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第十一話 メス豚奴隷と本当の幸せについての話

【11】


 あの煙に巻かれたような、エスとの会話から数日が経っていた。

「あの日全てが夢だったんじゃないだろうか」と思ってしまうほど、エスはすぐにいつも通りに戻ってしまっていたが、ナターシャやエスの言葉はあれからずっとリュカの頭の中をグルグルと駆け巡っていた。


『僕はずっと自分は正常だと、マトモだと思ってた。……いや、思ってる。こんな島に流された今でも、だ。理性的に常識的に……それが僕の今までの行動規範だったはず……』


 だが、とリュカは思う。それはあくまで自分が勝手に思い描いた『世間一般の常識』という船にただ乗っかっていただけではないだろうか、と。

 しかもそれは泥やカスミで出来ているようなものだ――とエスは言った。全ては相対的な、流動的なことなのだ、とも。そしてそれに反論出来なかった自分。

 あれからなんとか否定しようと躍起になったが、考えれば考えるほどに結局エスの意見を肯定してしまっているコトに気づく。


『それじゃあ僕の信じていた常識は、道徳観念は間違っていたのか? こんなイカレた、変態の街が正しい? こんな――……』


「ひゃっひゃっひゃ、なぁ見ろよ。こーすっとますます豚に見えるだろ?」

「んぶぅぅぅぅ! ごぉ、ぶごぉぉぉぉぉ!」

「ちょっとそこの変態コンビ。鼻フックお披露目パーティーはいいけど、ギャグボールは自分の部屋だけでやって頂戴。涎がボタボタ絨毯に落ちてシミになってるじゃない」

「うるせぇなぁ。テメェが毎日汚してるシーツの量に比べりゃ可愛いもんだろが液漏れ電池女。っと、お前は自家発電専門だっけな、ゲラゲラゲラ」

「……我慢してやってきたけど、アンタのセクハラ発言もそろそろ聞き飽きたのよね。ってわけで死んで。今すぐ。ここで。ミトコンドリアレベルで」

「ひゃひゃひゃ。テメェが我慢なんてことが出来たたぁ驚きだぜ。まぁ溜めた方がイッた時の快感は上がるっつーしな。ゲラゲラゲラ」

「おごぉ……もがぁぉぉぉ」


「やっ……かましい! 人が真面目に考え込んでるってーのに! あんたらにゃ気を使うとかそういう殊勝な心遣いはないんですか!」


「全然」「ちっとも」「ぶごご」

 すっかり慣れてしまった日常風景に「これだよ……」と嘆息する。反面、その方が「らしい」とも思えたのだが。

「やめとけやめとけ。悩めるだけの脳細胞があったたぁ驚きだがな、残り少ねぇそいつを掻き集めたってケツ拭く役にも立たねぇよ」

『こっちはアンタの言ったことで悩んでいるんですがね』喉元まで出かけた声を心中で呟く。

「気を使うのに値する相手ならば、考慮するのもやぶさかではないけれど……少なくとも今、この部屋に該当する人間はゼロよね」

「相変わらずバッサリいきますねアナタは……しかも値してまだ考慮するレベルなんだ」

「確かにな、おまけに一匹は人間じゃねぇ……メス豚だし、よ!」

「んごぶぅぅぅぅぅ! おごっ……ぉぉお……」

 エスが何かのスイッチを入れた瞬間、ミゥの小さな身体は海老反りになるほどに跳ね上がり、痙攣し、弛緩して……そしてまた繰り返す。


「見てない。僕は何も見てない僕の視界には入らなかった見てない見てない見ませんでした!」


「ちょっと、私のローターまた使ったでしょ」

 歯ブラシでも使われたかの如き気軽さである。

「いいじゃねぇか、後ろのは自前の使ってんだしよ。それにどうせテメェにとっちゃあもう、あんなサイズのは玩具みてぇなもんだろが」

「あーーーあーーーきーーーこーーーえーーーなーーーいーーー」

「サイズが問題じゃないの! ……いえ、そりゃちょっとは問題だけど……。……いえ少しは……かなり……すごく。……兎に角! お気に入りのもあるんだから勝手に使わないで頂戴」

