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灰路の旅  作者: 灰ノ森鬚
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灰塵に灯る火種〜中編〜

その姿は、生きている者とは思えぬほど不気味だった。

 ボロボロに引き裂かれた漆黒のローブを纏い、その下には実体があるのかさえ定かではない影のような肉体が蠢いている。顔があるべき場所には、深い闇の中に冷たく光る一対の瞳だけが浮き上がっており、その視線が触れるだけで魂が凍りつくような錯覚に陥る。

 あるじであるモルドーグから「死」の一部を分け与えられたかのようなその佇まいは、まさに動く死神だった。

「……愚かな。灰にまみれたネズミどもが、まだ『希望』などという塵を噛み締めているのか」

 モルガスの声は、墓場の底から響くような不快な重低音だった。

 彼はゆっくりとした足取りで、ヴィルが助けていた老人の前で立ち止まる。

「この老いぼれは、今日のノルマに達していない。……偉大なる主、モルドーグ様の慈悲も、役立たずのゴミを養うほど安くはないのだ」

 モルガスが、実体のない指先を老人へと向ける。その指先からは、生命を腐敗させる黒い霧が漏れ出していた。

「待ってください! その人の分は、僕が……僕がやりますから!」

 ヴィルは反射的に、震える足でモルガスの前に立ちふさがった。

「ヴィル、やめろ! そいつに関わるな!」

 カイトの鋭い制止が響く。だが、ヴィルの繊細な心は、目の前で無抵抗な命が奪われるのを見過ごすことなどできなかった。前世の「佐藤歩生」が、自分を削ってでも誰かのために動こうとしたように、その本質が彼を動かしていた。

「……ほう。その白くひょろひょろの体で、身代わりを申し出るか。身の程を知らぬ家畜ほど、潰し甲斐のあるものはない」

 モルガスが冷酷に笑い、影のような腕をヴィルに向けて振り上げた、その瞬間。「モルガス様! 緊急事態です!」

 穴蔵の入口から、悲鳴に近い報告が響いた。駆け込んできたのは、焦燥に顔を歪めた下級の監視兵だ。モルガスの振り上げられた腕が、ヴィルの鼻先数センチで止まる。

「……何事だ。私の愉しみを邪魔するほどの事態か?」

「はっ! この灰塵城グラードの防衛線を突破し、隣接する白壁の国エステリアの軍勢が侵攻して参りました! 奴ら、大樹シルヴァリスの奪還を掲げ、捨て身の特攻を仕掛けております!」

「エステリアの羽虫どもが……。主モルドーグ様の御前を汚させるわけにはいかぬな」

 モルガスは舌打ちのような音を鳴らすと、ゆっくりと腕を下げ、再びヴィルへと視線を戻した。死神の瞳が、ヴィルを射すくめるように見つめる。

「……ネズミ、命拾いしたな。お前のその薄汚い顔、しかと覚えたぞ。次はいのちは無いと思え」

 モルガスは漆黒のローブをはためかせ、兵士を引き連れて穴蔵を去っていった。重苦しい圧迫感が消え、ヴィルはその場に膝をついた。

「はぁ……はぁ……っ」

 心臓が壊れたような音を立てている。そんなヴィルの肩を、強い力で掴む手があった。カイトだった。ヴィルを立ち上がらせようと手を貸しながら、彼は安堵を隠すように毒づいた。

「命拾いしたな、ヴィル。お前のそのお節介がいつか命取りになるって、言ったばかりだろうが」

「……ごめん、カイト。でも、どうしても体が動いちゃって……」

「謝るな。……無事だったなら、それでいい」

     *

 収容所に重苦しい夜が訪れた。

 ヴィルは、昼間に助けた老人のもとを訪れていた。老人はモルガスの威圧感に当てられ、腰を抜かした際に足を深く擦りむいていた。ヴィルは配給されたわずかな水を布に浸し、老人の傷口を丁寧に拭う。

「……若いの、済まないね。お前さんのおかげで命が繋がったというのに、手当てまでさせてしまうとは。この恩は一生忘れんよ」

「そんな、気にしないでください。これくらいしか出来ませんから。……明日も仕事があるんです、大事にしてくださいね」

 ヴィルは困ったように微笑み、謙遜してその場を後にした。

 その後、奴隷たちに配られたのは、カビの生えた硬いパンの一片、正体不明の干からびた肉、そして泥水のような飲み物だった。ヴィルはカイトと背中を合わせ、冷え切った床に座り込んでその食事を口に運んだ。

「……今日は危なかったな。それにしても、この不味い食事はどうにかならないのか。昔はたくさん美味しいものが食べられたんだが……家族のご飯が懐かしいぜ」

 カイトは泥水を飲み干し、吐き捨てるように言った。その声には、荒っぽさの中に消えない寂しさが混じっている。ヴィルも小さく頷き、遠い記憶を辿る。

「そうだね、僕も家族のご飯が食べたい。物心つく頃には離れ離れになっちゃったから、早く会いたいよ」

「そうだな。いつか元気に会えるように、今はこんなもんでもたくさん食べて寝るか。生きてなきゃ、会うことも叶わねぇからな」

 二人は冷たい床の上で身を寄せ合い、束の間の眠りに落ちた。

 明日にはまた過酷な強制労働が待っている。だが、静まり返った穴蔵の暗闇の中で、ヴィルはただ、いつか来る自由な日を願っていた。

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