序章
……目が覚めたら短剣を突きつけられていた、という体験をした事があるだろうか? まあ世間一般的に考えると、無いと答える人の方が多いのだろう。俺もその多数派に入っていたいところなのだが、残念ながら、ある。というより、今まさにその状況だ。
「おはよう」
首筋に当るひんやりとした感触によって、俺の安眠は妨げられた。突きつけられた短剣の先から伝わってくる程よい殺気。朝っぱらからこれはいただけない。職業柄、殺気なんてものは日常的に感じちゃいるが、流石に寝覚めに感じたくは無いのだ。
これで、俺の上に跨っているのが妙齢の美女だったなら、まだ許せる。しかし、現実はそう甘くは無い。俺の目に映るのはまだ年端もいかないガキが一匹。見知った顔だ。
「ようセリク、良い朝だな」
「ふざけるな」
首筋に当っていた短剣が、少し押し込まれるのが解った。押し込まれた切っ先は、俺の首の皮を裂き、肉を少量抉って止まる。刀身を伝う血が、ベッドに滴り落ちた。ああ、シーツ洗ったばかりなのに。
「よくも一人でのうのうと寝たられるもんだな、ええ? 人をあんな所に放り込みやがって」
「あんな所?」
吐き捨てるように紡ぎ出されたセリクの言葉に、俺は首を傾げた。その拍子にまた、短剣が俺の首を抉る。そういえば刺さってたな。ま、動脈は切ってない様だから大丈夫だろう。
噴き出す血に頓着せず、俺は思考を廻らせた。しかし、答えは一向に返ってこない。俺、何やったんだ? わからん。
「忘れたとは言わせねぇぞ。お前昨日、俺を娼館に置き去りにしやがっただろうが!」
「ああ、そのことか」
余程頭にきているのか、裏言葉で怒鳴るセリクの言葉で、俺はようやく理解した。
昨日、セリクを連れて歓楽街に飲みに出た俺は、酔った振りをしてセリクを手近な娼館に投げ込んだのだ。理由は簡単、面白いからだ。何故ならこいつは……
「よくも俺の女嫌いを知っててあんな真似が出来たもんだ。当然、覚悟は出来てるんだよな」
そう、このセリクというガキは、女嫌いなのだ。それも病的なまでの。女アレルギーといっても良い。話すくらいなら問題は無いが、肌が触れれば悪寒と寒気に襲われ、俺が長く続けば高熱を出し、終いには禁断症状まで出してしまう。なんとも珍妙な体質なのである。
他人にとっては、ただの笑い話なのだが、これが本人にとっては笑い事ではないらしく、セリクは女との接触を極端に嫌っている。この歳で人生の楽しみの半分を失うとは、不憫な奴だ。
「その首掻っ捌いて路上に晒してやる!」
「それは大変だ」
言葉を発し終わった瞬間、俺とセリクの位置関係は逆転していた。今やセリクは、俺の下で手を捻られてうつ伏せになっており、その首筋には短剣が突きつけられている。セリクが瞬きする一瞬を狙っての早業。当の本人は何が起こったのか解らず、しきりに目を開閉させている。我ながら見事な手際だ。
「で、俺の首をどうするって?」
「くっ……」
上から見下ろす形で、俺はシニカルな笑みを与えてやる。ようやく自分の状況を理解したのか、セリクはうつ伏せのまま、憤怒と屈辱に拳を震わせた。が、この体勢では何もする事など出来ない。朝っぱらから人の首を切りつけるからだ。この阿呆め。
「この、いい加減そこどけよ! 動けないだろ」
「ふむ、そうだな。まだまだ仕置きが足りないような気もするが、心の優しい俺は、非力で無力でかわいそうなセリク坊ちゃんのために退いて差し上げるとしよう」
セリクの頼みを聞いて、親切にも上から退いてやった俺に対し、セリクは感謝の意すら示さずに罵声を浴びせてくる。まったく、恩知らずな奴め。だが、この程度では俺は怒らない。俺は心優しく穏やかな男なのだ。ガキの言う事に一々目くじらを立てはしない。
「不感症のクセに!」