 リュカにとっては頭痛を通り越し、目眩を起こしそうな言葉のやり取りをしながら、

「さってと」とエスは立ち上がる。

「ちょっくら出掛けてくらぁ、よう? あのローター、稼働時間はどれっくらいだ?」

「2、3時間ってとこかしらね。連続で使用すると故障の原因になるんだけど?」

「ってなわけだ肉奴隷。俺様ぁちょっと出掛けてくる。その間ぁせいぜい楽しむんだな? 豚みたいな喚き声あげてよ、ゲラゲラゲラ」

「もごがごぉぉぉぉぉッッッ!」


 エスは「暇だったら偶にゃリモコン弄って遊んでやってくれや」と告げて去っていった。

「やれやれ、相変わらずあのクズザーメン野郎は。こんなもん渡されたって困るんだけど?」

「ちょ……! マキナさんッ!」

 理解していた。そのツッコミが無意味であることを、リュカはとっくに理解していた。だが照れを誤魔化したくて、結局ツッコんでしまう。

「また? 今度は何かしら? ええと……」

「リュカです。いや、それよりもですね……女性がそうゆーことを大声でですね……」

「ドイツ語を喋って何がおかしいの?」

「へ? ドイツ……語」

「そう、ザーメン……ドイツ語で種子・或いは精液の意味。ゼミナールは種子を撒くって意味からなのよ」


 また一つどうでもいい知識がリュカの脳に刻み込まれる。『じゃあ大学のゼミって……』とか、『古代のドイツ人もまさかこんな風に使われるようになるとは思うまい……』等と一瞬にして様々な思考が同時に飛び交ったが、何よりリュカが今一番提起したいことは、


「意味解って使ってますよね!? 完全に意味解って使ってますよね!」


「解ってたら何なの?」

 会話が続かない……。リュカのコミュニケーション能力は然程乏しくないはずなのだが……。そんな風に自分を顧みていると先程の『リモコン』が放り投げられる。

「あげるわ、それ」

「んごぼぉぉぉぉ……んぉ! おごぉぉぉぉ!」

「……これって……ひょっと……して……」

 膝の上に着地したそれは、禍々しい何かを放っているかのようだった。マキナはそれに視線を投げながら、

「好きなように弄ってやればいいじゃない」

 そう言って彼女も出ていった。

「…………」

「んぐぶぅぅぅ……んぉ……むぐごぉぉぉぉぉ……!」

 残されたのはリモコンを握ったまま呆然とするリュカと、四つん這いのまま拘束され、猿轡をかまされたミゥだけである。革製ボンデージファッションの彼女が放つ、人とも思えぬ絶叫が断続的に続く……。

「って! 僕は何ボーッとしてるんだ! えーっと、えっと。こんなもん操作なんかしたことないぞ!? スイッチ……スイッチ……。あった! これだ……OFF……っと……」

 途端にバイブレーター音が鳴り止み、ミゥはその場にくたり、と突っ伏した。ゴルフボールを穴だらけにしたような猿轡からは滝のような涎と、苦しそうな呼吸が聞こえてくる。

「ふぴー……しゅぴー……ごふ……」

「もうちょっと待ってて? えっと……これ、どうやって外すんだ!?」

 ミゥの顔に付いていたのはそれだけではない。先端が二股に別れたフックのようなもの――所謂鼻フック――で、鼻の穴が上に押し上げられていた。先ほどエスが豚が云々と言っていたのはこのことである。端正な、人形の如き可愛らしい顔が台無しになっている。

「っと、取れた……やれやれ」

「っぷはぁ……はぁ……はぁ……」

 十分ほど格闘した結果……なんとか手探りではあったがリュカは外すことに成功した。息を整え終えたミゥからは、きっと感謝の言葉が贈られるものだとばかり思っていたのだが……。


「なんで外しちゃったんですか!」


「そんないいよ……って、はい……?」


「それにスイッチまで切っちゃって……早く入れてくださいよ! ほら、早く早く!」


腰をクネクネともどかしそうに動かすミゥに、リュカは『あーそうでした……』と思い出す。


「ハハーン! それともこれはアレですか? 放置プレイですか?」


『この娘はドがつく程のMでした。ってことは何か。さっきまでのあれも悦んで……考えるのやめよう……脳が核分裂起こしそうだ』

 大きなため息を吐く。分かってはいても納得出来るものでは到底なかった。理解など星の彼方である。

「……全く、なんでこんな……まだちっちゃいのに……こんな変態に……」


「――と、言いましても……私はモノゴコロつく頃からこうでしたので」


「ってこたぁ何か!? そんな昔からこんな非道いことしてたってぇのか!? あのゴミクズロリペド男め、ぶっ殺す! やっぱあの野郎は一度――……」



 ――今、なんと? ――



 本能――とでも言うべきだろうか……。

 その瞬間、リュカは全身の毛穴がブワッと開く感覚に襲われた。今までに経験したことのない何かが一気に脳の最奥を刺激する。だがリュカは、リュカの深いところはどこかで知っていた。知らせていた。それの正体が何であるかを。

