第七話 無性愛とベルガマスク組曲の話
【7】
騒がしかった食事も終わり、ママの淹れた紅茶で一息つく頃には、もう時計は夜の十時を回っていた。普段ならリュカも余裕で起きていられる時間帯なのだが、こう一日の間に立て続けに色々起これば、疲労も溜まるし眠くもなってくる。「ふわぁ」と一つ欠伸をしていると。
「ボウヤ、今日は疲れたでしょ? そろそろ横になったほうがいいわん。……と言っても」
ビッグ・ママはそう言いながら上を見上げ、すまなそうに。
「急だったからねん、お部屋は空いてるけど家具も何もないのよ。明日になれば知り合いから安く仕入れてこれるんだけども……」
「……なんか、すみません。色々お世話になっちゃって……」
「下の世話は自分でやるんだな、ひゃっひゃっひゃ」
心から本当に感謝の意を述べているのに、このエスという男は本当にどこまでも最悪な性格をしていた。一体どんな一生を送ればこういう人格が形成されるのか、
「だから今夜は悪いけど、誰かの部屋で寝てくれないかしらん?」
今夜だけだから、とまで言われれば「嫌です」とも言えず、ましてや自分は居候させてもらうのだから仕方ないだろう。
「俺様はパスな」
その反応は予想出来うるものではあった。この男ならそう言うだろうと。
「野郎と寝るよーな趣味はねぇし? 第一、俺様の部屋は誰かさんのおかげでこっぴどく汚れててよ?」
そう言ってエスは小柄なツインテールの少女を見る。一瞬でその頬が紅く染まったのを見てリュカもなんとなく察した。『何』で『どう汚れた』かまでは想像もしたくなかったが。
「私の部屋でもいいんだけどねん……でも、寝れるかしらん? 二人で使うにはちょっと狭すぎると思うのよん、あのベッド」
次に名乗りでたのは、意外にも他ならぬビッグ・ママだった。確かにその巨漢では例えダブルサイズのベッドでも窮屈だろう。それにその言葉にリュカは内心ホッとしていた。ママを信頼していないわけではないのだが……。
まぁそれは兎も角、結果残った者といえば……。
「というわけだ、そこのアヘ顔担当。せめてゴムは付けろよ? げひゃっひゃっひゃ」
「アンタに付ける薬はないわね性病男。いえ貞操帯なら似合うかもしれないけど?」
「ってちょちょちょ、待ってください!」
黙っていたらそのまま話が進んでしまいそうだったので、思わず大声で横槍を入れる。
「あ、あの僕いいですから……ここのソファーで寝ますし……」
食事をとったダイニングには、コの字型をした黒いソファーも置いてあった。狭いし少々寝にくい形ではあるが絶対に不可能というわけでもない。
「駄目よん!」
珍しくビッグ・ママが声を荒げる。
「ボウヤは今日この島に来たばかりだし、貴方が思ってる以上に疲弊しきっているわん。そういう時はゆっくりと身体を休めなきゃ……。知らない土地でいきなり病気になったら困るでしょ?」
頭を撫でながら、まるで母親のような口ぶりで。リュカはさっきの自分の非礼な思いを心の中で詫びた。そして改めてその見かけと正反対の優しさに驚く。
「まぁ、それは私が言える立場じゃないんだけどねん? というわけで……お願いしてもいいかしらんマキナちゃん? お店の娘達は皆これから仕事なのよん……」
「ママに頼まれたら嫌とは言えないわね。解った、引き受けるから安心して」
「って! ちょ……い、いいんですか!? あの……さ、早乙女……さん」
「マキナ、で構わないわ。えーっと……そこの人。付いてらっしゃい」
「リュカですよ、真締 龍河。さっき言ったじゃないですかマキナさ……ってあれ?」
だが言い返す暇もなく、既にマキナはダイニングの扉を開けて出ていくところだった。慌てて続こうとするリュカに、ビッグ・ママのよく響くバリトンが足止めする。
「ごめんなさいねん。悪気はないのよ」
「へ?」いきなりだったのでリュカは妙な声を出してしまう。
「あの娘――マキナちゃん、中々名前を覚えてくれないでしょう? あれはね、けっしてわざとじゃないの。許してあげて? 私もねん、覚えてもらうまでは随分かかったわ」
