第三十八話 政宗、密かに出陣す
夜明け前の米沢城。
城下の空にはまだ星が残り、世界は濃い蒼に包まれていた。
その静寂の中を、わずかに足音が響く。
鉄の衣も、旗も、太鼓もない。
ただ、絞り抜かれた三十の兵と、黒脛巾組。
風を裂く気配だけを纏って、政宗の密やかな出陣が始まっていた。
城の裏門。
朝霧にまぎれ、集った兵たちの前に、政宗が姿を現す。
黒い羽織に身を包み、右目には常の黒眼帯。
腰の太刀は、輝宗より受け継いだもの。
その表情に、もはや少年の影はなかった。
「……この出陣に、大義名分はない」
兵たちは息を呑んで政宗を見上げた。
「敵の正体すらわからぬ。
だが、村が焼かれ、民が泣いた。その現実だけが、わしの“義”となる」
政宗は、ゆっくりと太刀に手を添える。
「この剣は、怒りで振るうものではない。
復讐でも、感情でもない──“信”を刻むために抜くのだ」
「それができぬなら、伊達の名など要らぬ!」
小十郎、成実、黒脛巾組の頭・鷹森、そして選抜兵たちが、深く頭を垂れた。
政宗は無言のまま、裏門を越え、南へと馬首を向ける。
だが──
その行列の影に、ひとり紛れていた者がいた。
「──まさか、黙って出ていくとは思いませんでした」
夜露に濡れた草影から、千代が姿を現した。
浅葱色の野戦装束。手には短刀と、小ぶりの薬籠。
「千代……何を──」
「黙って行く男を、黙って送り出す女ではありません。
それに、私にも“伊達の女”としての役目があります」
政宗はため息をついた。
だが、目の奥には微かな安堵が宿る。
「父上に叱られるぞ」
「ええ。帰ったらきっと三日は口をきいてくれません。
──ですから、“帰る理由”を作っておかないと」
政宗は、ふと表情を崩し、苦笑を浮かべた。
「勝つまで帰らぬつもりだったが……
そなたが来るなら、“帰る”道も、考えねばなるまいな」
「……では、勝って帰りましょう。二人で」
その言葉に、政宗は深く頷いた。
月が雲を抜け、静かに地を照らす。
政宗は、馬にまたがると前を見据え、低く号令をかけた。
「──出陣」
その声は静かだったが、確かに夜の奥へと響いた。
誰にも知られぬ密やかな出立。
しかし、その一歩は、戦国の“闇”に火を灯す最初の一撃であった。




