第五十三話 都の噂、東北の真実
「──都で、“名”を捨てる者が増えております」
その報せは、米沢城・北の隠し門から忍び込んだ一人の影によってもたらされた。
黒脛巾組の密偵、鷹森。
常に風と同じ速さで動き、影と同じ薄さで気配を断ち切る──政宗の耳に最も信を置かれる者である。
政宗は静かに椅子から身を乗り出した。
「名を捨てる、とは?」
「本名を語らず、“仮名”や“代名”で日々を生きる者が都で急増しております」
鷹森は懐から巻物を差し出した。
その中には、京の市井で密かに囁かれる“呪文”のような言葉が羅列されていた。
「名を持つなかれ、心を映すなかれ」
「言葉は封じ、姿は模せ。真は塊にあらず」
「名を壊せば、痛みは消える。過去も消える。己も消える」
政宗は眉をひそめた。
「……これは、“黒塊”の術ではないのか?」
千代が傍らで囁く。
「まるで、“記憶から自己を消す”ための呪……“生を仮面に預ける”ためのものです」
小十郎が、鷹森に問う。
「その流布源は、都のどこからか?」
「明確な“根”は不明ですが──ある寺社、あるいは公家の私邸の中で唱えられている気配があります」
「名門が?」
「はい。かつて武家や公家の屋敷で、夜な夜な無言の集会が開かれていると──」
政宗の拳が、机の上で静かに握られた。
「つまり、“黒塊の思想”は、東北だけの敵ではなかった……」
鷹森が頷く。
「さらに、もう一つ……気がかりな話がございます」
「申せ」
「都では、“名の呪詛”なるものが流行り始めております。
自分の名に“怨み”を乗せて囁くことで、体調不良や失踪を招くという“病”が広がっております」
「呪詛……?」
小十郎が息を呑む。
「それは……まさか、呪いというより、“自己否定”の術なのでは……?」
鷹森は静かに、巻物をもう一つ差し出す。
そこには、京の貴族や僧侶らしき者たちが記した“自己呪詛”の言葉が並んでいた。
「この名に生まれて、すまぬ」
「我は、我ではない」
「父の名を返したい」
「母の名に許されたい」
「名を消せ、名を消せ、名を消せ」
千代の肩が、微かに震える。
「これは……“黒塊の城”で拾った仮面兵たちと、同じ言葉……」
政宗はその場に立ち上がった。
「この“病”は、“心”を蝕む“名の破壊”だ」
「都そのものが、“黒塊の思想”に囚われてゆく──ということでしょうか」
小十郎の問いに、政宗は頷く。
「いや、もっと悪い。“黒塊”は、都の“構造”そのものを利用している。
“名に縛られ、名を奪い、名で争う”──都は元より、そういう場所だ」
千代が、震える声で口を開いた。
「では……私たちが“壊した”はずの“黒塊の城”は……ただの“支部”だった……?」
「“本山”は、都にある。あるいは、都そのものが“仮面の城”になりかけているのだ」
政宗は拳を握る。
「これは、“心の戦”だ」
その時、風が吹いた。
米沢の高台に立つ城の窓から差し込む風は、いつもと変わらぬ東北の風。
だが──政宗の中には、都の“重く乾いた風”が、確かに感じられた。
「わしは行く」
政宗がぽつりと言った。
小十郎が振り向く。
「どこへ、殿」
「都へ。──“名”の真の戦場は、そちらにある」
千代が、静かに笑った。
「では、また“戦支度”ですね。影もまた、共に参ります」
小十郎は言う。
「黒脛巾組、都潜入の準備に入ります。
“敵の顔”が見えぬ今こそ、我らの力が要る時にございます」
政宗は静かに頷いた。
「黒塊の“術”が、都に流れ込んだのではない。
都が、“黒塊”を受け入れたのだ」
政宗の右目──かつての“闇”が穿ったその眼窩に、
今は“信”の光が宿っていた。
それは、誰かの名を奪うためではなく、
“名を守るため”に戦う者のまなざし。
「名とは、魂の形式である。
魂が壊れぬよう、わしが立つ」
そう、政宗は静かに誓った。




