第五十四話 言葉の剣、再び
夜の帳が静かに落ちるころ、
米沢城の一隅──客人のために設けられた“月見の間”には、二つの影があった。
ひとつは、若き東北の当主──伊達政宗。
もうひとつは、都からの使者──九条雅実。
公家の身ながら、老獪さと美しさを併せ持ち、“都の知”そのものを纏う男である。
月の明かりが障子の隙から差し込み、
ふたりの輪郭を、ぼんやりと金色に縁取っていた。
「政宗殿。
今宵は、ひとつ“言葉”で交わしてみませぬか」
九条雅実は、茶を啜りながら言った。
「“剣”ではなく、“言葉”で?」
「都には、“言葉”こそが最も鋭い剣である、という思想がございますゆえ」
政宗はうなずき、口を開いた。
「良いでしょう。“言葉の剣”……受けて立ちます」
九条は、ほのかに笑った。
「では、まず私からひとつ。──政宗殿、あなたにとって“名”とは何ですか?」
静かだった。
蝋燭の火が、わずかに揺れる。
政宗は、答えた。
「名とは、“心が刻んだ形”です。
過去に誰が与えようと、それをどう生きるかで、その意味が変わる」
「ふむ。……面白い」
九条は扇を広げる。
「都では、“名”とは“家”のこと。
生まれた瞬間に与えられ、それを守り、それに殉ずるもの。
個の心など、付属にすぎませぬ」
「だから、人が壊れるのだ」
政宗の声が、月光よりも鋭くなった。
「“家”が壊れれば、“名”が失われ、“心”は何も残らぬ。
名が人を縛り、心を押しつぶす──その果てが、“黒塊”ではないのですか」
「……!」
九条の目がわずかに揺れた。
「なるほど。
そなたは、“名に心を宿す”と申すか」
「はい。心なき名は、ただの呪詛。
だが、心を込めた名は、人を生かす」
政宗は、右目の眼帯に触れる。
「わしの“政宗”という名も──ただの通り名でした。
だが、“政を正す”という心を宿してから、この名は“剣”になった」
九条は、口元をゆるめた。
「では、もし政宗殿。
“家”も“国”も“血筋”も捨てることになったとして……
それでも“名”を貫けますか?」
政宗は、即答した。
「むしろ、そのときこそ、“名”の意味が問われる」
「……」
九条雅実は、しばらく黙していた。
そして、ふいに扇を畳んだ。
「やはり、東北は恐ろしい。
“家”という根を捨て、“心”で立つなど──京では狂人の思想です」
「ならば、狂っていて結構。
“狂”の一字が、“志”を貫くための証ならば」
九条は笑った。
「政宗殿。
そなた、やはり“言葉の剣”を持っておられる」
「抜けば斬れますぞ。公家殿」
「怖い怖い」
九条は立ち上がった。
「さて、そろそろ……この“風の地”とも、お別れかもしれませぬな」
「都へお戻りか?」
「ええ。“仮面”の城がひとつ焼かれたことで、
都では、“新たな影”が蠢き始めておりますゆえ」
「ならば、わしも、行かねばなるまいな」
「そのときは、また一献交えましょう。
“心の名”を掲げて、都に立つその日を──お待ちしております」
九条雅実は、月を背に去っていった。
政宗は、その背を見送ったまま、静かに口にした。
「“名”は、血ではない。“名”は、魂の声明だ」
彼の手には、刀ではなく──
ひとつの“言葉”が、確かに握られていた。




