人類の産声
月喰迎撃宇宙軍基地の北方、野原の真ん中に、小さな丘を利用した公園がある。従業員のためにつくられた公園だが、休憩時間に立ち寄るには基地からやや遠すぎるため、利用する人はほとんどいない。基地の中心からも基地外の道路からも離れているため、周囲はいつも静か。聞こえるのは小鳥のさえずりと、ときどき海から吹く潮風に木や草がこすれる音だけだった。
丘のてっぺんに、樹齢50年の大きな菩提樹の木が生えている。曲がりくねった枝を目いっぱいに広げ、降り注ぐ太陽光を全身に浴びている。緑の葉は豊かで力強い。葉が光を反射していて、キラキラと輝いているようにも見えた。
菩提樹の葉は地面に濃い影を落としていて、その中にひとつのベンチがある。
ベンチにはひとりの男が座っている。若者らしいジャケットとジーンズ姿で、頭にはキャップを被っている。
彼はあたたかな陽射しにうつらうつらと舟をこいでいたが、近づいてくる足音を聞いて我にかえり、大あくびをしつつ腕を伸ばした。
「やぁ、待っていたよ」
鉄面皮が、近づいてきた鏑矢ソウルに微笑みかけた。鉄面皮の顔には皮膚があり、まともな人間のそれだった。
ソウルはベンチに歩みよって鉄面皮のとなりに腰かけた。持っていた刀を横にたてかける。彼は大きく息をついた。
「不自然な気はしていたよ」
先にそう言ったのはソウルだった。
「何もかも上手くいきすぎていたから」
「気持ちよかっただろ?」
鉄面皮がいたずらっぽく笑う。
「世界中の人間がひとつの目標に向かって手を取り合う。人類の素晴らしさをカグヤたち月喰――失礼、月民に見せつけられた。ナルシシズムは満たせたかい?」
「コントロール・センターがある建物や、燃料倉庫や、あのロケットを保管していた建物が全部無事だったのも、兵士以外に死者も怪我人がいなかったのも、すべておまえが加減していたからだったんだな」
ソウルはふてくされた表情で遠くを見た。遠方にはロケット発射台とサターンⅤロケットが見える。打ち上げ時刻まで間もなくだった。
「キミはあそこにいなくていいのかい? カグヤちゃんとのお別れはすませたのか?」
「俺が居てもできることは何もないし、報道の相手をするのも面倒だ……それに、またすぐに会えるさ」
「それもそうだ」
鉄面皮は肩をすくめる。
「どこからがおまえの計画だったんだ」
ソウルの問いに、鉄面皮はくすくす笑った。
「それがねぇ、自分でも判然としないんだよね。最初から何もかもこのためにあったかのようにも感じるし、ただの思いつきのようにも感じる。確実なのは、この方法を思いついたのは、僕が君を殺し、ミタマくんがその様子を外部に漏らしたあの出来事以降だ」
「あの事件か……」
「早い話がパクリさ。アイデアが貧困でね」
ふたりは互いに自嘲した。
「月民と人類の可能性を示すためにいくら言葉を弄しても、所詮は言葉……人間、口だけならなんとでも言える。だから僕は君たちがその可能性を体現できるように、ほんの少し手伝ってあげたのさ」
「その結果があのサンダルフォンか」
「そうだよ」
鉄面皮は目を細め、口端を邪悪に吊り上げる。
「大衆は常にストーリーを求める。だからクライマックスを用意してやった。『強大な悪』と『悪に立ち向かう正義の戦士』と『ともに悪に立ち向かう仲間』それぞれの役どころを僕と君たちに振り分け、その様子を全世界に向けて配信した。その結果は君も知るところだ。あとはオールド・ワンズの残した支配網を利用して軍隊を動かし、ちょいと背中を押してやれば完成だ」
彼はいきなりゲラゲラと笑い出す。
「ああ、なんて感動的なんでしょう! あんなにいがみあっていたふたつの種族が今ひとつに! 長い歴史を経て、ついに人類の心がひとつに! 新しい時代の幕開けだ! ……そんなうまい話があるかっての」
笑い疲れた鉄面皮は、ひどく悲しそうに目を伏せる。
「人間はそう簡単に変わりゃしないさ」
「でも、変わろうとすることが大事だ」
「いいこと言うじゃん、偉そうに」
「鉄面皮、おまえはいつから月民と仲良くなろうと考えてたんだ?」
ソウルの言葉を、鉄面皮は鼻で笑う。
「あんな化け物と仲良くなるなんてヘドが出るぜよ。それは最初から変わってない」
彼は人差し指をつき出してピストルのかたちにし、自分のこめかみに押しつけた。
