恋人
「恋人」
何も知らない女子高生にとって、その存在は夢や希望に満ちている。
それはまさに「純粋」と書いてピュアと読ませる、そんな無垢で無知な時代の出来事である。
――N(仮)。
この名前と存在に、その後何年も苦しめられることとなる。
あれは高校二年の夏だった。
女子高生M(仮)は、できたてホヤホヤの恋人とラブラブ(死語)帰宅していた。
恋人同士のいちゃこら加減などしらない初々しい二人は、ただ黙々と自転車をこいだ。時折「えへへ、なんか恥ずかしいね……」と無駄にモジモジしていた横っ面を、今ならばひっぱたいてやりたいものだ。
そんな時、何度目かの沈黙が!
会話が突然途切れることを「妖精が通った」とか「天使が通った」などとメルヘンに言っていたものだが、当時通っていた高校は仏教学校だったという……。
それはともかく、沈黙されても困るというのが素直な気持ちではあるのだがNは沈黙した。正直Mも会話を振ってばかりでキャッチボールにならない状態が好きではなかった。
何とか現状を打破せねば! そう考えていると、何やらNの居る右側からビシバシと視線が突き刺さる。
――めっちゃ見られてる!
そんな状態だった。
お互い自転車なのに、Nはずっと無言で首をこちらに向けていた。
今ならば「前向け、死ぬぞ?」くらい言ってやれるのだが、当時はピチピチだ。吐き出せた言葉はただ一つ。
「――Nくん、何見てるの?」
この言葉はNGワードだった。
まさにこの言葉をNは待っていたのだ。
その言葉を受けてNは満面の笑みになり、答えた。
「――きみ!」
言っちゃった!
昭和のトレンディドラマでも使わないであろう、ベッタベタなセリフだった。
せめて役者なら使いこなせたかもしれないベタな展開。それを使うにはNは色々足りなかった。Nにとってはハードルが棒高跳び並みに高いセリフを使ってしまったのだった。
恋人として求められる正しい反応としては
「嬉しい」
「恥ずかしい」
「ちょっ! 何言ってんの、全く……てれてれ」
だったのかも知れない。
しかし、そのセリフを真横から受けたMは、静かにパニックをおこしたのだった。
言葉を受けた瞬間、緩やかに漕いでいた自転車を立ち漕ぎにかえ、競輪選手ばりの速度で道を直角に曲がったのだった。そしてそのままの速度でNを振り切り、通常は20分かかる道のりを7分で家につくという新記録をたたき出したのだ。
置き去りにされたNは呆然としていた、らしい。
後ろを走っていたMの友人カップルから後日教えられた。「曲がるときすっごい直角だったね! またやってね」という言葉ももらったのだが、なぜあんなことが出来たのか今でも謎である。
人は思いがけない事があると、想像以上の力を発揮できるものである――そう学んだ出来事であった。
「好きだ」
そう言われたからって、浮かれて好きではない相手とお付き合いしてはいけません。
そう学んだ出来事でした。