まぁ世の中には人の名前や顔を覚えるのが苦手な人もいるし、それにもう慣れましたし、と伝えるとママは「違うのよ」と、どこか寂しそうに呟く。
「あの娘はね? 覚えるのが苦手なんじゃないの。『他人を見分けられない』のよ」
「? それって……どういう……?」
「何をしているの? 愚図。さっさと来なさい」
だがその問いはマキナの声で中断されて……リュカは慌てて後を追うのだった。
………………
…………
……
ようやくその長い髪を目にした時、マキナは既に自室の前で鍵を探している最中だった。
「マキナさーん」
リュカとマキナの更に後ろから、幼い声が聞こえる。見ればミゥが息を切らせながら階段を駆け上がってくるところだった。
「何かしら? ミゥ。忘れ物をした覚えはないのだけど?」
「ハァハァ……あの……これ……」
そう言って手渡されたものといえば……。
「――……ミゥちゃん……何? これ?」
「貴方手錠も知らないの? あぁ、メーカー? これは多分ASP社製の56113ね」
「製品名聞いてるんじゃないです!」
それは囚人を護送する時に使うような、正しく手錠としか言いようがないものだった。黒光りする外観からは重々しい質感が伝わり、決して玩具なんかではないと確信させる。
「あと、こっちは足用だそうです。『よかったら使うように』と御主人様が」
もう一つ同じような――こちらは鎖で繋がったタイプだったが――ものを手渡すミゥ。
「あら、アイツにしては随分気が利いてるじゃない? でもせっかくだけどいらないわ。さっきので大分慣れたし、今度はしっかり眉間に当てるから」
「当てる!? 当てるって何を!? ねぇ何を!?」
「その代わり、そうなった時は処理をお願いするわね? 海にでも撒いとけばいいでしょ」
「不穏当な会話禁止! っつか何もしやしませんよ!」
ミゥはそうですか、と手錠、足錠を引っ込めると、再び階段を降りていった。リュカの脳裏に『早まったかなぁ……』という想いが立ち込めてきた時、丁度鍵の開く澄んだ音が聞こえた。
「さっさと入りなさい」
「おじゃまします」と念のため呟いて再び同じ部屋へ。今度は靴もしっかり脱いで、と。
「……うわぁ……」そして思わず声が漏れる。
「何をボーっと見てるの? とっとと来なさい」
そこには地獄が広がっていた。
先程見たモノ以外にも、細長いタイプ。丸いタイプ。玉が数珠繋ぎになっているタイプ。中にはどう使用するんだこれ? というような形状のものまで。ありとあらゆる『大人の玩具』が床に散らばっていた。
「これはひどい……(色んな意味で)」
「誰が感想を言えといったのかしら? あぁ、足元に気をつけなさい? 私の可愛い娘達を壊したら即射殺するわよ?」
「可愛い……娘?」
卑猥なオブジェの群れに目が行きがちだが、部屋の中を占拠していたのはそれだけではなかった。夕飯前にリュカがここに来たときは、鉛玉をブチ込まれかけるというトラウマクラスのイベントがあったため気が回らなかったが、こうしてある程度落ち着いた状態で見ると、この部屋がいかにおかしな装飾で溢れているかよく分かる。
まず目に付くのは何体かの人形。女の子なんだから人形の一つや二つ……と普通ならば思わなくもないだろうが、そんな可愛らしいものではない。まず大きさが違う。ほとんど生身の人間と同じくらいなのである。ならそれはマネキンではないかと言われそうだが、それも正しくはない。何故ならその真っ白な肌をした人形たちの関節は球体になっていて、自在に動くようになっていたからだ。そのくせ、細部はやたらと作りこまれていて服まで着せてある。眼球など本物のようだ。明らかに年頃の少女の部屋には、似つかわしくない代物だった。
それだけではない。足元には自動車のものだと思われるヘッドランプが転がっていた。その横には室内なのに『一時停止』の道路標識が立てかけられており、天井からはオイルランプがぶら下がっている。錆びたリボルバーとハサミが仲良く並んでいるかと思えば、人の頭ほどもあるアンモナイトの化石が電子部品や工具と一緒に無造作に放置されていた。
