第2話 初任者研修
教室に入った瞬間、猛烈に帰りたくなった。
整然と並ぶ机、ホワイトボード。前には講師らしい女が立っている。嫌な記憶ばかりの学生時代を思い出す空気だった。
俺はなるべく目立たないよう、 一番後ろの隅の席へ気配を消して 座った。
受講生は二十人くらい。年齢は バラバラだった。
主婦っぽい女性。中年の元サラリーマン風の男。明るそうなギャル。定年後っぽい爺さんまでいる。みんなそれぞれ、崖っぷちの事情があるんだろう。
だが、人の心配をしている余裕はなかった。俺はただ、「場違いな所に来てしまった」という場違い感で吐きそうだった。
「はい、それでは始めまーす!」
講師の女がパンと手を叩いた。 三十代後半くらい、やたらと声が大きくて元気だった。
「皆さん、介護で一番大切なのは何だと思いますか? それは、利用者さんの『尊厳』です! そして『自立支援』!」
その瞬間、俺の脳内は拒絶反応を起こしていた。
尊厳。自立支援。寄り添う心。
いかにも教科書らしい、綺麗事のオンパレード。俺は頬杖をつきながら、パラパラとテキストをめくる。立派な言葉が並んでいるが、本音を言えば、俺の頭にあるのはもっと 即物的なことだけだった。
オムツ。糞。尿。汚い仕事。
それ以外の何物でもない。
「では皆さん、二人一組になってベッドの移乗介助をやってみましょう!」
最悪だった。知らない人間と組むのが、俺は昔から死ぬほど苦手なのだ。
周囲がガタガタと席を動き始める中、俺が一人で固まっていると、
「あ、じゃあ私、一緒いいですか?」
声を掛けてきたのは、茶髪の若い女だった。高橋、という名札がついている。
「……どうぞ」
「よろしくお願いしまーす。宮坂 さん、緊張してます?」
「別に」
「あ、絶対してるやつだこれ」
ケラケラと笑う高橋に、俺は 居心地の悪さを感じていた。
だが、実技の授業は、想像していたよりもずっと“綺麗”に進んだ。
「声を掛けるのが大事です」「急に触ると驚かれますからね」
講師の指導に従って、高橋の体をベッドから起こし、車椅子へと移す。変に距離が近くて気まずいが、周囲もワイワイと楽しげにやっている。学校の調理実習みたいだった。
介護って、もっと殺伐としていて、暗くて汚いものだと思っていた。いや、実際の現場を知らないからこそ、このお気楽な空間に余計に現実感が持てなかった。
休憩時間、自販機の前で缶コーヒーを飲んでいると、また高橋がやってきた。
「宮坂さんってさ、なんで介護来たの?」
「……別に。仕事探してて」
「生活のため? 私もー。ぶっちゃけ、ここなら食いっぱぐれなさそうじゃん?」
その言葉に、少しだけ救われた。みんながみんな、あの「尊厳」とかいう崇高な理由で来ているわけじゃないらしい。
「でも宮坂さんって、なんか優しそうだし、お年寄りに好かれそう」
「は? 初対面で適当言うなよ」
「えー、ほんとだって」
意味が分からなかった。 俺は二十六年間、自分が誰かに必要とされたり、好かれたりする人間だと思ったことなんて、一度だってない。
すべての講義を終え、資格のペーパーを手にした帰り道。
夕方の冷たい空気の中、駅へ向かう途中で、地元の介護施設の送迎車を見かけた。後部座席に、小さな老人が乗ってぼんやり窓の外を見ている。
数日後には、俺もあの世界に入る。
紹介された近所の特別養護老人ホーム。
教科書を閉じた俺は、まだ知らなかった。
本当の現場というものが、どれほど人間の剥き出しの現実であるかを。




