第二話 終わりかけたら更に突き落とされた話
【第二話】
「ぜぇ……ぜぇ……やっぱ理性的に行動しないとロクなことがない……」
クレタ島の迷宮が如き入り組んだ路地に座り込むと、リュカはミノタウロスもかくや、というほどの大きな溜め息を吐いた。当然、件の美少女の姿はどこにもない。
「そりゃ……そうだよなぁ。彼女にしてみりゃ僕なんてそこらにいる通行人Aにすぎないわけだし……何時までも待ってる道理はないよなぁ」
その場に呆然と立ち尽くしていたリュカが我に返ったのが数十分前。お嬢様風美少女はもう視界の果てに微かに見えるほどになっていた。で、慌てて追いかけてこのザマである。
「ザマとか言うなザマとか。大体この街作った奴はどこのどいつだ。出るとこ出て勝訴ってやるぞコンチクショウ」
悪態を吐き終えると、上った血もテンションも戻ってくる。呼吸が落ち着くのを待って億劫そうにリュカは腰を上げた。
「大体……追いかけて何がしたかったんだ僕は……」
馬鹿らしい、と一笑する。
ナンパどころか恋人すらいた事のない身だ。笑顔一つだけでフリーズしてしまうような相手に、果たして自分に何が出来たというのか……。
少し……いや、本音を言うともの凄く惜しい気持ちではあったが、件の美少女のことはとりあえず棚上げすることにした。どうせこの島からは出られないのだから。
と、リュカの脳裏に一つの考えが思い浮かぶ。
『彼女もそう……なのかな……? とてもそうは見えなかったけど……』
気分が一気に重くなる。受験で鈍った肉体で走りまわった疲労もあるのだろうが。
「……ってかここ、どこ……?」
やたらめったらに走りまわっていた人間が現在地を把握しているわけもなく、つまり、リュカの状況はただ一言で表現することが出来た。曰く「迷子」。
「高一にもなって迷子……」
情けなさに膝をつきたくなる。しかも『女の子を追いかけて』という理由がそれに拍車をかけていた。
ハァ、とため息を吐きつつ財布からIDカードを取り出し、リュカは携帯端末にセットした。すぐに空中に3Dホログラムが浮かぶ。その中からMAPという項目を指で触って今いる場所から居住区への道筋をチェックする。随分離れてはいるが歩いていけない距離でもない。仕方ない、と諦めて歩き出そうとした時だった。
「へへへ……」
「くっくっく」
「よう、お嬢ちゃん」
眼の前に三人、『いかにも』といった風体の男が、柄の悪い笑みを浮かべて立っている。どう見ても穏やかな雰囲気ではない。ちなみに性別を間違われるのには慣れているので、最早リュカは諦めていた。
本能が『関わり合いにならない方がいい』と警告を鳴らしたので奴らを刺激しないよう、ゆっくりと後退る。……と背中に何かがドンと当たる感触。
「つれないねぇ、もっとお話しようぜ」
首だけ振り返ると同じようなタイプの男達が更に二人、後方から詰め寄っていた。
「あ、あはは……な、何か御用でしょーか……?」
用も何も、いくら無菌世代のリュカといえども、その後に男たちが告げる台詞は容易に想像できるものだった。
「いやぁ、俺達ちょーっとお金に困っててさぁ。悪いんだけど貸してくれないかなぁ?」
要約……「金目の物を全て出せ」……である。
リュカが『逃げだそうか、それとも叫び声をあげようか』と、逡巡したその瞬間だった。喉元に蒼白い光がピタリと押し付けられる。金属独特の冷たさが体温を一瞬で下げていく。
「俺達急いでてさぁ……わかるよね?」
「は……い……」
十六年の人生で初めて刃物を突き付けられた恐怖に、リュカは抵抗する気をそっくりなくしてしまっていた。
「へへっ、やっぱ狙うなら日本人だよなぁ! おぉこんなにタンマリはいってやがら」
リュカの上着から財布を抜き取ると、男の一人が歓声をあげる。
「急げよ、早くしねぇと誰か来ちまうかもしれねぇ」
「っへ、この島に警察なんていやしねぇよ。おほっ! IDカードまでそのままだぜ!」
男たちの言うとおりだ。ここは日本ではない。警察組織など機能しているか……いや、存在しているかすら不明なのである。
「わかんねーぞ? ほら『HIMSA』ってのがいるって話じゃねーか……」