「ガラクタの山……」
そう、端的に表現するならそれである。他にも何十年も昔の古いブラウン管テレビやら、何かのアニメのフィギュアやらが部屋を埋め尽くしている。
「失礼なことを言わないでくれる? 貴方にはこの娘たちの素晴らしさが……まぁいいわ。ママに免じて、その無礼極まりない失言は聞かなかったことにしてあげる」
「あの、マキナさん。何なんですかこのガラ……いえ、これは?」
「何って、見て分からないのかしら?」
分からないから聞いているのだが……。マキナは床に倒れていたどこかの南方の民族が儀式に使うような、盾にも巨大な顔にも見えるそれを指差す。
「この生命力溢れる色彩と、極限までデフォルメされつつその意味を失わないデザインの素晴らしさが理解できないとでも言うの!? 古代の人々が畏れ、敬っていたその息吹が感じられるじゃない!」
「!?」
その瞬間リュカは自分の目を疑った。
あのマキナが、無表情、無感情が通常設定の少女がうっとりと、まるで嬰児を見つめる母親のような視線をそれに向けていたのである。それだけではない、語気や動作までもが荒かった。それは、イコールその不思議な仮面が彼女にとってはそれだけ大事なものだという証なのだろう。事実、マキナはそれを大切に大切に、まるで宝物でも扱うかのようにそっと壁に立て掛ける。
「じゃ、じゃあそこの標本は何なんですか?」
マキナは「そんなことも説明しないといけないの?」とでも言いたげに嘆息すると、
「昆虫って不思議だと思わないかしら? 人類なんて人種なんて言ったって結局は一種。即ちホモ・サピエンスだけなのよ? それに比べて昆虫は全世界に八十万種……おまけにそれが全てじゃない、毎年二千から七千種類以上の新種が発見され続けているのよ。同じカテゴリーにありながら、この多種多様な外観はどうかしら? まるで芸術じゃない」
一気にまくし立てる。標本箱の中には誰でも知っているようなクワガタや蜂の他にも、蜻蛉に蝶、普通の少女なら気味悪がるような蛾や何かの幼虫までが綺麗に並べられていた。マキナはそれら全てに陶酔するような表情を注いでいる。それはとてつもなく優しげで、切なく、妖しい色気を放ってすらいた。あれだけ何を言っても動じなかった彼女が、だ。
「じゃ、じゃあ。そこにある大量の工具は……」
「趣味と実用を兼ね備えたってところかしらね。人間を人間足らしめるモノ、それは道具でしょう? まぁ、訓練すればチンパンジーや他の動物にも扱えるでしょうけれど、使用出来ても生み出すことは出来ないわ。人が人のために思考し、生み出してきた必然たる形。例えるなら極限まで削られ、研磨された人造の宝石。それが道具よ」
『わ、分からない……。はっきり言おう、マキナさんのことがまるで理解できない』
リュカは頭を抱える。マキナが珍しく興奮しているのは分かる。このガラクタが彼女にとって大事なモノだということも、その表情を見れば明らかだ。だが何が彼女をそこまで突き動かすのか、さっぱり見当もつかない。
『いや、待て……理解することを放棄したらいけない。それは思考の緩慢な死だ』
あの、今となっては見間違いではなかったか? とすら思える出会い。衝撃的なまでの再会。そして食事から現在に到るまで、リュカはマキナの行動や台詞、仕草を思い返す。
「! ひょっとして……」と、そのどこかに引っかかる何かを感じる。
それは、あの自己紹介。夕餉の席でのそこに、リュカの記憶力と意識が反応したのだ。
――私はさっき自己紹介したわね。早乙女 真紀那。SM混合タイプの……――
「『無性愛』……。その趣味って、マキナさんの性癖の無性愛ってのと関係あるんですか?」
マキナは一瞬きょとんとしてから、「へぇ……」と感心した声を上げる。
「貴方が初めてよ、この部屋を見ただけでそこに結び付けられたのは。えっと、そこの人」
「リュカです。真締 龍河。さっき言ったじゃないないですか」
