譜のこと、わたしも覚えてるよ」
「……私は思い出したくなかったよ」
錐で穴を空けられたみたいに胃が痛んで、私は楽譜から目を逸らした。お世話になった保育園の生活発表会で、私の受け持ったクラスが歌った曲の楽譜だ。指導のためのメモが無数に書き込まれている。
「責任実習が始まってすぐの頃だったよね」
しみじみとユウカが続けた。
「今でも忘れられないな。泣きながらスミレが帰ってきたときはどうしようかと思ったもん、わたし」
保育実習には四つの段階があって、責任実習はその最終段階に当たる。それまでの過程で子どもたちや先輩保育士さんの動きを学び、少しずつ触れ合う経験を積んできた実習生が、指導計画に基づいて本格的な全日保育をさせてもらう実習だ。もちろん実習中だから、本物の保育士みたいに迅速に動くことはできない。まだまだ毎日が勉強だらけの未熟な私でも、エプロンをかけて園児たちの前に立てば、みんなは他の先生と私を同一視する。私はここでも完璧でいることを求められた。
子どもたちは私の思う通りには動いてくれない。そもそも理性や理屈が通じる相手じゃない。自我の芽生えも旺盛な頃合いだ。気に入らないことがあれば泣いてしまうし、ケンカだって絶えない。真面目にノートを執り、アドバイスを受け入れ、理想的な保育をしようともがけばもがくほど、私の努力は子どもたちの前で空回りした。先輩保育士さんたちの目が厳しくなるにつれて、実習日誌に綴る内容もどんどん重くなっていった。今日はこれができなかった、明日はあれを頑張らなきゃ──。走り書きのダメ出しメモを見返すたびに暗い気分が募った。それでもがむしゃらに通勤して、勉強して、やっとの思いで最終段階の責任保育に漕ぎつけた。
恐れていたことが起きたのはその矢先だった。
気が散って合唱の練習に集中できない三歳の女の子──文乃ちゃんを、私は頭ごなしに「バカ」と怒鳴りつけてしまったんだ。
ただ、必死だった。穏便な言い方はいくらでもあったはずなのに、それを思いつくだけの余裕が私にはなかった。震え上がった彼女の瞳孔がきゅっと締まった瞬間、やらかしたことを心の底から自覚した。先輩保育士さんは真っ青になって私を説教しつつ、泣き出した文乃ちゃんをなだめにかかっていた。
ショックのあまり目の奥がじんと痛んだ。私がやったことは、他ならぬ私の両親が私にやってきたことと同じだった。たとえそれが教育の手段であったとしても、人格否定は絶対に正当化しちゃいけない。幼い頃の私を蝕んだのも人格否定の言葉だった。その痛みを誰よりも知っていて、繰り返すまいと胸に決めていたはずの私が、よりにもよって実習中に子どもを傷つけてしまった。
もう、おしまいだ。
保育士なんて分不相応な夢だったんだ。
蠟の翼を溶かされて墜落死したイカロスのように、このままどこかへ消えてしまいたかった。半泣きで電車に乗り、アパートにたどり着いてドアを開けたら、そこにはいつものようにユウカがいた。ユウカはボロ雑巾みたいになった私を「どうしたの!」「何があったの」と問い詰めた。私はいつもの「ただいま」さえ口にできないまま、玄関先に崩れ落ちて、起こったことを洗いざらい白状した。
誰に嫌われてもいいと思ったから白状したのに、ユウカは私を軽蔑しなかった。くだらない話を最後まで聞いてくれた彼女は、抱きしめるみたいに腕を伸ばして何度も叫んだんだ。「大丈夫」「きっとやり直せる」「わたしがぜったい味方でいるから」って。
あの夜、ユウカに抱き止めてもらえなければ、私は保育士の夢を諦めていたかもしれない。不甲斐ない自分への恨めしさは、ユウカの捧げてくれた共感への膨大な感謝に変わった。だらしなく擁護されるしかない自分が惨めで、情けなくて、だけどとっても救われて、彼女の隣でわんわん泣いてしまったっけ。
「結局、大成功だったんだよね。合唱」
ユウカの言葉で私は楽譜に目を戻した。
汚い走り書きのメモだけじゃない。粗末なコピー用紙の四辺には、何度も強く握られて縒れた跡が無数に見当たる。この楽譜一枚を手に、あれから私は先輩保育士さんの相談に乗ってもらい、文乃ちゃんやお母さんに謝り、必死でみんなと向き合った。真面目すぎて大失敗を喫した私は、真面目であるがゆえに失敗を許されて、やがて少しずつ信頼を積み上げていった。大喝采とともに合唱を終え、文乃ちゃんに笑いかけられた瞬間、ついに私の長い贖罪は終わりを告げたのだった。