「おいおい、そんなホラ話を信じてるのかよ。ビビってんのか?」
HIMSA……その噂ならリュカも聞いたことがあった。この島で唯一にして絶対の、正義の執行者だと……。ただ、それはあくまで噂や都市伝説のレベルであり、実在するかどうかは怪しいものである……とも。
普通、少年漫画やらアニメならここでそのHIMSAが登場し、連中をバッタバッタとなぎ倒しながら「危ないところだったな、君」と助けてくれるのがパターンなのだろうが……それが通用するのはフィクションの世界だけである。現実はいつも非情なものだ。
「ありがとなー! お嬢ちゃん。これでしばらく食うのに困らんわ」
「まぁ元気でやってくれや、げひゃひゃひゃ」
「さて、祝杯といくかぁ? はっはっはっは!」
男たちは意気揚々と、リュカから金目の物を洗いざらい取り上げて去っていった。……不幸中の幸いを敢えて探すならば、男たちが店で一発ヤリ終えたばかりであり、リュカの年齢がストライクゾーンではなかったという点ぐらいであろう。
「は、は、はぁぁぁぁぁぁ……」
男たちの姿が見えなくなると、リュカは思わずその場にペタリと座り込んでしまった。今まで溜め込んでいた呼吸やら何やらが一気に溢れ出る。全身が震え、力が入らなかった。よくもまぁ漏らさなかったものである。
……リュカが落ち着くまでに三十分は要しただろうか。
「と、とりあえず……命があっただけよしとしよう……」
無理矢理なポジティブシンキングでゆっくりと立ち上がる。まだ身体は震えているが、歩けない程ではない。……というか一刻も早くこの場から離れたかった。またあのような目にあったら今度こそ漏らさないという自信はない。そして命の保証も。
もう一度ため息を吐き出しながら額の脂汗を拭う。とりあえずは一旦落ち着きたかった。人心地つきたかった。それに今まで体験したことのない緊張により喉はカラカラで、乾きを癒したいというのもあった。とりあえず周囲を見回し自販機を探す。だが……、
「自販機までマトモじゃないのかよ……ハァ……まぁ、覚悟はしてましたけどね……」
それでも脱力せざるを得ない。「精力増強スッポンドリンク」「ガラナ配合! 夜の帝王」「超絶倫! 赤マムシエキス」。他に並ぶはお約束の「明るい家族計画」しかない。
「この島はどうなってんだぁぁぁぁぁ! ……お!? おおおおお!」
思わず吠えるリュカ。がそれが幸いしたのか、仰け反った視線の先にあの赤い特徴的な自販機を発見することが出来た。暑い時にはスカッと爽やか。いつでもオールウェイズ! コカ・コーラである。
リュカはこの島で初めてマトモなものに出会えた奇跡を神に感謝した。「これは飲用です。プレイ用は専門店でお求めください」とか「コーラで洗っても避妊にはなりません。注意しましょう」などという怪しい文句が書かれてはいたのだが。
リュカは早速財布を取り出そうと……して先程の顛末を思い出す。自分が何をされたのか、自分が何を失ったのかを。連中が盗んでいったモノ。その財布の中身も勿論大切だが、何より重要なのはIDカードなのである。
ソドムでの身分証明用IDカード。それは現代技術の粋を集めた模造不可能な一品で、これがなければこの島では碌に買い物すら出来ない。カードからの情報は島の最重要地区にあるメインサーバーに即座に送信され、各々の行動を逐一監視、結果は島の今後の傾向に活かされる。
IDカードには居住区の場所も入力されている。だがそれらを全て覚えていられるほど人間の記憶力は優れてはいないし、先程の事件がそれをふっ飛ばしていた。
当面生活に必要な家具や衣服等々は既に居住区に届いているはずだから、リュカが今現在持っているのは親から貰った肉体と身に纏う服、そして耳小骨埋め込み式の翻訳装置しかない。これほどまでに裸一貫という言葉が似合う状況もそうはないだろう。それ以外は逆立ちしたって十円玉一枚出てこない。
「結局ぬか喜びかよ! ちくしょ……ぶべ!?」
「退け」
その声は明らかに後頭部に感じた衝撃よりも後で聞こえてきた。
――真締 龍河……ファーストキスは……自販機の味がしました……――
