アイデンティティ・クライシス
「『月喰』は宇宙からやってきた人類の敵で、世界中のみんなが手を取り合って戦わなきゃいけない相手です」
対月喰迎撃基地の広いロビーに朗らかな女性職員の声が響く。彼女の前には近くの小学校の子供たちが整列していて、みな目を輝かせて彼女の話を聞いている。
ソウルはロビー端のソファーに腰かけて、退屈しのぎになんとなく彼女らの声に耳を傾けていた。
「皆さんが住んでいるこの町もそのために作られました。ここから鉄巨人という大きなロボットを宇宙に打ち上げて、地球に来ようとする月喰をやっつけるんです」
「はい、質問です!」
ひとりの少年が勢い良く手を上げた。
「元気がいいですね。なんでしょう?」
「月喰と僕たちは、仲良くなれないんでしょうか?」
「なれません」
女性職員が断言した。その口調こそ明るかったが、言葉の根底にある強烈な拒絶の意思を感じとったのか、手を上げた少年は少しムッとした。
「月喰は地球を食べます。そうすると私たちはとても困りますし、月喰を倒すこと自体もけして簡単じゃあないんです。月喰たちはほぼ不死身と言ってもいい体を持ち、高い知性すら持っている可能性があります。そのような生物との共存は不可能です」
「知性を持っているんなら、共存もできるんじゃないですか!?」
少年が声をはりあげた。ソウルはなんだか息苦しくなった。
「君はなかなかおもしろい意見を持っていますね」
女性職員がにっこり笑う。それから彼女は引率の教師を見た。教師は職員と視線をかち合わせると小さくうなずき、口を開いた。
「あとでじっくり勉強しなおそうか」
少年は震え上がって小さくなった。
(あれだけはダメなのに。思想の書き換えはシンドいだろうな)
移動し始めた彼らの背中を眺めながら、ソウルは小さくため息をついた。
「ああ、いたいた! ソウル!」
大きな声で名前を呼ばれてソウルは振り向いた。するとひとりの背の高い女性が、羽織った白衣をなびかせながら、つかつかとこちらに歩いてくるのが見えた。
「すまないね、遅れたよ」
「ミタマ」
ミタマと呼ばれた女性はソファーを回りこみ、ソウルの向かいに腰かけた。ここまで早足で来たらしく、わずかに肩を上下させている。指先で前髪をはらい、彼女はスカートのポケットからメモリーカードを取り出した。
「頼まれていた資料だ。初襲来から現在まで、すべての月喰の記録だ。わかりやすいように注釈もつけておいた」
「ありがとう、ミタマ」
「なに、他ならぬキミの頼みだからね」
朔月ミタマはにやりと笑い、くわえたパーラメントに火を点けた。
「生身は大変だな。まだサイボーグ化しないのか?」
息を整える彼女に、ソウルは言う。
「体重を気にしなくてよくなるのは魅力的だけどね、宗教上NG」
「忙しいなら、ネットで渡してくれてもよかったのに」
ソウルはメモリーカードを受け取りながら言う。
「ついでに顔が見たかったのさ。キミはひと月も死んでいたんだから。まだ髪は生えないのか?」
「あいにく」
ソウルはキャップをかぶり直した。
「サイボーグなんだから、わざわざ生やす意味もないだろ?」
「なんとなく人工皮膚は好かなくて」
「安心したよ」
ミタマはソウルの顔を見た。ソウルは目を瞬いた。
「キミはどうやら私の友人、鏑矢ソウルに間違いないね」
「さぁどうかな」
ソウルはあくどい笑みで返した。
「もしかしたらそう見えるだけで、本当は人食いの化物かもしれないぜ」
「難儀な時代だよ、まったく」
ミタマが笑った。
「国内の精神病院はどこも満杯。みんな自分が自分であることや、他人が他人であることに確信が持てないんだ。いやになるね」
「ミタマは違うだろ? 電脳化してないんだから」
「同じだよ。私だって自分の脳を見たことあるわけじゃない。もしかしたら人間だと思いこんでるロボットかもしれないよ」
「なんだ、気づいてたのか」
「やめてくれよ、フィリップ・K・ディックだって今はシャレにならないんだから」
「冗談だよ。見た目はあてにならないな」
「いいこともある。少なくとも有色人種や身体障害者は生きやすくなった。日本人でもこうして国の機関で働ける。大切なのはソウルさ」
「俺が?」
「魂のことだよ。魂こそが生き物の本質なんだ。人類はやっとそれに気がついたんだ。これは偉大なる進歩だよ」
ミタマは、ぷぅ、と紫煙を吹き出した。
「『大切なのは魂』ねぇ……」
自宅のリビングで椅子に腰かけ、ソウルは呟いた。彼の前の床ではツキハミがぺたんと座り込んでいる。
彼女の視線はあいかわらずテレビに釘付けで、ときどき画面に映る人間の言葉を真似て発音しようとしたり、画面に映ったものを指さして「これ、なに?」とソウルに問いかける。それ以外に動きは無く、食事や睡眠、排泄なども彼女には必要が無いようだった。
今日ソウルは仕事を早く抜け、自宅でミタマから貰った資料に目を通した。しかしその内容は全編にわたって月喰がいかに地球の脅威であるか、その脅威をどのように除くか、といったことで埋めつくされていて、月喰が人間を模倣したことがあるという例は見つけることができなかった。
「なぁ、ツキハミ」
ツキハミは顔をソウルに向けた。
「お前は本当に月にいる月喰と同じなのか?」
天井を指さして訊くと、ツキハミは少し考えるそぶりを見せ、うなずいた。
「うん」
「じゃあ聞くが」
ソウルは身を乗り出す。
「お前の目的はなんだ?」
「もく……てき? なに?」
「お前はなんのためにここまできた」
ソウルはすごんだが、ツキハミにはなんのことかわからないようだった。彼女は体をソウルに向けて、両腕を大きく動かす。
「わたし、あそこから、きた。がんばって、びゅーんて、もちゃもちゃして、うわんうわんで、そしたら、びちんとなって、ぐぇってなって、そしたら、えと、そしたらね」
「わかった、悪かった」
なんだか緊張しているのが馬鹿らしくなって、ソウルは頬を緩ませて体を背もたれに預けた。しかしツキハミは不満らしく、立ち上がってソウルの足もとまでくると、彼の膝に手をついて、なおも説明しようとする。
「わかったわかった。もう少しエスペラントが上手くなってからでいいよ」
ソウルは彼女の肩を叩いた。
不意に甲高い音が部屋の中に転がりこんだ。
ソウルはハッと玄関の方を見た。来客を告げるチャイムだ。素早く椅子から立ち上がってインターホンをとる。
「誰だ」
ソウルの問いかけに答えたのは、場違いなほどに明るい声だった。
「やぁこんばんはソウルくん! 君の愛すべき上司、鉄面皮だよ!」