お題「こだわり」
ある日の昼の出来事である。
兄と僕と妹の三人は、家の狭いキッチンに集合していた。
「コーヒーは挽き方で味が変わるんだ」
兄はそう言って、慎重にコーヒーミルのハンドルを回していた。
ごりごりという音と共に、キッチン中に香りが広がっていく。
真っ白なカップの上にドリッパーを取り付け、フィルターを敷いて先ほど挽いたコーヒー豆を入れる。
沸騰した湯を少しずつ注ぎ、「蒸らす時間も重要なんだぞ」と難しそうな顔をする。
海外から取り寄せたという、百グラムで四桁を越えるというブランド物の豆を前に、今日も兄は絶好調だ。
兄の気障ったらしいコーヒー哲学を穏やかな表情で聞くのは、我が家では母くらいなものだ。
親ばかというやつだろうか。
僕と妹は、兄の「世界で最初にコーヒーの良さを見出したのは俺だ」と言わんばかりの表情を見るのに嫌気が差していて、普段であればキッチンにいる兄に近付きはしない。
「しかし珍しいな、俺のコーヒーを飲みたがるなんて」
「たまにはね」
僕の横で、妹が答えた。
僕は荒馬のように跳ねる心臓を押さえつけていた。
なんでもないような顔でテーブルに着き、兄がコーヒーを淹れる様を見ている。
一方妹は、まるで花が咲くような、それでいてわざとらしい笑みを浮かべている。
実は、兄のコーヒー豆は、コンビニで買って来た豆と中身が入れ替えられていたのだ。
********
昨日の夜。
喉が渇いた僕は、キッチンで一人、牛乳を飲んでいた。
ふと兄のコーヒー豆の袋が目に入り、「俺くらいになれば匂いで銘柄が分かる」という兄の言葉を思い出した。
銀色をしたその袋はいくつもあって、英語で名前が書かれている。
確かに、インスタントとドリップの違いも分からない僕は、兄の言うように味音痴だろう。
ブラックはただ苦いだけで、香りが云々、コクが云々などと言われても、ピンとこない。
しかし「お前らのように『腐った豆』と『納豆』の区別ができない奴には分からないだろうがな」という言葉は忘れられない。
いくらなんでも言いすぎだろう。
怒りっぽい妹は即座に「うるせえ泥水でも飲んでろ」と返し、大喧嘩になったが、それは終わった話。
匂いが違う。
本当だろうか。
並べて嗅いでみれば、分かるかもしれない。
僕は銀の袋を手に取り、テーブルの上に並べた。
それぞれの袋の口をあけて、匂いを嗅ごうとして、そして手を滑らせた。
気付いたときにはもう遅く、すべての袋の中身を床の上にぶちまけていた。
しかも運悪く、牛乳までこぼしてしまったため、もう取り返しがつかなくなってしまった。
我が身ながら、なんと鈍くさいことだろう。
半ばパニックになっていた僕を救ったのは、悪戯好きの妹である。
妹は輝くばかりの嬉しそうな顔をして駆け出すと、コンビニで格安のコーヒー豆を買ってきたのだった。
********
こうして、コーヒーが僕の目の前に現れた。
一山いくらのコンビ二コーヒー豆から抽出されたものである。
ありがたみは無い。
兄は自分の分を飲みながら、「うーん香りが」「深い味わいが」と言っている。
これには参った。
妹は「暴露のタイミングは任せる」と言っていた。
先ほどから僕にいやらしい笑顔を向けてくる。
これにも参った。
兄に気付く様子は無い。
カップの中の黒い液体がぐるぐる回るのを見ながら、僕は口をつぐんでしまった。
********
その後の話。
意外なことに、妹には問い詰められなかった。
「考えてみれば、兄貴に『弁償しろ!』って言われるかもしれないしね」
確かにそのこともあるが、それ以上に、自分のしていることがひどく馬鹿げたことに思えてきたのだ。
お前のこだわりには何の意味も無いんだと突きつけて、一体何が得られるのか。
兄の自尊心は傷つき、兄弟の溝は深くなり、きっと取り返しがつかなくなる。
僕はそんなこと、望んでいない。
というか、良く考えたらとんでもない所業ではないか。
高い豆を台無しにして、それを詫びもせず悪戯の材料にしている。
良く考えなくても最低である。
鬼か。
バイトでもして、豆を買い揃えて、こっそり戻しておこう。
それがいい。
しかし一体いくらするのやら……。
********
さらにその後の話。
一連の出来事を母に話し、バイトの相談をしたら、腹を抱えて笑いだした。
「実は私も、こっそり入れ替えてたの」
僕は息ができなくなった。「なんっ、なにそれ?」
「聞いても無いことをいちいちうるさいからさ。で、それならスーパーのと入れ替えてすぐに気付くかなって」
「それいつの話?」
「二、三週間くらい前かな。あんまり遊んでもかわいそうだし、そろそろ元に戻しておくわ」
「元の豆は?」
「ちゃんと取っといてあるわよ。鬼じゃないんだから捨てたりしないわ」
僕は溜息をついた。
さすがはあの妹の母といったところか。
つまり僕が駄目にしたのはスーパーで購入した豆だったというわけだ。
しかしなんと不憫な兄だろう。
次からは少し優しい気持ちで接することが出来そうだ。
<了>