ファッキンソウル
ケープ・カナベラル月喰迎撃宇宙軍基地から約108マイル、約174キロメートル北西に進むと、一面の広大な森林が現れる。フロリダ州2番目の広さを持ち、マリオン郡とパットナム郡にまたがるオカラ国立森林公園は、9月のからりとした気温のなか、雨の少ない気候のために太陽の光をたっぷり浴びたライブオークや松の木が集まってできていた。
その広い森の奥の奥、公園の管理員すらめったに訪れない場所に、よほど注意深く見ていなければ見逃してしまいそうなほど巧妙に隠された小屋がある。外壁と屋根に光学迷彩を用いて完全に周囲の風景に溶け込んでいるその小屋には、一週間ほど前から、ふたりの人間が住んでいた。
今、小屋の扉を開けて外へと出てきたのはそのうちのひとりだった。ジーンズにタンクトップという格好の彼女は温かい木漏れ日を全身で受けると、四本の腕をめいっぱいに伸ばして間抜けな大あくびをした。そして中断していた歯磨きを再開すると、寝ぼけ眼をこすりながら歩き出す。
マネシツグミたちのさえずりを聞きながら倒木を乗り越え、すこし歩くと小さな小川へ出る。小川には小さな滝があり、巧妙に偽装された水力発電機がまわっていた。彼女は川の水で口をゆすぐと、ハブラシを洗って、二丁の拳銃がさがっているベルトに挟んだ。
「どーこ行っちゃったんでしょうね」
レベッカはそうひとりごち、周囲を見渡した。
緑豊かな森の中は、陽が高い時間でも薄暗い。明るいのは枝々の切れ目から太陽光が射し込む場所だけで、ヤコブの梯子がいくつも立っていた。
レベッカは「うーん」とうなり、二対の腕をそれぞれ組んで考え込んだ。そのとき、爽やかな小川のせせらぎの向こうから、美しい歌声が聞こえた。レベッカはそっちに急いだ。
たどり着いた場所は小さな広場だった。広場はあたたかな太陽の光で周囲の薄暗い森から完全に切り離されていた。地面は背の低い、白い花弁のコスモスが絨毯のようになって輝いている。レベッカは眩しさに目を細め、そして花畑の中心に立つ人間の姿をみとめた。
少女だった。なめらかな長い黒髪は官能的に光を反射している。整った顔立ちはギリシャ彫刻のようで、長いまつげの下の潤んだ黒い瞳は混じりっけなしの純真さで世界と向き合っていた。首は細く長く、絹織物のようにしなやかな全身の筋肉は彼女の長い手足のすみずみにまで生命の活力を溢れさせている。肌の血色はよく、ボッティチェリの女神やミケランジェロのイエスすらくすんで見えるほどに鮮やかな色をしていた。彼女は歌っていた。薄紅色の弾力ある唇から漏れ出す歌声は、真冬の空気のように澄み切ったものでありながら、真夏のような熱も伴っていた。歌に歌詞は無く、生物の心の奥底、長い年月の果てに忘れ去ってしまった原始的な部分に訴えかける響きだった。
レベッカは、つい見とれてしまった。数分のあいだその場に立ちつくし、ハッと我にかえって頭を振った。
「カグヤちゃん!」
呼びかけられた少女は、歌をやめて振り向いた。ぞっとするほど無垢な瞳がレベッカをとらえた。
「あ、おねぇちゃん」
「むやみに出かけちゃダメだって言ったじゃないですか! 迷子になったらどうするんですか」
レベッカが歩み寄って叱責すると、カグヤは身を縮めた。
「ごめんなさい。でも、呼ばれていたの」
「呼ばれた……って誰にです?」
「この子に」
カグヤは足元を指さした。レベッカがそこを覗くと、血の臭いが鼻をついて顔をしかめた。
一頭の猫が死んでいた。頭の左右の盛り上がった毛と、枯れ木のように地味な色の体毛が特徴的なボブキャットだった。大きさからするとまだ子猫らしく、後ろ足の肉が深く抉れて垂れ下がっている。傷口からあふれた血が、コスモスの絨毯を赤く染めていた。
「もう死んでますよ」
レベッカが言うと、カグヤはうなずいた。
「さっきまでは生きてたの。私が呼ばれて見つけたときにはもう手遅れだった。だから、せめて最期のときにはそばにいてあげようと思った」
「へぇ、なんでです?」
「生き物はみんな、ひとりぼっちはさびしいと思うから」
そう言ってカグヤは悲しそうに目を細めた。
レベッカはうんざりした様子で肩を落とすと頭を掻いた。それからカグヤの手をつかむ。
「いいから帰りますよ。まったく、少しは追われてるって自覚もってください」
「おねぇちゃん、痛い」
カグヤの言葉にレベッカは手を離し、立ち止まる。掴まれた自分の手をさするカグヤを見て、レベッカは苛ついた様子で足もとの石を転がした。
「不思議ちゃんキャラもイイっすけどねぇ、協力的じゃない人を逃がしてやるほどお人好しじゃないんですよコッチは。かれこれもう一週間も同じところにとどまってる。自殺行為ですよこれは! おまけに酒も切れるしヤニも切れる! ああもう、カブラヤさんさえ帰ってきてくだされば!
そうですよ、だいたいあの人はカグヤちゃんを私に押しつけてどこ行っちゃったんですか! 『必ず戻ってくる』と言い残して一週間! ウワサでは宇宙軍内のイザコザで死んだとか聞いてますけど、だったらだったで『これこれまで連絡無かったら契約終了』くらい言ってほしいものです! こっちにも信用問題がありますから途中で投げ出すのもNGですし! ああもうファック! ファック! ファッキンソウル!」
「ファックってなあに?」
「ファックはファックです! ああ街に帰ってファックされたいよぉ!」
「ソウルなら、もうすぐ帰ってくるよ」
カグヤがはっきりとそう言った。
「ハイハイまた森の動物さんたちが教えてくれたんですねハイハイ」
レベッカはずんずんと歩を進めていく。カグヤは慌ててついていく。
小川を過ぎ、倒木を乗り越え、小屋の前まで帰ってくると、不意にカグヤが立ち止まった。
「誰かいる」
その声にレベッカは素早く反応し、両腰の拳銃を抜き放ってかまえた。カグヤの視線の先、こんもりとした茂みの向こうには、たしかに何者かの気配があった。
「誰だ」
レベッカはカグヤを庇って立つ。茂みの向こうの気配は、ガサガサという音を伴って近づいてくる。
「――ソウル?」
カグヤが言った。直後、茂みが割れて、ひとりの異様な人間が姿を現した。
背の高い男だった。基本の服装は軍の戦闘服のようだが、その上に特殊部隊が使用する強化外骨格がはりついている。頭は全体がヘルメットに覆われて、のっぺらぼうの表面には亡霊のようなペイントが描かれていた。腰にはひと振りの刀をさげている。
「待たせたな。俺だ、ソウルだよ」
「それ以上近づくな!」
男は茂みから歩み出て、レベッカの一喝に立ち止まった。続けてレベッカが何か言おうとした直前、彼女の横をすり抜けて、カグヤが男に向かって駆け出していた。
「アッ馬鹿!」
「ソウル!」
カグヤは勢いよく男に抱きついた。男は彼女を見下ろした。
「大きくなったな、カグヤ」
「カグヤちゃん、ソイツから離れてッ!」
「ソウル、ソウル、ソウル!」
「長い間、おまえを待たせて――」
男はなめらかな動作で刀を抜き――
「――すまなかった」
――カグヤに向けて刃を振り上げた。