「そうだったわね。よくもまぁ覚えていたものだわ、えーっと……」
と考えるような顔を一瞬――本当に一瞬だけ――して「そこの人」とまとめた。
どうやら本当に名前を覚えるのは苦手らしい。そんな何回目かのやりとりをしながら、
『でもエスやママはちゃんと呼んでたしなぁ……ってことは僕だけってことか……』
少しばかり凹みそうになるが、ママの『私も覚えてもらうまでは随分かかった』という台詞を思い出す。いずれ時が経てば自分もそうなっていくのだろう。
「もういいです、そこの人で……それより、あの『無性愛』って何ですか?」
「知らないの? ……って無理もないわね。あまりメジャーな性癖ではないもの。いいわ、教えてあげる。無性愛とは、『他者に対して恋愛的な、或いは性的な欲求を持たない者達』……だそうよ」
スラスラと答えるマキナに対して、リュカは衝撃を隠せなかった。「そんな馬鹿な……」という言葉を吐き出しそうになる。「そんな人間が存在するなんて」と……。
『い、いや……僕には想像出来ない世界だけど、存在するという物を否定は出来ないよ。世界は広いのだし、この島ならどんな性癖の人がいてもおかしくないし……』
「というよりね」とマキナは続ける。
「寧ろ『心底どうでもいい』といった方が正しいのかしら? 興味がないというより……そうね『何故他人に興味を持つのか?』という段階で既に理解出来ないのよ。今この瞬間、世界中の人間が未知のウイルスで死滅しようが、私さえ無事ならそれでいいわ。そういう意味では自己愛も混じってるのかもしれないわね」
その言葉にリュカの中で、今までの彼女の行動や台詞の謎が氷解していく。
彼女は最初に出会った時、躊躇なくリュカを射殺しようとした。それはマキナにとってリュカがどうでもいい存在であり、尚且つ自分に危害を加える可能性があったからだろう。
『羞恥心が薄いのも、僕の名前を一向に覚えないのも……きっと、それが理由に違いない。おそらくだけど、マキナさんの目には『世界は同じ肉の塊が歩き回ってる』くらいにしか見えてないんじゃ……。それって……』
――あの娘はね? 覚えるのが苦手なんじゃないの。『他人を見分けられない』のよ――
ビッグ・ママの台詞が頭の中で反響する。
他人に恋愛感情や性的な欲求が――もっと噛み砕いて言ってしまうなら「好き」という気持ちが持てないから「興味」が湧かないのか、或いはその逆なのか……。
『全てが等しい』。故に彼女の世界は誰もいないのと同義だ。それは、それはどれだけ……。
「寂しそう……かしら?」
思考は頭に突きつけられた銃口によって中断され、続きは彼女自身によって述べられた。
「っ……! ひ……ぅ……」
「貴方が何を考えたかは知らないけど、多分途中までは正解よ。私の性癖を知った連中は皆同じ態度を取る、表情を浮かべる。いくら他人に興味がなくたって繰り返せば猿だって覚えるわ。ねぇ、貴方。私を見世物小屋の動物以下だと思ってるのかしら?」
ゾッとするほどに冷たい瞳がリュカを穿つ。だがその奥には怒りと不快感がありありと浮かんでいるように見えた。私を舐めるな、とでも言うかのように。
「ふん……貴方もそこらの動きまわる肉と同じね。あのエス《クズ男》が連れてきたと知って少しは違うかと思ったけれど……」
器用にクルクルと回しながら銃を革製のホルスターに収める。途端に空気と色が戻り、先ほど同様、とてつもない疲労感がずっしりと襲い掛かってくる。この「銃口を向けられる恐怖」は体験した人間でないと共感出来ない感覚だろう。
「そうよ? 私にとって『全てが同じ』。だから『全てに価値がない』。私さえ在ればいい」
マキナは語る。淡々と事務的に、しかし煩わしそうに。まるで何度も繰り返した答えをなぞり返すかの如く。そしてその接続詞も最早言い飽きたのだろう「だけど」――と繋ぐ。