 それ――『生命の危機』を。

 すぐにその場を飛び退こうとしたが、その判断はあまりにも遅すぎた。拘束されていたはずのミゥの腕は、いとも簡単に自由を獲得しており、その細く、白い片腕がリュカの喉笛を掴むまでに数秒もかからなかっただろう。信じがたいほどの腕力が腕から伝わり、首からはみしりという嫌な音が聞こえてきた。


「今……殺すと……おっしゃいまいしたか?」


「うぐ……が……」


 呼吸が出来ない。急激に脳が酸素を失っていくのが解る。周りの空気は張り詰め――いや、凍りつきリュカの頭を、全身を串刺しにする。世界が歪んだ紅と黒に染まっていく。

 この頃になってリュカはようやく自分の状況を「理解」し、また「理解したくない」という心境に至っていた。

 締め上げる片腕を伝ってその小さな少女の顔へと辿りつく。プラチナブロンドに揺れる尻尾のようなツインテール。ビスクドールのような貌は表情を無くし、ますます人形のようになっていた。そしてあの真っ赤な瞳。まるでグルグルと、蚊取り線香のように瞳の中が渦を巻いていた。どう見ても正気の表情ではない。

「っぐ……」

 消えそうな意識の中、リュカは両手両足を使ってミゥの身体を引き剥がそうとした。不幸中の幸いだったのは、ミゥの身体が小柄だったという点である。もし両者の身長に差がなければ、リュカの身体は空中に浮いていたに違いないからだ。


『……っんだ? この力……』


 凄まじい力でミゥは離そうとしなかった。仮にもリュカは男子高校生。一方のミゥは小学三年生である。だのに、まるでプロレスラーか相撲取りでも相手にしているかの如く、その白く細い腕はビクともしなかった。出来たのはせいぜい、絞める腕に少し、ほんの少し隙間を開けるだけ。それですら死ぬ直前の馬鹿力で、である。


「み……ぅ……ちゃ……」


 情けないことではあったが、それがリュカの精一杯だった。だが効果はあったようで、すぐにリュカの喉をみしみしと絞める腕から力が抜け、ミゥの瞳に再び理性という名の光が灯る。


「――……っ!? リュカさん!? あ、あわわわわわわわ!」


『やれやれ、ようやく正気に……あー、力が抜けたらまた気まで抜けてきた……僕はこの島であと何回殺されかけて、何回気を失えば……』

「リュカさん! リュカさん! しっかり! しっかり!」

 ………………

 …………

 ……


「エス様は、御主人様は……私にとって全てなんです……」


 意識を取り戻したリュカは、ミゥにひとしきり謝られた後、傷の手当てを受けていた。

 喉には筋を違えたような鈍い痛みと、掌の痕がクッキリと痣になって残っている。塗り薬や湿布を貼りながら少女は訥々と語り始めた。


「文字通り、全て……なんです。御主人様が私の生まれてきた理由で、御主人様が私の生きる理由。御主人様の命令が私にとっては全ての上位にあたり、御主人様が喜ぶことならばどんな手段や方法を使っても叶えて差し上げたい。御主人様が望むなら存在しないものでも探し出し、御主人様と同じ時、同じ場所にいられるだけで幸せを感じられる。御主人様が私の存在理由であり、御主人様が私の全て……そんな御方なんです」


「どうして……」


 手当てを終えたらしく、ミゥはもう一度「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。だが、リュカには自分の怪我のことより遥かに気になって仕方ないことがあった。

「どうして! どうしてそこまで……!?」

 するとミゥはクエスチョンマークを乱舞させたような表情で、


「『どうして?』と言われましても……『それが私です』としか答えようがありませんが……。私はその為だけに存在するのであって、他に理由はありません。私にとってこれ以上の幸福はありませんしあり得ません。私は世界で一番幸せな肉奴隷だと自負しております」