「ユウカのおかげだよ」
私は楽譜ごとファイルを閉じた。
「クヨクヨしないで笑って頑張ろうよ、帰ってきたらいくらでも泣いていいからって、ユウカが言ってくれたから」
「ほんとにたくさん泣いたよね」
「うん。……他じゃ泣けなかったし、他人に弱いところなんて見せられなかった」
完璧主義な性分は簡単には治らない。たとえユウカに気を許せたところで、他者からの評価が恐ろしいことに変わりはなかった。だけど、それも最近は変わりつつある。責任保育を修了してから、少しだけ自信と余裕を持てるようになって、以前みたいな詰め込みの勉強をやらなくなった。そうしたら、以前は距離を取られていた短大の子たちに声をかけられるようになった。みんなは私を心配していた。真面目すぎるんじゃないか、いつか潰れてしまわないかと、ひそかに案じてくれていたんだ。
完璧であることをやめた私は、ひとりぼっちではなくなった。
短大に行けば友達がいる。
家に帰ればユウカがいる。
実習で知り合った双葉保育園の先輩保育士さんとの縁も続いている。
とりわけ頼もしかったのはユウカだ。寄る辺のないひとりぼっちの大都会で、ドアを開けた先にたたずむユウカの満面の笑顔と「おかえり」の一言に、思えば、どれだけ元気をもらっていたことだろう。挫けそうな心を何べん支えられたことだろう。翼の溶けた私は墜落死しなかった。傷を癒され、失った翼の代わりを宛がわれて、今も夢を見上げながら滑走路を走り続けている。
「ちなみに今日も泣いてきたんでしょ?」
ユウカが小さく笑った。
なんでバレたの。慌てて目元を気にする私を、隣へ腰かけたユウカは可笑しげに覗き込んできた。
「だって帰ってきた時から目が赤かったもんね」
「そんな、顔は洗ってきたのに……」
「どんなこと話したの?」
「……これからの新生活のこととか、仕事のこととか。卒業したからって未来に不安がなくなるわけじゃないし、みんな事情は一緒だから」
「よかったなぁ」
ユウカは目を細めた。
「今はちゃんと、わたし以外の誰かの前で弱音を吐けるんだね」
その一瞬、ユウカを見つめる目の奥に痛みが走って、私は視線を落としてしまった。
どんなときでも明朗だったユウカのものとも思えないくらい、耳に響いたその声は切なくて、寂しくて、そのくせ満面の笑みをたっぷり塗りたくられていた。
「……私さ」
私はファイルのジッパーを一気に引き上げて、段ボール箱の中へ収めた。聞かなかったことにはできなかった。なんでもいいから言葉を、私なりの真心を返してあげなきゃと思った。
視界の外でユウカが「うん」と応じてくれる。
いっとき、言葉が声にならなくて、私は唇を小さく噛んだ。
「ユウカがいたからここまで来れたんだと思う」
「へへ。それは嬉しいな」
「だから本当はここから引っ越したくない」
ユウカが後頭部から手をひっこめたのが物音で分かった。
「ユウカは建物に棲みつく座敷童子でしょ。私がここを去ったって、この家に変わらず残り続ける。そしたら私はまた、ひとりぼっちになるんだね。ユウカを支えにして生きていけなくなるんだね」
「…………」
「分かってるんだ。お別れになることなんて分かってたから、友達にもちょっとずつ心を開くようになったし、今日だって素直に胸の内をさらけ出せたし……。だからこれからはユウカの出迎えがなくても、ただいまって言う相手がいなくても、ひとりで頑張って生きていける気がする」
だから心配しないでよ──なんて、胸を張って言うことはできない。数え切れないほどユウカに救われてきた日々の履歴を、嫌というほど覚えているから。けれどもいつか私は言わなくちゃいけないのだ。与えてもらった翼を広げ、この優しい居場所を羽ばたいてゆくために。大切なユウカにいつまでも心配をかけないために。
ただ、その機運が、私の予想よりも早く高まってしまっただけ。
それなのに、言えない。
切り出す勇気を振り絞れない。
泣きそうな顔で口をつぐむ私を見て何を思ったのか、ユウカは腰を浮かせ、ぺたんと私の傍らに座り込んだ。いたたまれなさに耐え切れなくて荷造りを再開しようとした私の指先に、不意に、説明のつかない暖かな感覚が広がった。お湯に指を突っ込んでいるみたいな、あるいは手を繋いでいるような──。
「わたし、お別れするつもりなんてないよ」