「だけど、そう言うと勘違いする馬鹿や、お幸せな脳味噌の持ち主が必ず現れるのよね。余程、私を『独りぼっちで寂しい子』にしたいのかしら? それともそうやって自分より劣った者がいることに安心――いえ、優位に立ちたいのかしらね……まぁ、そんなことはどうでもいいのだけど」
そして軽く溜息を吐くと、マキナはいきなりリュカの頭をガシッと掴み、自分の目線の高さに引きずり上げた。「最終警告」……リュカの頭にそんな単語が去来する瞳で。
「私を勝手にズリネタにするな。『私』は、『私』が、決めるのよ」
その言葉だけ……しかし彼女の言いたいことが、言いたいことのみが濃縮された一言。優越感、同情心という自己満足で、自分を理解した気になっている傲慢な相手への不快感。勝手に形作られる他人の中の自分。それが自分をこれほどまでに怒らせているのだ、と。
「ご、ごめん……なさい……」
意識的か無意識的だったか……呼吸をするように自然に言葉が溢れる。いや、恐らくはそれがリュカの本音なのだ。銃をつきつけられたからではなく、命が惜しかったからでもなく、自分も形作られたことがあったから。ほんの少しの期間でも……。
「……ふーん」
一瞬、目を開くとマキナはリュカの頭を離す。そうして今度はジロジロと見つめると、何かに納得するように
「素直に次の瞬間に謝ったってことは、満更馬鹿でも普通でもないってことね……。私をカテゴライズした連中なんて、未だに自分たちのミスもわかってないのに」
「か、カテゴライズした連中って神世七代機関のことですか? 彼らが一体何のミスを?」
「普通じゃない」という言葉も気にはなったが、『神世七代のミス』という言葉を聞いては黙っていられなかった。変態達をテストで判別し、管理下に置いているのは彼らだからだ。その大本がミスを犯したのであれば、それは即ちリュカに下された診断もミスである……という可能性だってゼロではなくなる。
「私の属性のことよ。正確に言えばね、私の属性は不明なの。あぁ、さっき話したことは全て事実よ。でも少しだけ違う部分もある。それは性的欲求の部分ね。確かに私は他人に対して性的欲求を抱いたことは微塵もない……けれども、それはイコール『性欲がない』ということではない。この違い、分かる?」
『えーっと? ちょっと待て? マテマテ。なんか混乱してきたぞ? 他人に性的欲求を抱かないのに性欲はある? それって矛盾してるんじゃあ……』
と、そこまで考えたところで、リュカは足に何かがコツンと当たるのを感じた。視線を下に落とすとそこには微かな振動音を立てるピンクローターが転がっている。
「あ、そうか。オ……ごほん。その……じ、自慰行為はなさる……と、いうことですよね」
恥ずかしさで妙な丁寧語になってしまったリュカを、マキナは「そういうこと」と頷く。
「そこが厄介な点なの。現在の定義によれば『無性愛者とは他者に性欲を感じない人間』となっているわ。でも私には性欲はある。そういう人間は『非性愛』というそうだけど」
「非性愛?」また不明な単語が出てきて尋ね返す。
「非性愛ってのは『恒常的に他人へ性的欲求を持たない者達』……だそうよ」
「それじゃ無性愛と同じじゃあ……」
「続きがあるの。『但し、非性愛者は他者に対して恋愛感情を持ち得る』……ってね」
他人を愛する、好きになることが出来るし、興味も持てる。……その特徴からすれば、なるほどマキナは非性愛でもない。
「だったら私はどっちなのかしらね? 無性愛? 非性愛? この二つのカテゴリーでオナニーをするのは非性愛の方なのだけど……別に私は誰かをオカズにしてるわけじゃあないし……それに思春期以前の場合は、性欲や恋愛感情がなくても無性愛とは認められないのよね」
「じゃ、じゃあ何故、マキナさんはこの島に? そ、その、そういう行為だけなら、すすす、するのは普通なことなんじゃあ……?」
マキナが夕食時言った「女性には全くしない人もいる」という言葉を思い出す。頻度という点では確かに異常ではあるが。
「そういう行為? あぁ、オナニーのこと? そうね、だから言ったでしょう? 『私は誰かをオカズにしてるわけじゃあない』と」