「ただ、僕は人類のためになることならなんでもするってだけさ」
「最初はカグヤを殺そうとしたくせに」
「おいおい勘違いするなよ。僕は彼女を捕まえるよう指示を出したことはあっても、殺せとは一度も言ってないんだぜ?」
鉄面皮は嘲った。
「人類は月民と交わることでさらに進化するだろう。肉体的にも、文化的にも。だったら僕が彼らの邪魔をする理由はないだろう?」
「でもおまえがそうしなかったのは、奴らのせいか」
「そうさ。権力欲と支配欲に魂を縛られ、新たな変化を拒絶し、閉じられた世界を維持しようとしたオールド・ワンズ……彼らこそ真の人類の敵だった。僕は長年、奴らのことを鬱陶しいと思っていたのさ」
ため息をつく鉄面皮。
「だけど僕だって万能じゃない。表立って彼らに逆らえば消去される。だから僕は、ひとつ、可能性の種を撒くことにした」
「可能性の……種?」
ソウルがいぶかしんだ。鉄面皮はうなずく。
「ソウルくん、君はスピリットの記憶を受け継いだんだろ? 僕はひとつだけ、君に嘘をついた」
「嘘?」
「君は作られた存在だ。だけど君を作ったのは、オールド・ワンズじゃない。ついでに、僕の素顔も見せよう。約束だからね」
「まさか……」
ソウルの頬を冷や汗が伝う。鉄面皮はキャップを脱いだ。あらわになった彼の素顔は、ソウルとまったく同じ顔だった。
「僕はキミのオリジナルだ」
その言葉に、ソウルは黙り込んだ。
「僕の記憶と人格をコピーし、一部の記憶を改ざんして、鏑矢ソウルとして迎撃士の任務を与えた。月民に最も近い迎撃士ならば、なにかのきっかけで彼らに敵意がないことを気づくかもしれないと期待してね。実は16年前――ミタマくんが地球にやってきたときにはすでに彼らの目的が友好であるとはわかっていた。まぁ、オールド・ワンズはそんな彼らを無視してアフリカに水爆を落として、大陸に大穴を開けたわけだけどさ」
「そうだったのか……」
「意外と平然としてるね」
鉄面皮にいわれ、ソウルは退屈そうに首を鳴らす。
「もとはおまえと同じかもしれないが、俺とおまえは別の人間だ。なにも変わらない」
「そのとおりだ。しかし人格データのベースが同じという事実も変わらない。そろそろ本題に入ろう」
鉄面皮はベンチから立ち上がり、優しげにソウルを見下ろした。
「キミ、僕を殺したまえよ」
ソウルは無言で睨みつけた。鉄面皮はおどけた。
「なぁに怖い顔してるんだい。これはいわばお礼だよ」
「お礼だって?」
「そうさ。考えてもみなよ」
鉄面皮は指を鳴らした。
「キミはかぐや姫を月に帰すために何個の法律をおかした? 何人の命を危険に晒し、いくつの町の平和を乱した? 今はいろいろドタバタしてるから見逃されてるけど、一段落したら間違いなく糾弾されるぜ。どう贔屓目に見ても最低終身刑は免れない」
彼は両腕を広げ、まるで救世主のように立つ。
「だけどここで僕が死ねば、人格データが同じだから、ここで死んだのはキミだということになる。あとはどこへでも行くといいさ。キミは自由になれる。これでみんながハッピーエンドだ」
「……本気なのか?」
「キミだって僕を殺したいんだろう? だから言われたとおりに刀を持ってきた」
鉄面皮はソウルのとなりの刀を見た。ソウルは刀を掴むと、ゆっくり立ち上がって進み出る。鉄面皮の前に立った。
「……たしかに、おまえの言うとおりにすればすべて丸くおさまる。騒ぎを起こした中心人物が死に、真相は闇の中。そしてハッピーエンド……上出来だ」
ソウルは鉄面皮を見、嘲笑した。
「だけどそんな卑怯なこと、俺は選びたくない。俺は逃げも隠れもしない。罰はうける。それが義務だ」
「はぁん、まったくおカタいねぇ。もともとは僕のコピーなくせに、なにがそこまでキミを変えてしまったんだい?」
「失望されたくないからな」
「失望……誰に?」
「俺の好きな人に」
真顔でソウルは言い放つ。鉄面皮はあっけにとられた顔をして、やれやれと言った風に首を振る。
「……なんだかガッカリだよ。まるで量産型のポップミュージックだ」
「鉄面皮、おまえは哀れだ」
「……なに?」
鉄面皮が不愉快そうに片眉を上げた。ソウルは声を張り上げる。
「おまえは誰からも愛されたことがない。誰も愛したことがないし、誰も信じたこともない」
「いきなり何を言い出すんだい?」
へらへら笑う鉄面皮。