 これ以上ない程の笑顔を浮かべる。その返答にリュカの興味と疑問はますます高まっていた。あの人格破綻者の何がそこまで彼女を惹きつけているのだろう――と。

「アイツの――……エスのどこがそんなに魅力的なの?」


 だがリュカは後悔と同時に知ることになる。


「そんなの決まってるじゃないですか! まずあの真っ赤な御髪! 太陽が如き熱さと御主人様の情熱溢れる思いそのままに表現なされた素晴らしさ! そしてあのサングラス! あれは私が差し上げたものなのですがモノを大切にする御主人様の優しさとこんな惨めで汚らわしい私などのプレゼントを使用してくださるその海の如き広き御心といったらもう言葉に尽くしがたく!」


「あ、あの……」


 世の中には……。


「そしてあの御声! 私は何度あの御声によって貶され罵られ嘲られたことでしょう! その度に私の肉体は! 精神は! この世のものとは思えないほどの歓喜と快楽の渦に包まれっ……と言ってる間にも身体が疼いてきたのですが兎も角あの御声だけでも私は絶頂に達せるのです!」


 世の中には、聞いてはいけないこともあるのだ――……と。


「更に更にプレイに関して言えばあの容赦のない外道なまでの攻めっぷりと私の精神をまるで豚のように……いえいえ豚どころではありませんまるで虫のように人権を踏みにじる様は天国としか言いようがなく! いえ人権などと虫などと! まるで自分が生き物が如き厚顔無恥っぷり! 私は便器です! 人間型便器です! あの御方専用の人間肉便器でした! ハァハァ」


「あのー……もしもーし」


「そしてなんといってもあの御方最大の魅力といえばあの眼ですよねハァハァハァあの眼に一睨みされただけで自分の立場というものを瞬時に理解しあの御方に全てを捧げたくなって……ハァハァハァいえそれもこじつけでした本当は捧げたいなどというのは後付けの理由なのです本音はあの御方にこの汚らわしくいやらしく淫らな肉体を滅茶苦茶に犯して嬲って壊していただきたいのですあああああああああああああああ御主人様ァァァァァ早く早くご帰還なさってくださいませェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!」



『駄目だ、こいつもう手遅れだ……(早くなんとかしないと、とかいうレベルではない)』



「……でも……」

 と少し懐かしそうに、そして悲しそうに遠くを見ながら。


「本当の理由は……もう少し、別かもしれません……」


「別?」

 すうっと眼を細めて、ミゥは喋り出す。


「私は真っ白な部屋にいました。それが一番古い記憶……。何も出来ず、何も考えられず、唯々恐怖と苦痛にだけ怯え続ける毎日でした。誰も私のことなんか気にしない。私が死んでも誰も気づかない……、そんな場所に。ずっと……ずっと……」


 真っ白な部屋……と聞いてリュカが真っ先にイメージしたのは病院だった。

確かにこの儚げな、白く小さな少女にはそういったイメージが――外見上だけだが――よく似合った。ひょっとしたら幼い頃は身体が弱かったのかもしれない、とも。

「友達はいましたよ? でも少しずついなくなっていって……やがて私独りだけが残って……それでも私はそこから出られなくて……私は、何もかもをすっかり諦めきっていたのです」

 リュカは想像してみた。……自分以外が退院していく中、独り残される恐怖……しかもそれがようやく物心つくような幼い時分だったら……それだけでココロは挫け、弱っていくに違いないだろう。「なんで自分だけが」……その気持ちは、ここに流された今のリュカにとって痛いほどに良く分かる。他人事では決してないのだ。

「御主人様と出会ったのはそんな時です。それは偶然だったのですけれども。……御主人様は全てを諦めて、ただ呼吸をしているだけの人形だった私を、人間にしてくれた……。私をあの何もない日々から、地獄のような繰り返しの日々から救い上げてくれた……」




 ――御主人様は……エス様は私を生き始めさせてくれたんです――




『アイツが? あの人間としてどこか大事なモノがスッポリ抜け落ちた、人類ランキングなら間違いなく底辺彷徨ってそうなアイツが? 何かの間違いじゃ?』

 そう聞こうとしてリュカは口を噤んだ。ミゥの目はどこまでも澄み切っていて、とても純粋な、幸せに満ちていたからだ。

 例えばもしも、それがミゥの勘違いであり、エスの行為が偶然や気の迷い、そんなつもりは更々なかった結果だったとしても――普通に考えればその方が可能性として十二分に高い――それでも彼女は救われたのだ。救われたと思っているのだ。ならそれで充分じゃあないか、と。世の中知らないほうがいいことだってきっとあるはずだ。そう、リュカは思うことにしたのだ。知ることが幸せな結果を招くとは限らない。自分が変態だと知ったり……とか。