ユウカは優しく微笑んだ。
予想外の言葉に私は固まった。
「わたしだって嬉しかったもん。スミレがわたしのもとに帰ってきてくれること。ただいまって言ってくれること。わたしに心を開いて、頼ってくれたこと」
「だからスミレじゃないって……」
「純音、だよね」
私は吐息を喉へ詰まらせた。たぶん今、ユウカは初めて私の名前をまともに呼んでくれた。
「わたし、純音のことが好き。真面目なところも不器用なところも、弱くても強がっちゃうところも。そんな頑張りすぎる純音の支えになりたくて、こうして一緒の部屋に棲みついたの。純音がここに入居したから姿を現したんじゃないよ」
「何言ってんの。だってユウカ、座敷童子なんでしょ」
「座敷童子かどうかなんて大事なことじゃないよ。純音のことが大好きで大切で心配だから、会えなくなったってわたしはこれからも純音のことを見守ってる。嬉しそうにしてたらニコニコするし、ひとりで泣いてたら助けに行っちゃうかもよ」
「ユウカ……」
「だからわたしたち、きっとこれでお別れじゃないよ」
意味わかんない。自分で自分のこと、座敷童子って説明したんじゃん。ここから離れられないって言ったんじゃん──。段ボール箱に寄りかかったまま私は弱々しく笑い返した。笑っているのに涙が出てきて、発しかけた台詞はみんな痰に絡まった。たとえ彼女の最後の一言が事実にならなくても、淡い期待が泡と消えても、この万感だけを糧にしてしばらく生きてゆけると思った。
ありがとう、ユウカ。
好きって言ってくれたのはユウカが初めてだよ。
この二年間、ユウカに多くのものをもらった。私はユウカに何をあげられただろう。情けない姿ばかり見せて、あれだけ心も割いてもらったのに、恩返しもできないまま私はこのアパートを巣立ってゆくんだね。もっと全身全霊で感謝を、ありがとうを伝えたいのに、今の私には時間が足りないよ。
まがいものの笑顔は敢えなく崩れて、ぐずぐず泣きながら私は荷造りを再開した。ひとつ、ひとつ、日用品を収めた段ボール箱を封じるたび、ユウカとの思い出にガムテープを貼って別れを告げるような喪失感が私を襲った。ユウカは幽霊みたいに私のそばへ寄り添ってくれていた。ぬくもった身体は柔らかさを増して、重たい箱も軽々と持ち上げることができて、──まるでユウカが傍らで荷造りを手伝ってくれているみたいで、それがいっそう私の喪失感を深くするのだった。
その晩、夢を見た。
物心がついたばかりの頃の夢だった。
舌の回らなかった私は、当時、自分の名前を上手く発音できなかった。私の一人称は「スミネ」じゃなくて「スミレ」だった。両親は何度も人前で私を叱った。自分の名前くらいまともに言いなさい──。理不尽にも思える説教に叩きのめされるたび、傷ついた心を抱えて私は自室に閉じこもった。自尊心や肯定感の欠如、こんな親にはなりたくないという願い。いまの私を形成する負の材料は、この時期を起点として次第に揃い始めていた。
閉じこもった私は話し相手を求めた。感情を爆発させる相手が必要だった。どこからともなく姿を現した何かが、その求めに応じてくれた。姿があやふやなのに不思議と性別は判別できた。彼女は私にならって私を「スミレ」と呼んだ。私の口が育って名前を正しく読めるようになり、小学生になり、中学生になっても、彼女はやっぱり私のことを「スミレ」と呼んで、臆面もなく好きだよと断言して、苦しむ私のそばにいてくれた。はじめはヒトの格好をしているかも怪しかったのが、年を取るにつれて容貌も明確になり、声も鮮明に聞き取れるようになっていった。
そんな彼女は、私が保育士になる決意を固めた中学三年の冬を境に、姿を見せなくなった。
夢を見ることは、生きる原動力を自分で調達すること。私はいつまでも彼女の翼に守られるのではなく、自分の翼で牢獄を飛び出す未来を望んだのだった。彼女のいなくなった部屋で私は必死に勉強した。中学以前のつらい記憶も、「ただいま」と笑いかける相手がいたことも段々と忘れていって、気づけば高校の卒業証書を手にしていた。
今、こうして掘り返された記憶に触れていても、あのころの彼女の実在感はあまりにも強くて、正体を疑う余地なんてまるでなかったことを思い出す。──ううん、実在感が強いのは今も同じだ。あれから年月を経て故郷を飛び出し、彼女にまつわる記憶を失っていた私は、彼女の主張するままに座敷童子という説明を受け入れてしまったのだから。けれども今は確信できる。私を「スミレ」と呼ぶ声のトーンも、温もりも、仕草も、ふんわりと優しい笑顔も、あの頃と少しも変わっていないことを。