「え? ……と、言うことは……? えっと……?」
――私のオカズの対象はモノ。私のセンスに適応する品々、そのものなのよ――
『……うわぁい……やっぱ変態だぁ……』
正直、初めからそんなハズはないとは思っていた。この島に流され、挙句あんな濃い連中に囲まれて生活しているのだ、マトモなはずはないとリュカも薄々思っていたのだが……。
「私が性欲を感じるデザイン、色彩センス、音……それら全てが私のオカズ。言わば私の美的センスに合致するモノ達ね。? 何かしら? 別におかしなことじゃあないでしょ? 車に性的な欲求を感じる人間だっているし、それが高じて塔と結婚した人だっているのよ? 貴方が毎晩シコシコやってた写真集や雑誌だって言ってみればただの紙だし、私の下着に顔を埋めてコスったって、それはただの布切れ相手に欲情してるってだけでしょう?」
「僕のプライバシーを勝手に捏造するな! あと他人を変質者扱いするのはやめてください」
エスに引き続き異常性欲者に仕立て上げられ、リュカは再び深いため息を吐く。
前半部分は理解出来ないが、なるほど、確かに後半部分は暴論ではあるにしても一応筋は通っていた。ただ違うのは大抵の人間がそういった行為に及ぶ場合は、それ自体に欲情しているわけではなく、その内容や、そこから喚起される妄想や想像を対象にしているというだけで。
「じゃあ……ここにあるものは全部……」
「そう、私の可愛い娘たちよ。どれをとっても素晴らしいまでのエロティシズムに溢れた逸品ばかりでしょう? ……あぁ、貴方には理解出来ないのだったわね」
キラキラ輝いていた目が、瞬時につまらないものでも見るかのような視線に変わる。まぁ、彼女がリュカにそれほど興味を持っていないことは、最初から分かってはいたのだが。
「さて、無駄話はいい加減にしてそろそろ寝なくちゃあね。私も今日は忙しかったから眠いし」
そうだった。マキナの性癖の異質さに、リュカもすっかり忘れていたが、現状は何も変わってはいないのだ。リュカは今更ながら、と思いつつももう一度マキナに提案する。
「あ、あのー。やっぱ僕、下のソファで……」
流石にこの歳になった男女が同じ部屋、しかも同じベッドで寝るのは問題過ぎる。だが、
「貴方もいい加減理解なさい。いい? ママは私に『頼む』と言った。私はママに『任せろ』と言った。つまり私には貴方を快適な状態で寝かせる『義務がある』。私は約束は守る性質なの」
キリッとした眉と瞳でリュカを見据える。そこまで言われてはリュカも何も言えなかった。
「とは言え、少し散らかりすぎてるわね。待ってなさい」
ベッドの上は――というより寧ろそれは部屋中であったが――あの夕食前の騒動のまま、様々なモノが雑多に転がっていた。マキナはそれを一つ一つ丁寧に片付けていく。なんとなく手持ち無沙汰で、リュカはその横に並んだ。
「手伝います」
「私の可愛い娘たちに触らないでくれる?」
だがその親切心から出た行動は、マキナには余計な行為だったらしい。大事なものを他者の手によって傷つけられたくないのだろう。
結局、マキナがベッドの上を片付けてる間、リュカは暇になってしまった。マキナを見つめ続けるのもなんだか気まずくて、自然、視線が部屋の中を彷徨う。
「ん? あれって……レコード?」
それに目が止まったのは本当に偶々だった。性的なものを避け、理解不能なものを飛ばし見ている間に、一番マトモな物に辿り着いたに過ぎない。
それは一枚のクラッシック音楽のレコードだった。
「クロード・ドビュッシーか……曲はSuite bergamasque……『ベルガマスク組曲』?」
マキナの片付けの手が止まる。
「……知っているの?」背中を向けたまま問いかけてくる。
「え? ……え、えぇ……まぁ、有名ですし。それに弾いたことありますから」
「弾く?」今度は身体ごとこちらを向いて。
リュカは内心しまった! と思った。つい口から漏れてしまったのだ。
「弾くってどういうこと?」
「あ、あの……以前、僕……ピアノを習っていて……」