「ですから御主人様は私の全てなのですよ。私にとって他の全てはどうでもよいことなのです」

 それは嘘偽りない、真実の、心の底からの本音そのものだった。

 恐らくミゥはココではない……例えば日本で暮らしたとしても、同じようにエスの肉奴隷で在り続けただろう。偶然ここが二人にとっては地球上で最も過ごしやすい場所だった……というだけで……。そう思わせるに十分な言葉だった。

 どういった経緯でミゥがエスに助けられ、またそれがどうしてSMなどというアブノーマルな関係になったのか? 聞きたいことは山のようにあったが、ここでリュカに一つの、いわゆるイタズラ心というものが浮かんだ。それはちょっとしたジョークのつもりだったのだが。

「だったら」と軽い気持ちで尋ねてみる。

「だったらもしアイツが『死ね』と言ったらどうす……」

「死にます」



 ――死にます――



 ニッコリと、心からの笑みを浮かべたまま……。全く躊躇のない、そんな愚問は考えるまでもないといったタイムラグでの応答。

 それはそうすることが最上の幸せであると疑いもしない表情。


「それが御主人様がお望みになることで、御主人様の御為になるのであれば、私は喜んでこの首を斬り落としましょう。いつそう言われてもいいように、準備だけはしているのですが……」


 ぞくり――とリュカの背筋を何かが駆け上がった。それは先程、喉を締め上げられた時以上のものであった。

『恐怖』……否、この場合『狂気』だろうか……。目の前の華奢で小柄な少女から、リュカは得体の知れない戦慄のようなものさえ感じるようになっていた。


「ですから、御主人様に敵対する者、危害を加える者、つけ狙う者は例え相手が如何に強大で、多勢で、狡猾な相手だったとしても、私の生首が動かなくなるまでそれら一切を、全てを殺し続けるよう心がけているものでして、つい……。先程は大変申し訳ありませんでした」


『つ、つい……。つい、でこの娘は人を殺そうとしたのか……!? 『あのゴミクズロリペド男め、ぶっ殺す!』……僕のたったあの一言だけで。しかもきっと……』


「ね、ねぇ? ミゥちゃん。君にとって僕ってどういう位置づけなのかな?」


「はい! リュカさんは御主人様の大切なお客様で、今現在は御主人様と同じ家で暮らしてらっしゃる住人様です」


『やっぱり……この娘にとって、一番重要なのはアイツなんだ。全ての事象はそれに追随して存在しているに過ぎない。だからさっき僕を殺しきらなかったのは『僕だから』じゃなく……『御主人様の大切なお客様だから』……。僕個人は彼女にとってはどうでもいいんだ』


 しかも、ミゥはそれを微塵も悪いとは思わないだろう。何故なら彼女にとってエスより優先する事柄はないからである。

『エスの為になることは全てが良い事』……それがなによりリュカは恐ろしかった。その結果として世界の全てを犠牲にしても構わないという考え。モノであれ、他人であれ、そして……自分自身すらも。その狂信的なまでの思慕と執着が……。


「よぉ、雌豚に間抜け。楽しく過ごしてたか? ひゃひゃひゃ……あ? ミゥ、テメェなんでそんな格好してやがる? 俺様がせっかく着けてやったセットはどこにやりぁがった?」

「ぁ……う……。御主人……様」

 しかし思考の海に潜っていられたのはそれが限界だった。下卑た笑い声と共に、ミゥが言うところの『超絶カッコ良くて自分の全てで命を賭けるに値する御主人様』であるエスが、ドアを開けてご帰還なされたからである。最初は実に満足げに笑っていたその顔が、不機嫌そうに曇ったのはすぐのことだった。