ねぇ、ユウカ。
ようやく思い出したよ。
本当は座敷童子でも幽霊でもなかったんだ。
私が舌の足らない「スミレ」だった頃から、ユウカはずっと私の隣にいて、広げた翼で私を守ってくれていたんだね。
叫んだとたんに意識が戻った。敷いたままの布団に倒れて寝落ちた私の顔を、忍び込んだ一筋の朝日が煌々と照らし出していた。ユウカの姿はそこにはなくて、片付けの済んだ段ボール箱の群れが退屈げに積み上がるばかりだった。
静かな部屋の真ん中で私は理解した。
もう、どんなに願っても、ユウカは現れない。
私が彼女の正体に気づいてしまったから。
ユウカのいた傍らに手を伸ばしても、そこにはあの包み込むような温もりは広がらない。あぁ、本当にいなくなっちゃったんだ。こらえきれなかった嗚咽の合間に小鳥のさえずりが花開いた。私鉄の走行音が遠くで弾け始めた。目映い曙光はたちまち部屋中の闇を征服する。ユウカの残響や面影を跡形もなく塗りつぶしながら、世界が、ゆっくりと目覚めてゆく。
私は震える唇をそっと結んだ。
ふたつの立派な翼を取り戻した身体で、涙を拭って、前を見上げて、残りわずかな滑走路を蹴る覚悟を決めた。
引っ越し業者さんに荷物を託し、からっぽの二〇三号室をあとにした。ユウカが座敷童子じゃないと分かっていたから、部屋を出るとき「さよなら」とは言わなかった。私の汗と涙をたくさん吸った野口荘の外階段は、いつものように、名残惜しそうに、ギシギシ鳴って私の背中を押してくれた。
心臓破りの急坂を下って、最寄りの中井駅から西武新宿線に乗る。終点の西武新宿駅には数分で着いてしまう。慣れた足取りでホームに降り立ったとき、いとけない声が「あ!」と私を呼び止めた。そこには文乃ちゃんと、そのお母さんの姿があった。聞けば西武線の沿線に母方の実家があるそうで、これからそこへ二人で向かうらしい。
苦労の末にわだかまりを解いてくれた文乃ちゃんは、いまや私を怖がらない。舌の回らない声で「せんせいはどこいくの」と訊かれたので、これから引っ越しなんだよと教えてあげた。
「おひっこし……」
きゅっと小さくなった文乃ちゃんは、眉を曇らせながら横を向いた。
「さびしくなっちゃうね、クララちゃん」
そこに誰かの姿はない。人々は文乃ちゃんには目もくれずに通り過ぎてゆくばかりだ。
まさか、今のは──。
息を呑んだ私をよそに、お母さんが泡を食って文乃ちゃんへ声をかける。
「ダメでしょ文乃! またそうやって見えない友達と話そうとしたりしてっ」
「いいんですよ、松野さん」
やんわり私は口を挟んだ。
文乃ちゃんが今、誰と向き合っているのか、その正体も含めて私には予想がついていた。
「止めないであげてください。本人の社会性の発達にもいいと聞きますし、放っておいても勝手に卒業しますから」
「そうなんですか……? てっきり私、うちの子だけかとばかり思ってた」
「いたんです、私にも。同じくらいの年の頃に」
照れくさくなって私は後頭部を掻いた。どこかの誰かの真似をしたつもりだった。
いたんじゃない。きっと彼女は今も、私の胸の中に棲みついている。もしかすると、いつかふたたび私が彼女の存在を忘れ、ひとりで苦しみを抱え込んだとき、気まぐれに現れて私を抱き止めるかもしれない。はちきれそうな満面の笑顔で「おかえり」──って。
そうだよね、ユウカ。
私たちはずっと一緒だ。一緒に泣いて、一緒に笑って、肩を並べて夢を見た。
だから、これでお別れじゃない。
さよならなんて言わない。
比翼連理の君を信じて、私は春爛漫の空へ飛び立つよ。
青空を支える巨木たちの谷間に風が吹き渡る。ふわり、羽織ったコートの裾が舞い上がって、押された背中が軽くなる。お母さんと文乃ちゃんと、それから彼女の小さな友達に別れを告げた私は、点滅しかけの歩行者信号を見上げながら西武新宿駅前の広い横断歩道を駆け出した。見慣れた東京の街並みも、見失いかけた夢や未来も、今はすべてが青空の下で輝いていた。
本作は、千羽稲穂さん主催「青春アンソロ3」企画応募作品を、当サイトへの掲載用に加筆訂正したものです。