だから言いたくなかったのだ。それは小学校の受験対策に、と両親から押し付けられた習い事。ただでさえ女顔のリュカである。そんな女の子がするような事を、とリュカはずっとひた隠しにしていた。結局辞める事も出来ず、それは高校受験が忙しくなるまで続いたのである。
マキナはしばらくの間じっとリュカを眺めると、片付けを中断して部屋の奥をガサガサと漁り始めた。そしてなにやら板状の大きなものを抱えてリュカの元にやってくる。
「弾きなさい」
「ふへ?」
それはどうやら持ち運び可能な電子ピアノのようであった。てっきり馬鹿にされるものとばかり思っていたリュカは妙な声を出してしまう。
「弾け、と言ったのよ。聞こえなかったかしら? そうね、三番がいいわ」
「さ、三番……っていうと『月の光』……ですか? ひ、弾けないことはないですが……」
月の光……ドビュッシーの作った曲の中でもポピュラーな、誰でも一度は耳にする曲である。
「だから『弾け』と言ったの。同じ事を何度も言わせないで頂戴」
「で、でもなんで……」マキナの意図が分からずリュカは尋ねる。
「ベッドを一晩だけとはいえ『貸してあげる』のよ? これは正当な代価じゃないかしら?」
リュカが聞きたかったのはそういうことではないのだが……まぁいいか、と心の中で呟く。それでマキナの気が済むならば代価としては、寧ろ安すぎるというものだ。
「あ、あの……楽譜がないから……サビのところしか覚えてないんですけど……」
「構わないわ。私が片付けてる間、弾いてなさい」
そういうとマキナは再び背を向ける。リュカは数カ月ぶりの鍵盤を二、三度鳴らして音を確かめると、覚えている範囲内の楽譜を頭の中で展開する。
ゆっくりと……静かに二人だけの部屋に旋律が流れ始める。
緩やかな、揺れる、優しさの溢れる音色。それでいて少しだけ切ない……。それはタイトル通り月の光のようであった。偶然にもマキナの部屋の窓からは空が、そこに浮かぶ真円の月がよく見えた。
いつの間に終えたのか。マキナは片付けを終えてベッドに腰掛けていた。そしてそのままゆっくりと、まるで羽のようにベッドへ横たわり目を閉じてしまう。
「どうしたの? やめていいなんて言ってないのだけど?」
その様が余りにも幻想的過ぎて、つい見蕩れてしまったリュカは演奏するのを忘れていた。
「あ、ああ……すみません……ってか、僕はいつまで?」既に曲は何周目かに入っていた。
「私が眠りにつくまでよ。そしたら貴方も適当に寝なさい。スペースは空けといてあげる」
そういいながら布団を被り「そうそう」と忘れていたように、
「私が寝ている間に何かしようとしたら、それ貴方の葬送曲になるから。おやすみ」
そう言って物騒に黒光りするモノ――昼間の拳銃を枕元に置いて、再び目を瞑る。リュカは冷や汗を浮かべながら、演奏をミスりそうになるのをなんとか堪える。
「不思議ね……」
しばらくしてからポツリと呟く声がする。
「自動演奏ピアノでも楽譜と同じメロディー、同じリズムが弾けるはずなのに……どうして人が弾くとこうも違うのかしら……?」
「…………」
リュカは何も言えずただ、演奏し続けるしか出来なかった。
「貴方……なんて名前だったかしら? ……貴方の演奏……とても……優……暖か……」
「リュカです。真締……って……マキナさん?」
見ればマキナはもうすぅすぅと寝息を立てていた。その寝顔があまりにも無防備で、可愛らしくて……リュカは思わず目を奪われる。
「眠りにつくまで、って話だったし……もういいか」
静かに、そっと、弾き始めた時のようにリュカはピアノから指を離す。そうしてドキドキしながらもマキナの横に寝転んだ。背中越しに微かな寝息が聞こえる。最初こそ心臓の鼓動は五月蝿かったが、次第に瞼が押し下がってくる。そうしてリュカの意識は闇へと落ちていった。
『ひどい一日だった……けど、まぁ……いいか……明日から……また……』
こんな風にしてリュカのソドムの日々は始まったのである。