「僕が人類を愛してないとでも?」
「人類じゃない。『他人』だ」
「同じだろう」
「違う」
「いいや、同じだ!」
「人類に顔はないが、他人にはある。おまえがいつもおどけているのは、顔を無くしていたのは、ヒトとまっすぐに向き合いたくないからだ」
「黙れ!」
「おまえは他人が怖いんだ。だから陰謀をめぐらして、他人を手玉に取ろうとするんだ。今もそうだ。なんてことはない、やってることは奴らと同じじゃないか。おまえが軽蔑したオールド・ワンズと!」
「黙れ黙れ黙れ! 言わせておけば!」
激高した鉄面皮はジャケットの内側から銃を抜き、ソウルに向けた。ソウルははっきりと侮蔑の視線を投げかけた。
「やっぱり銃を隠し持っていたな」
鉄面皮ははっとして後ずさった。
「俺とおまえの人格データが同じってことは、記憶さえ移せば本人とまったく同じってことだ。隙をついて俺を殺して、鏑矢ソウルとして成り代わるつもりだったな?」
「ぐっ……! ううっ……」
鉄面皮の顔が真っ青になり、額に汗がいくつも浮かぶ。彼はソウルが一歩近づくと、さらに一歩後ずさる。
「どうした? 怯えているのか? おとなしくしてれば何もしない。俺を信用しろ」
「うう〜……うううっ……!」
歯がカチカチと鳴っている。手がぶるぶる震えている。
ソウルは足を止め、両腕を広げた。
「さあ、銃を捨てろ。何もしない。信じろ。俺は何もしない」
「うう、あああ……!」
鉄面皮が叫んだ。
「あああああああああああああああああああああッ!!」
銃声が響いた。放たれた弾丸は身をかがめたソウルの頭のすぐ横を通過する。ソウルは身を低くしたまま一気に距離を詰め、刀を抜いた。刃がきらめき、鉄面皮の悲鳴があがる。そして彼は倒れ、動かなくなった。
ソウルはゆっくりと立ち上がり、刀を鞘に納める。
「……峰打ちだよ」
ソウルは鉄面皮を見下ろす。彼は苦しそうにソウルを睨んだ。
「おまえは殺してなるものか。生きて罪を償え。死んで逃げるなんて、絶対に許さない」
「クソが……ふざけやがって……ソウル、テメーは今に知る」
邪悪な光が鉄面皮の瞳に輝いていた。ソウルは冷ややかにそれを見下ろす。
「人間はクズばかりだ……そのうち月喰と人間は争う……殺し合う……みんな死ぬ……絶対だ……くくく、ははは、人間も、バケモノもくたばれ、くたばっちまえ……!」
その言葉を最後に、鉄面皮は気絶した。
そのとき、遠方から大きな噴射音のようなものが聞こえる。ソウルがそっちを見て、ああ、と嘆息する。
カグヤとミタマが乗ったサターンⅤロケットが、発射台よりも巨大な白煙の塊をあとに残して、今まさに発射されたところだった。ロケットはまばゆい炎の尾をひきながら、ぐんぐんと空に向かって上昇していく。ソウルはそうして空を見上げてはじめて、すでに月が出ていることに気がついた。ヴェイパー・コーンを発生させ、通常の人間ではとても耐えられないほどの加速度でロケットは進む。赤い月を背景に横切ったロケットが、遥か彼方の水平線に隠れて見えなくなるまで、ソウルはずっと眺めていた。
「元気でな。カグヤも、ミタマも」
ソウルは自嘲し、鉄面皮の体を背負うと、基地に向かって歩き出す。
彼は歩きながら、3日前、すでに地球へ向けて飛び立っている月民のことを考えていた。
予測では、明日、その月民は地球に到達する。
「歓迎の方法を話し合わなくっちゃあな」
ふと彼は一歩基地に近づくたびに、だんだんとその周囲が騒がしくなっていることに気がついた。はじめはその騒音の正体がわからなかったが、あるときハッと気がついた。
世界中すべての人間たちが、いっせいに歓声をあげているのだった。空気が震え、大地が震え、空が、海が、地球が震え、人間の魂が震えていた。
「なぁ、鉄面皮。聞こえるか?」
ソウルは目尻に涙を溜めながら言った。
「人間は外の世界を知ったんだ。もう殻に閉じこもっちゃいない。これが、この歓声が、人類の産声だ……!」
涙を流しながら、ソウルは鉄面皮を背負って歩く。
彼は思った。
(未知は恐ろしく、ときに争いの火種となる。だけどそれはもしかしたら、自分が理解を拒んでいるだけなのかもしれない。それがわかれば、不確定な未来も、きっと信じることができる。だって人類は、やっと産声をあげたんだから……!)
人類の産声
おわり