「って妙なモノローグいれてるバヤイじゃなくって!?」
いきなりの事態に思わず現実逃避する。それはリュカの認識を遥かに超えた、想定外の出来事だった。絶望のあまり自販機前にてうずくまっていたリュカを、何者かが後ろから押したのだ。頭ごと。かなり強引に。
「誰だ……もげっ!?」
振り返ろうとした左頬が再び押し付けられる。自販機の仄かな温かさが気持ち悪い。
「誰だ! じゃねーっつーの」
「二回!? 二回もたわばっ!?」
三回目。一回だけなら偶然かと思うだろう。二回目ならばまたか、とも。しかし……。
「同じ相手に三回も! しかも後ろから頭ドツクとはどーゆーこと……だ……?」
言葉を失う。何故ならそこにいたのはそれに値する以上の、異常なモノだったからだ。
『な…なんなんだこいつは……』
これほどまでに奇妙な人間(?)はいなかった。
そいつは全身を何かこう……黒いゴムか皮のようなベルトに似たものでグルグル巻きにされていた。顎の下から足のつま先まで隙間無くびっしりとである。腕は丁度鳩尾の辺りでクロスし、自分の身体を抱くような格好をしており、リュカが以前テレビで見た埋葬前の外人か、はたまた教科書に載っているミイラか、といったポーズをとっている。
つま先まで拘束されているものだから、当然そいつは自分の脚では歩いていなかった。縦にしたベッドのようなものに、その黒いベルトで固定されており、移動しやすいようにだろう、ベッドと地面が接する部分には車輪がついている。
つまり――……なんだか分からないモノだった。幸いにも顔は覆われていなかったので男だと分かったが……。
「臭ぇ」
「……え? 何を言っ……」
「口が臭ぇんだよそれ以上呼吸すんな」
グルグル巻き男はリュカの言葉を遮るように、一気に、淀みなく言い切った。リュカの思考が一瞬でフリーズする。
『あぁ、そうか疲れたんだね僕ただでさえトンデモないコトになって更にトラブルに巻き込まれておまけに奇人変人ばかりに出会って少し頭の深い所が何かこう悪い塩梅になってしまったのだそしてきっとそれは聴覚器官にすらも影響を及ぼしているに違いないきっとそうだ家に帰って風呂に入って温かい布団で眠れば元に戻るさ僕も帰ろうおうちに帰ろうデンデンデングリ返ってバイバイバイ』
一瞬の内にここ数年で、受験時以上の回転率を記録したリュカの心中など知ったことではない、とばかりに男はさも愉快そうな声で、
「あぁ臭ぇ臭ぇクソ臭ぇ。垢臭ぇ処女臭ぇ小便臭ぇ生ゴミ臭ぇフケ臭ぇ辛気臭ぇ貧乏臭ぇ。テメェ、あれだ。牛乳拭いてそのまま放置した雑巾みてぇな匂いすんな? ゲラゲラゲラ」
「って幻聴じゃねぇぇぇ!?」
更にダース単位で追加支援砲撃された言葉のナイフが、リュカの心を穴だらけにする。おかげで現実には帰って来れたが。
「あ、アンタ! なんなんですか!? 初対面の人間に向かって、いきなりその失礼無礼極まりない口の利き方ァ!? 大体僕は昨日も風呂に入ったし、今朝だって歯を磨いた! 体臭だってそこまで言われるほど酷くない! っていうか僕が罵倒される理由を説明しろ理由を! あと処女臭いってゆーな!」
滅多に怒らない、争い事が嫌いなリュカでも我慢できるコトと出来ないコトくらいある。一気にそう捲し立て息を荒らげるリュカを、グルグル巻き男はじーっと覗き込んできた。まるで値踏みをするように。故にリュカも男を改めてじっくり見る余裕が生まれたのだが、
『こ、こいつ……格好もアレだけど……』
その容姿もまた特徴的な男だった。
髪の色は真紅に染め上げられ後ろにざっと流している。髪と同じ色をした、丸レンズのサングラスの下には爬虫類か、はたまた日本刀――それも呪いバリバリの妖刀だとリュカは思った――を思わせる鋭い釣り目。両耳は重さでちぎれないかと心配になる数のピアス。無精髭の生えた口元は挑発的に、嫌味たっぷりにニヤニヤと歪み、その奥にサメのようなギザギザした歯が並んでいる。
顔立ちはかなり整っている方なのにゴチャゴチャとしたオプションが全て台なしにしている……そんな感じ。恐らく年齢は二十代中半……いっても後半くらいだろう。
