第五十五話 明眼房、揺らす言葉
月が頂を過ぎる頃、米沢城の奥にある一棟──かつて御台所・義姫の書見の間であった部屋に、
黒衣の僧・**明眼房**がひとり、蝋燭を灯していた。
その傍らに、静かに膝をつく影がある。
千代。政宗に仕える女忍にして、黒脛巾の筆頭でもある。
彼女は、その場に座る理由を知らぬまま、
ただ呼ばれるがままに、明眼房の前へと導かれていた。
「……用件を、お聞かせいただけますか」
「名を、問おうと思ってな」
明眼房の声は低く、土の底から響くようだった。
「名……?」
「“千代”というその名──そなたは、誰のために、それを持つのか」
千代は、瞬間、言葉を失った。
問いそのものが、静かに、しかし鋭く、
心の奥底をえぐる刃のように感じられた。
「……千代という名は、与えられたものです。伊達家に仕える影の者として──」
「では、そなたが“誰かに仕えるための器”であるならば。
その名に、そなた自身の意思はあるのか?」
蝋燭の火が、揺れた。
明眼房の言葉は、どこか“術”のようでさえあった。
聞く者の記憶を、価値を、根幹を──静かに崩していく、僧侶の呪。
「……殿のために、この身を使うこと。
それが“名”の意味であるなら、わたしはそれで……」
「それは、“他者の影”にすぎぬ。
そなたの名は、“他人の光”を受けて生まれただけのものか?」
「……っ」
千代の胸が、苦しくなる。
(“わたしの名”は、誰が決めた?
“わたし”は、誰のために生きている?)
幼いころ、名もなく育った自分を拾い上げ、名を与えてくれた政宗。
その背を守ると誓った日。
「影になりたい」と願った夜。
すべてが“誰かのため”であった。
だが──
「──いいえ」
千代は、唇を噛みしめながら、顔を上げた。
「この名は、殿のためだけのものではありません。
“わたし自身”が、生きたいと願い、選んだ名です」
「“影”であることを選んだのは、心から。
“名なき者”だったわたしが、“千代”として在ることに、誇りがあります」
蝋燭の火が、静かに照らす。
その瞳は、揺れていなかった。
明眼房は、沈黙を置いたまま、ただその姿を見つめていた。
しばらくして、彼はふっと目を細める。
「なるほど。
そなたは、“影”ではなく、“意志”の器であったか」
「意志?」
「名を持つことは、“己を決める”ことではない。
“己を生きる”と決めることだ。
そなたの名は、“生きる”ことに立っている。──それが“信”だ」
その時。
襖が静かに開き、政宗が姿を見せた。
「……千代」
「政宗様──」
千代が立ち上がる。
政宗は、彼女の様子を見て、小さく微笑んだ。
「お前の声が聞こえた。“千代”として、生きたいという声が──」
千代は目を伏せ、だが、顔は紅くなっていた。
「少し……揺れました。
でも、殿の影である前に、“千代”として、生きていたいと……そう、思ったのです」
政宗は、まっすぐに頷いた。
「ならば、それが“名”だ。
“誰かのもの”ではなく、“お前が生きるための言葉”──」
「……はい」
明眼房が立ち上がる。
「“心ある者の名”は、剣を越える力を持つ。
政宗殿の周囲には、それを支える者たちが、確かに育っているようだ」
政宗は、明眼房に向き直る。
「わしの“剣”は、もはや刃ではなく、“言葉”かもしれませぬな」
「そのときこそ、都が最も恐れるものだろう。
刃は止められても、“名と心”は封じられぬ」
僧は静かにその場を去った。
夜風が、障子を震わせる。
政宗は、千代の肩にそっと手を置いた。
「ありがとう。“千代”」
「……はい」
その名を、ふたりの間で確かに響かせる。
それはもう、“与えられた名前”ではなかった。
千代自身が選び、生きると決めた名。
“誰かの影”であることを超え、“ひとつの魂”として刻まれた存在の証。




