名前という名の祈り
その女性は、凪いだ海のような静かな声で、俺に問いかけてきた。
「私はマテル・アステラ。この世界の行く末を見守り、散りゆく魂を星へと還す者。佐藤歩生さん……私は、あなたが歩んできた孤独な道のりを、その足跡のひとつひとつまでずっと見届けてきました」
アステラと名乗った女神は、慈しむような眼差しで俺を見つめている。
「今、あなたの前には二つの道が開かれています。
一つは、『安らぎの忘却』。今までの痛みも、重荷も、届かなかった願いもすべてをこの星空に預け、真っ白な魂となって、何も知らない幸せな新しい生へ赴く道。……もう、頑張らなくてもいいのです」
その言葉は、あまりにも甘く、魅力的だった。
三十年以上、必死に「正しい道」を探して、結局どこにも辿り着けなかった。疲れ果てた俺にとって、すべてを忘れていいという誘いは、何よりも救いに思えた。
――ああ、もう疲れた。もう、全部忘れてしまいたい。
そう言いかけて、不意に言葉が喉に詰まった。
脳裏に、記憶の断片が浮かび上がる。
それは現世の、ずっとずっと古い記憶。まだ自分が何も知らなかった、赤ん坊の頃の断片。
――歩生。あなたの名前は、歩生よ。
優しく抱きしめてくれる温もり。誰よりも自分の幸せを願ってくれていた、母親の震える声。
迷っても、悩んでも、自分の信じる道を歩んで――どうか、幸せに生きてほしい。
そうか。俺は、あんなに大切にしてもらったのに。
親孝行の一つもできず、自分の名前の意味すら果たせないまま、逃げるように死んでしまったのか。
女神が、静かに重ねて問う。
「どうしましたか? 何も持たず、光の中へ進むこともできるのですよ」
俺はゆっくりと顔を上げた。視界は涙で潤んでいたが、その奥にある瞳は、もう揺れていなかった。
「……俺は、行けない。忘れたままじゃ、行けないんだ。俺は親からもらった大事な名前の意味を、まだ何一つ果たせていない。生きる意味を見つけること……それが、俺にできる最後の、たった一つの親孝行なんだ」
俺の言葉を聞き、アステラは悲しげに、けれどどこか誇らしげに目を細めた。
「……それが、あなたの答えなのですね。楽園のような忘却よりも、苦難に満ちた『自分』であることを選ぶ。その強さを、私は愛おしく思います」
彼女がゆっくりと手を差し伸べると、周囲の星々が激しく脈打ち、俺の体を包み込んでいった。
「今のあなたには、世界を救う力も、運命を変える奇跡も授けてあげることはできません。私が贈れるのは、新しい体と、あなたが自ら選んだその意志を支える『器』だけ。……そして、新しい人生のための名前を」
白く塗りつぶされていく視界の中で、彼女は最後に、俺の魂に刻み込むように告げた。
「あなたの名は、ヴィタノール。灰の中を歩む、生きし者。あなたが捨てなかったその過去――灰のような後悔も、いつか必ず、あなたが幸せに生きるための土壌となるでしょう」
アステラの姿が光に溶けていく。だが、その声だけははっきりと俺の耳に届いた。
「忘れないで。あなたが手にするものは、時にあなたを苦しめる『呪い』となるかもしれません。けれど、その灰の奥に灯る小さな火種を絶やさない限り、いつかそれは世界を癒やす光へと変わるはずです。……私はいつまでも、あなたを見守っていますよ」
意識が遠のく中、彼女の慈愛に満ちた眼差しが胸に灯った気がした。
次の瞬間、猛烈な重力が全身を襲う。
目を開けた時、頬を撫でたのは優しい風ではなく、鼻腔を突く煙の臭いと、空から冷たく降り注ぐ『灰』だった。