その、どう贔屓目に見ても「さっきの奴らより人間的に低レベルだ関わるな。いや寧ろ今すぐダッシュで逃げろ! マジでマジで」タイプのDQN男は、上から下までリュカを見尽くすと、
「アンだァ? テメー男かよ。カマ臭ぇ面しやがってクソが。分かりやすいよう普段から金玉丸出しで歩いてろこのボケ」と更に更に失礼な言葉を剛速球で投げつけてきた。
リュカの怒りのボルテージが限界値を振り切り、掴みかかろうとしたその瞬間、
「申し訳ございません」
謝罪を意味する言葉がリュカの耳に届く。この無礼と失敬が服を着たような赤髪男が、人に頭を下げるなどというコトが出来るのか? とリュカは驚いたのだが、しかしその声はやけに小さく、トーンも高く、澄んだ綺麗なもので、しかもかなり下の方から聞こえてきたのだった。
「申し訳ございません、そこの通行人A様。御主人様……エス様はけっして悪意や敵意があって先程のようなバリゾーゴンを並べ立てたのではないのです」
その声の主を捜そうとリュカは視線を下げていくが、それは膝の高さの辺りを過ぎても見当たらない。こんな小さな人間がいるのか? と疑問に思い始めたところで、その主とご対面する。
「御主人様は生粋の嗜虐趣味者でございまして、この毒舌も仕様……と申しますか。あ、あ、ですが御主人様はけっして唯の無頼の暴力主義者というわけではなく、寧ろ私の目から見て、初対面の通行人A様に合わせられて普段より抑え気味であると申しますか……」
必死なまでの表情でグルグル巻き男――少女は彼をエスと呼んだ――を庇っていたのは、年端もいかない外国人の少女だった。少なくともまだ縦笛を手に黄色の帽子を被り、赤いランドセルを背負って学校に行っている……くらいの。
だが少女はその幼さでありながら、恐ろしいほどの美人であった。先程のお嬢様系少女を超絶美少女と呼ぶのなら、こちらは超絶美幼女とでも言うべきだろう。
『な、なんだぁ?! この島は美形しか集まらない島なのか? ……いや、でもさっきの赤ん坊オヤジは不細工だったし……』
そんなリュカの感想は兎も角として、少女はきっと将来トップ女優クラスの美人になると誰にでも予想させる容姿をしていた。
輝くようなプラチナブロンド。長い睫毛も同じ色だから恐らくは地毛だろう。その髪を全て頭の左右高所で二つに纏めて結ぶ、所謂ツインテールという髪型をしていた。広めの可愛らしい額の生え際からハラリと上げそこなった前髪が二、三本かかっている。
白人特有の――といってもこれほど透き通るような白を、リュカは見たことが無い――色素の薄い肌に、ほんの少しピンク色をした小さな唇。とても大きな瞳は、光源のせいか赤みがかって見える。
まるでビスクドールか天使といった印象を見るもの全てに与える、幻想的な少女……。
いや、少女「だった」。少なくともその容姿だけなら。問題は彼女の服装と、どのような状態にあるか、である。
「……あの、もしもし? えーっと、君?」
「あ、これは失礼を致しました。私、ミゥと申します」
「あ、じゃあ……そ、その、ミゥちゃん? えーとき、君はなんで『そんな格好』をしているのかなぁ?」
聞きたくない。
聞きたくなかった。というよりそもそも関わり合いになることを、リュカ脳内会議員達は総員一致で拒否していた。だが、悲しいかな、それを黙って見過ごせるほどにリュカは非情でも、大人でもない真っ当な道徳心の持ち主だった。
「私の服装がどうかいたしましたか?」
「いやいやいや、そもそも、それ服って言っていいの!? 違うよね、絶対違うよね!」
衣服というのは身を守る為、寒暖を防ぐため等様々な用途があるが、『恥ずかしい部分を隠すため』という理由もある。そういう観点で言えば少女のそれは衣服と言えなくも……。
「いや認めねぇ! 認めないからな! 『乳首と局部に絆創膏貼っただけ』なんていうのを服なんて言ってたまるかああもうクソッタレ!」
「流石にそれだけではございませんせんよ? ほら」
ちゃり、という金属音が聞こえる。ミゥは自慢げにそれを手にし、まるで勲章のようにリュカに見せびらかした。
「首輪は衣服に入りません! あとその犬耳カチューシャも、後ろから垂れてる尻尾も!」
