第八十四話 三方より火
天正十三年、六月。
奥羽の空は、不穏な熱気を孕み始めていた。
それは、炎の予兆。
静けさの裏で、刃を潜ませる者たちの気配があった。
◇
最初に動いたのは――東。
最上義光、出羽の雄が、伊達との国境・尾花沢にて突如、兵を動かした。
名目は「盗賊討伐」。だがその部隊は、なぜか密かに伊達の街道筋に軍を展開していた。
次に、西。
佐竹義重、関東と奥州の境を抑える“鬼佐竹”が、
南郷口の関所を封鎖。補給線を遮断し、伊達商人を次々拘束した。
そして、南。
蘆名盛氏が、白河口に火を放った。
駐屯地の仮陣が夜に襲撃され、黒煙が北の風に乗って広がる。
伊達領の東・西・南――
すべての“縁”が、まるで示し合わせたように、同時に火を吹いた。
◇
「三つの火は、すべて“別の言い訳”で立った火です」
小十郎が報告を読み上げる。
「最上は盗賊狩り。佐竹は交易の密輸摘発。蘆名は匪賊掃討……
ですが――それぞれの火点に、同じ紋章が記されていたと、黒脛巾が確認しました」
「“同じ紋章”?」
政宗が目を細める。
千代が、短く言った。
「仮面、です」
「燃えた倉の壁、襲撃された柵、関所の柱。
すべてに、黒く塗られた“鉄面”の印が残されていました」
政宗の指が、机を叩く。
「……それは、“黒塊”の残滓だな」
◇
黒脛巾・鷹森が、暗い声で語る。
「しかも問題は、火点そのものではありません」
「これら三つの地点は、いずれも伊達家の兵站と補給経路の結節点です」
「敵が“動くより前”に、それを突いてきた。
つまり、我らの軍備配置が――どこかから漏れていたのです」
静まり返る軍議の間。
政宗は、すっと立ち上がった。
「すでに“戦”は始まっている、ということだな」
「だが、刀ではない。火と、風と、“言葉”で始まっている」
成実が苛立ちを隠さず言う。
「なら、どこだ? 裏切ったのは、誰だ」
「家中か、商人か。あるいは……」
政宗が遮った。
「焦るな、成実。敵は、“人間”とは限らぬ」
「“情報”そのものが、いつの間にか“独り歩き”している」
「もしかすれば、“名”を知る者の言葉が、
どこかで“仮面”に拾われたのかもしれぬ」
◇
夜。
政宗は千代とともに、書院で地図を見つめていた。
「……すべて、“火が入りうる場所”を狙ってきた」
「ここまで読み切られていたとなると、
裏ではなく、むしろ“我らの思考”を知る者が動いている」
千代が口を開く。
「まさか、“かつて伊達にいた者”……?」
政宗は目を伏せる。
「“名を知る者”であれば、それが敵でも使える。
だが、“名を知られた者”は、常に燃やされる危機にある」
「この火は、“名を知った誰か”が引き金を引いた火だ」
「ならば、こちらも“火”で返すしかあるまい」
「だがそれは、“刃”ではない。“虚”を以って返す」
千代が目を細めた。
「つまり……“情報を餌にする”と?」
政宗は頷いた。
「動かねば、焼かれる。
だが、動くそぶりを“敵に読ませる”ことならば――こちらに主導権が残る」
「“本当の火”は、最後に見せればいい」
◇
その夜。
黒脛巾組が密かに動き出した。
偽の伝令、虚報の文、誤情報を記した兵站図。
それらが、まるで“本物”のように、それぞれの国境に撒かれていく。
政宗は静かに言った。
「火には火を。だが、“虚”には“嘘の炎”を」
「次に燃えるのは、敵の心だ」
◇
そして――
三日後、最上の野営地にて、謎の“裏切り情報”が流れ、同士討ちが発生。
佐竹軍の補給部隊が“伊達の策に嵌まった”と誤解し撤退。
蘆名軍は情報の錯乱により、軍を動かせぬまま“沈黙”。
“火”は三方より放たれたが――
燃え尽きたのは、“敵の疑心”だった。
◇
米沢城の屋上、朝の風に政宗が一人立つ。
「火を恐れては、生きられぬ。
だが、火の“匂い”を読めば、
こちらが風の向きを変えられる」
彼の背後には、もう仮面も影もない。
政宗という“名”の火は、
いまや火に飲まれることなく、
火を操る側に立ち始めていた。