 エスはそのまま部屋の隅にまとめて置かれた口枷を見つけ、それからソファーの上で電源を切られているリモコンを手に取り、そして最後にチラリとリュカの首元に目をやった。


「……フン。なるほどな……」


 一目で状況を理解したらしいエスはそのままミゥに近づくと、横合いから触手で思いっきり顔面を殴り飛ばした。

 悲鳴を上げる暇も無く吹っ飛んだ少女のツインテールを掴み、引っ張り上げるようにして無理やり立たせる。ブチブチと髪の毛の抜ける音が聞こえた。


「何度言っても分かんねー、この駄犬が……。テメェ、ナメてんのか? なぁ、おい。俺様をナメてんのか?」


 傍目にはいつもと変わらなかったが、その声には静かな怒りが秘められていた――……ようにリュカには見えた。


「今日は褒美は無しだ。せいぜい喉が裂けるまで泣き叫べ。躾のなってねー駄犬には、身体で教え込むのが一番だからなァ……」


「ひっ……や……ぁ……」

 その瞬間、実にたくさんの感情が表情というスクリーンに映し出されるのをリュカは見た。

 エスには怒りと殺意、そして凶悪なまでの喜びが。ミゥには恐怖と歪んだ期待、それに狂気にも似た執着が。


「も、申し訳ありません! 申し訳ありません! もう二度と! もう二度と致しませんから! ですからですからお許しを! お許しをォォォ!」

 笑っているようにも泣いているようにも見える複雑な表情のまま……ミゥは髪の毛を掴まれ引きずられていった。そして数分後……。




『ひぎゃあああああああああああああ! っが! っが! ぐひぃいいいいいいいいいいいィィィィィィィィ! お許じ……ぎゃああああああああああああ! や、やだやだやだやだやぃひぃぃいいいいいィィィィいいいいいい!』




 耳を塞ぎたくなるような……というか実際リュカは塞いでしまっていたが、それほどまでに非道い絶叫が上階から聞こえてきた。断末魔というのは、ああいうのを言うのだろう。

「放っておいて大丈夫よん」

「ビッグ・ママ! ……って放っておく!? アレをですか!?」

 助けにいこうか迷いながらも、身がすくんで動けずにいると、リュカの背後から野太い声が聞こえてくる。

「大丈夫よん、あれもあの二人のプレイだから。寧ろ手出ししたほうが殺されるわ。尤も今日のはちょっと激しいみたいだけどねぇ」

「あれで……ちょっと? っていうか大丈夫なんですか!? 本当に大丈夫なんですか!? あんな声あげてますよ!? 死んじゃいますよミゥちゃん!?」

「だからぁ、大丈夫だってば。SMはただ相手を傷つけたり、ましてや殺したりするのが目的じゃないのよん。だからって快楽ばかり与えてもS側、M側両方の為になんないの。結構奥が深いものらしいわよ? 私には属性ないからわかんないけどねん?」


『イダイ! イダイ痛いぃぃぃたいいぎぃィィィ! ごべんらはいごべんらはいごべんらはい! ぼうじまぜ……んぁがぁぁぁぁぁぁあああああ!』


「ほんとーーーに大丈夫かなぁ? いや大丈夫じゃないよね!? これ、全然大丈夫な声じゃないよね!? あれだ、第二次大戦時の強制収容所とかこんな雰囲気だったんだきっとそうだ」

 それでも心配そうに声のする方を見上げるリュカに、ママは諭すように告げる。


「エスちゃんはあの娘を必要としてるし、あの娘はアレを幸せだと感じている……。思い込みでも刷り込みでもなく、ね? だったらそれが全てじゃない? あの娘と話して、ボウヤにもそれは理解ったでしょ?」


「それは……。でも……」

 エスにされること、エスの為にしてあげること……それら全てが自分にとっての幸せだ、とミゥは確かに言っていた。心の底から……。だが……それでも納得出来なかった。


「それを知っていて、あの二人のやることに介入するのは唯のお節介っていうものよ。ボウヤの中の『幸せ』っていう基準を二人に無理やり押し付けてるだけ」


 そう言ってビッグ・ママはソファに身体を沈めると、長細いタバコに火を付ける。甘い独特な香りが部屋の中を漂った。



「人の幸せは、人の数だけあるものなのだから……んね?」



 人の数だけ……。そう心の中で呟いて、ふと、先日のエスの言葉を思い出す。


『なら、『幸せ』って何なんだ……。僕にとっての幸せは……。そしてミゥちゃん、君は本当にそれが幸せなのかい?』 


 そんなことを考えつつ「いや……」と、心の中でリュカはかぶりを振る。彼女ならばきっとそれを幸せだと断言するだろうから……。


「ココはそういう街なのよ」


 吐き出す紫煙は窓の向こうの風景を白く曇らせていた。


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