「垂れているのではございませんよ、きちんと装着されてます。具体的に言うと肛……」
「あーーー! あーーー! 聞こえない聞こえない! 聞きたくない聞きたくない!」
大声を上げて耳を何度も叩くリュカ。
「しかも……そ、そんな道端によ、よよよ『四つん這い』って……」
「おい」
ミゥと名乗るその『金髪ツインテ犬耳尻尾首輪絆創膏ニップレス前貼り四つん這い少女』という戦隊物の合体ロボ最終形態のように、これでもかこれでもかとばかりに詰め込んだ珍妙な少女との会話は、酒に焼けた無粋な声によって遮られた。
「だ・れ・が、喋っていいっつったァ? あァ!?」
唯でさえ人相の悪い顔が、不快の二文字で更に歪んでいる。だが不快なのはそのエスと呼ばれた男だけではない。先ほどからどつかれ、貶され、挙句の果てには会話にまで口を挟まれてきたリュカも同様である。或いは先程の件でリュカの何かが麻痺していたのかもしれなかった。
「アンタ、人の発言権にまで――!?」
「あ……御主人……さがっ! ……あっ!」
目の前の光景に、リュカは怒りの言葉を失っていた。
エスの身体を拘束する黒いベルト(?)。その一部が解け、蛇か何か別の生き物のように動き出したのだ。それはまるで意思を持っているかのようで、リュカが男を本当に人間かどうか疑いだした時だった。微かに何かが聞こえる。唸るようなそれは……。
『く、駆動音? ってことは……あれは機械仕掛け……なのか?』
と、そこまで推察して……それどころじゃないことにリュカは気付いた。先程のエスの言葉はリュカに対してのものではなかったのだ。黒い触手はその発言の対象者――即ち、まだあどけない少女であるミゥ――を思い切り地面に押し付けていた。
「なぁ? テメェ。何喋ってんだ? あ? テメェは何だ? 言ってみろ」
「雌犬……ですうぁっ!」
力が増したのか、更に地面に押しつけられるミゥとそれを睨むエス。触手がエスの意思で動いているらしいのは最早、明白だった。
「だよなぁ? 犬だよなぁ? だったらテメェ人間様の言葉なんざ使ってんじゃねぇ!」
「ぅあ……ぁぁぁあ! わ……わん! わん! わん!」
「そーそー。それでいいんだ。やりゃあ出来るじゃねぇか駄犬が」
それがリュカの我慢の限界だった。理性を超えた本能が、怒りによって肉体を支配する。気付いた瞬間、リュカの右手は触手を払いのけ、そのままエスを思い切り殴りつけていた。
「……ッ! アンタ! 恥ずかしくないのか!」
人を殴ったのは始めてだった。拳がじんじんと熱く、痛む。だがエスはそんなリュカの拳を顔面で受け止めたまま微動だにせず、「はぁ?」となんとも気の抜けた返事を返す。
「は、はぁ? って……解らないのか! こんな小さな女の子に暴力を振るって、アンタ恥ずかしくないのかって聞いてるんだ!」
「いや、これ暴力じゃねぇし」
その言葉には反省も後悔も罪悪感すら感じ取れない。
「ふ、ふざけんな! これのどこが暴力じゃないって……わっ! 何を!?」
触手がリュカの頭にくっつき無理やり下を向かせる。
「下、見てみな」
下? と言われてリュカは視線を動かす、そこには……神様もう奇妙な光景はいいです、お腹一杯です、これ以上入りません、お願いだからやめてくださいマジでマジでと泣きをいれたくなるような光景が広がっていた。
「っは……はぁはぁ……っはぁ……えへ、えへへへへ……あへぇ……」
恍惚……という言葉がある。物事に心を奪われてうっとりする様のことだ。
少女の表情は正にそれだった。涎と一緒に舌をだらしなくはみ出させ、頬を桃色に染め、息を荒くしつつも、その顔は至福と喜びに満ち満ちている。まるで飲まず喰わずで砂漠を彷徨った遭難者が、生命の限界でオアシスを見つけたときのような表情だった。瞳などはとろんと裏返っていてリュカの声も届いているかすら怪しい。
「ドMなんだよ、こんガキぁ。奴にとっちゃあ今のはご褒美ってこった」
――コンナ小サナ子ガ……コンナ……モウ、何モ、信ジラレナイ――
「あったりめぇだろ? ここはソドム。『変態しかいねぇ街』なんだからよ」




