第四十五話 黒塊の文(ふみ)
夜の帳が落ちて久しく、山中に設けられた仮設の詰所には、息を潜めた者たちの影が集まっていた。
燈明一つ。仮面兵を捕らえた直後、その懐から見つかった“黒い巻物”が、今、政宗の眼前に広げられていた。
それは、まるで焼け焦げた獣の皮を無理やり伸ばしたかのような質感の巻物だった。
墨ではない、血とも煤とも違う黒褐色の液体で書かれた文字。
それは、見たこともない異形の筆致で、乱れもせず淡々と記されていた。
「……読めるか」
政宗が低く尋ねる。
小十郎が文机に正座し、巻物を手に取った。
彼の指が端に触れると、一瞬、紙がぴしりと音を立てた。
まるで“反応”するかのように、仄かに温度が伝わってくる。
「……これは……古代漢文……だけではない。ところどころに梵字……しかも、仏典にない形……」
「呪文か?」
成実が眉をひそめる。
「いや、もっと古い。呪詛……それも、“構築された意志”がある。詠まれるためではない。“刻まれる”ための文字です」
小十郎がさらに巻物を開き、ある一節を示した。
「ここです。“天照の裏に潜む、国の外典”──と」
「……国の……外典?」
政宗が繰り返した。
「“外典”とは、正しき教えに含まれぬ、裏の文。秘伝、もしくは禁忌の思想を記すものです。
天照──つまり皇祖の表にある教義の“裏側”に、それがあると記されている」
千代が言葉を継ぐ。
「陰陽道においても、仏法においても、外典とは“禁書”を指します。ですが……この文体、宗教的体系に属していない。これは、何か……別の思想体系に基づいている」
「つまり──」
小十郎がゆっくりと口を開いた。
「これは陰陽道、否……密教とも異なる、“異なる力”です。
この巻物は、教義ではない。思想そのものを“操作”するための器」
政宗は、黒い文字の並ぶ巻物を見下ろした。
そこには、言葉にならぬざらつきがあった。
読んだだけで、心の奥に棘が刺さるような、理解すればするほど削れていくような感覚。
「“黒塊”とは……ただの名ではないな。思想そのものだ。“魂を塊に戻す”……それは、意志の解体だ」
成実が拳を握る。
「つまりあの仮面兵たちは、自らの心を捨て、この“文”に記された何かに従っている……操られている?」
「自ら進んで、だ」
千代の声は震えていた。
「この“文”に書かれた最後の一節に、“選ばれし者、名を持たずして塊に還る”とあります。
自我を“捨てる”ことが救いであるかのように記されている」
政宗は言った。
「それはつまり──“生きている”のではない。生かされている、でもない。“命の器”として存在しているだけだ」
室内が静まり返った。
炎の揺れる音すら、遠のいたように感じられるほどに。
「この戦……すでに“兵”の範疇ではない」
政宗の言葉は、空気を切り裂いた。
「これは、兵法でも、軍略でも、宗教でもない。“意志を殺すための技”だ。
そしてこの巻物は──それを実現する“文”だ」
小十郎が立ち上がり、巻物を丁重に封じた。
「この文は、扱いを誤れば我らの誰かが“塊”に堕ちます。殿、これ以上の解読は、慎重に……」
「分かっている」
政宗は巻物から視線を外さず、呟いた。
「しかし、知るしかない。“黒塊”の中核が、“命”をどう扱っているか。
それを知らねば、この先──“何を守るか”も決められぬ」
千代が静かに一礼した。
「殿の言葉こそ、我らの“意思”です。黒塊が心を殺すならば──我らは、心を繋ぎ、立ち向かうのみ」
「そうだ」
政宗の声が力を帯びた。
「敵が“名”を奪うなら、我らは“名”を守る。敵が“魂”を縛るなら、我らは“魂”を解き放つ」
炎がぱちりと音を立てた。
“黒塊”──それは敵の名であり、思想であり、そして命に対する侮辱だった。
ならば、独眼の龍は、戦う。
「わしが斬るのは、影ではない。“この世に不要な思想”そのものだ」
その夜、巻物は封じられた。
だが、政宗の心には新たな火が灯っていた。
それは、剣では届かぬ敵に挑む覚悟。
命という尊厳を賭けた、思想との戦の始まりであった。




