第四十四話 仮面の声を聞く
霧の城を取り囲むように、黒脛巾の影が忍びを巡らせていた。
潜伏三日目の夜。
その者は、ひとり、谷を下りる仮面兵を捕えた。抵抗はなかった。否、あまりに無抵抗だった。
「抜け殻のようでした」
報告に現れた鷹森の声は、いつになく低かった。
「抵抗も逃走もせず。ただ、同じ歩幅で、同じ道を、同じ方向に歩いていた。まるで──“思考”というものが、無いかのように」
政宗は沈黙したまま、目の前の男を見つめていた。
捕らえられた“それ”は、縄に縛られてもなお、まったく動かなかった。
鉄でできた仮面を被り、武具は簡素で、紋章や出自を示すものは一切無い。
仮面の隙間から見えるのは、乾ききった唇と、虚ろな瞳。
「名は?」
返答は、なかった。
「聞こえているか?」
やはり、反応はなかった。
千代が一歩前に出た。
「殿。今一度、試してみてもよろしいでしょうか」
政宗がうなずくと、千代は巾着袋から小さな香炉を取り出した。
鉄でできた精巧な細工の香炉に、淡い粉末を詰め、火打ち石で火を入れる。
青白い煙が立ち上り、仮面兵の顔の周囲に広がっていく。
「これは“真言香”です。意識の深層に潜る補助となります。
人の言葉に反応せずとも、香に宿った記憶が反応を引き起こすことがあります」
仮面兵は、微動だにしなかった。
だが、時間と共にその肩が僅かに震えた。
目が、わずかに見開かれたようにも見えた。
千代は、静かに語りかけた。
「あなたの名は? どこから来たの? 何を見てきたの?」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
だが──その時、確かに口が、動いた。
かすれた声、音にならぬほどのささやき。
だが、千代には、聞こえた。
「……く……こっかい……」
政宗の眉が動いた。
「もう一度だ。何と言った?」
仮面兵の唇が、再びわずかに開く。
「……黒……塊……」
喉が鳴った。
「……わが……たましいは……塊のもの……」
それだけだった。
その後、仮面兵は完全に沈黙した。
千代が香を止め、鷹森が頷いて腕を拘束し直す。
政宗は、仮面の奥にある“何か”を見ていた。
「……自我を、奪われている。いや、捨てさせられているのか」
小十郎が低く問う。
「まるで、“器”であるかのように……」
政宗は静かに頷いた。
「人の形をしながら、人でなくされる。
命を奪うよりも、残酷なやり方だ。
心を潰し、意志を抜き、“命”だけを操る──これは、戦でも兵法でもない」
千代が苦しげに口を開いた。
「この者、恐らく“術”に囚われています。
記憶の層が断絶している。断片の言葉しか発せないということは、脳の一部を“縫われた”ような状態にあります」
「だが、誰が?」
成実の声が鋭くなった。
「誰が、こんなことを……」
政宗は目を閉じ、深く息を吐いた。
「“黒塊”……その名を語る者が、“魂を塊に戻す”という思想を持つのなら……」
彼は、呟くように言った。
「その者は、“命”を“所有物”と見ている。
“人”ではなく、“構成要素”として扱っている……」
誰もが、言葉を失った。
仮面兵は、今もなお膝をつき、顔を上げることなくじっとしていた。
その姿は、もはや“人”ではなかった。
自らの意志を持たず、ただ“黒塊”という存在に従う器。
「これが“影の軍”の正体か……」
政宗は、怒りではなく、深い憐れみを帯びた目で、それを見た。
「名を奪われ、心を縫われ、命さえ“他者”に明け渡した者たち──
こんなものを“戦”と呼ばせてはならぬ」
政宗の拳が、膝の上で静かに震えていた。
その夜、仮面兵は鷹森の指示で霧の深い谷に仮留置された。
政宗は、静かに独り言のように呟いた。
「……黒塊よ。貴様は“影”ではない。“災厄”そのものだ。
そしてこの“災い”は、やがて奥羽だけでは留まらぬ……」
独眼の龍は、遠く、まだ名も知らぬ敵の顔を見据えようとしていた。