いや、時として、無知な子供にしつけを施してやるのも、大人の務めというものだ。ちなみに、俺は別に不感症というわけではない。身体の、外界からの刺激に関する感覚が鈍いだけだ。誤解の無い様、お願いする。
ベッドの上で憤然としているセリクの頭を、俺は無造作に掴んだ。その余りのさり気なさに、セリクの反応が遅れた。逃れようと手を腕に掛けてきた時には、もう遅い。俺は、セリクの頭を握る力に少しずつ力を加えていった。時折、骨の軋むような音がし、セリクの口からは苦鳴が漏れる。
「痛ぇって、オイ、コラ、放せよスカタン!」
「……」
更に生意気なことを言う様なので、もう少し力を込めてやる。しつけは手を抜いてはいけないからな。心を鬼にして徹底的にやらないと。
「あ、痛ッ! わかった、わかりました。僕が悪かったです、許してください!」
「最初からそう言えば良かったんだ、少年」
まだ、セリクの言葉には多分に棘があったが、寛容な俺は、それで許してやる事にする。
「くそ、涼しい顔して児童虐待しやがって」
それでもまだ、懲りずに悪態を吐いてきたが、まあこれくらいは聞き流してやる。そんな事よりも、セリクが虐待なんていう難しい言葉を知っていた事の方が驚きだ。こいつも成長したな。
「それで、何の用だ? まさか俺の寝首を掻きに来ただけ、ってことは無いんだろ?」
もしそうなら、再び折檻してやらなくてはな。しつけは大事だ、しつけは。
「あ、当たり前だろ。ちゃんと別に用事があるんだって。さっきのは……まぁ、ついで、かな」
どうやら考えが顔に出ていたらしく、顔を青ざめさせながらセリク言った。それにしても、ついでで人の首を取ろうとするとは、なんてガキだ。やはり折檻してやろうか?
「依頼が来てたんだよ。しかも俺達を名指しで」
「名指しで? 誰からだ?」
「それがさぁ、妙なんだよ。依頼人が魔道師ギルドなんだ」
「魔道師ギルドだと?」
確かに変だな。まさか魔道師ギルドとは。
魔道師ギルド。その名の通り、魔道師の大半が所属する組織の事である。その規模は巨大で、俺やセリクの属する傭兵ギルドと同様、大陸全土、至る所にその支部を設置している。
魔道師の活動内容は、主に古代語や、道具に魔術を付加させ、様々な効果を持たせた魔法道具の研究である。そのため、盗賊ギルドや冒険者ギルドにそれらの収集を依頼する事はある。しかし、基本的に、魔道師ギルドが他のギルドに依頼するということは滅多に無い。特に、傭兵ギルドとはその勢力が拮抗しているため、ギルド創立から四百年、一度も依頼があったことは無かったのだ。
それが今、その魔道師ギルドから依頼が来たというのだ。それも俺達を名指しで。
「どうするかな……」
これは少し、厄介な事になってきた。過去一度たりとも依頼をしてこなかった、魔道師ギルドからの突然の依頼。どうぞ怪しんでくださいと言っているようなものだが、ギルド側が依頼を突っぱねた様子も無い。恐らく、これで魔道師ギルドとのパイプを作っておくつもりなのだろう。俺やセリクに万が一のことがあっても、所詮は一構成員。ギルド側に大きな損失は無い。それどころかむしろ、お偉いさん方は、俺達が依頼外で何かあった場合に、それをネタにしてあちらを糾弾し、勢力を拡大する腹積もりだろう。
本当は、こんな依頼は断りたい所なのだが、悲しいかな、俺達はギルドの一構成員でしかないのだ。拒否などできようはずも無い。
「気は進まんが、受けるしかないんだろうな。仕方ない。セリク、ギルドに行って依頼書を受け取るぞ」
「あ、それなら大丈夫。俺がもう貰ってきたから。じゃ、読み上げるよ」
依頼内容:ゴルドランズ遺跡の調査、及び、魔法道具の発見、譲渡。
報酬:金貨三十枚
依頼人:魔道師ギルド
被依頼人:ギルドランク〇一六三 ≪神の手≫セリク=スターランド
並びに
ギルドランク〇〇一三 ≪不死身≫ガイラ=S=ヴァン