第三話 熱と痛みの夜
夜は、突然その牙を剥いた。
それは、春の風があまりに穏やかだったその翌日のこと。
城下の山々には早くも若葉が芽吹き、空気にはほのかな土の匂いが混じっていた。
だが、その平穏を打ち破るかのように、悲鳴が響いたのは夕餉の支度が整う頃だった。
「梵天様が! 熱を! 高熱を!」
喜多の声が城中を駆け抜けた。
小袖も乱れたまま、彼女は奥の寝所へと走る。
千代はその後を追い、部屋の襖を開け放った。
「梵天様!」
布団の中に、苦悶の表情を浮かべた幼子が横たわっていた。
顔は真っ赤に腫れ、額からは玉のような汗が滲み、唇は震えていた。
「か……あつい……目が……」
千代はその瞬間、言葉を飲んだ。
右目が、赤く充血していた。
まぶたが腫れ、涙のような膿がにじんでいる。
「熱だ。尋常ではない」
喜多が脈をとり、すぐに冷水を持ってくるよう命じる。
「目を……目を取ってくれ……見えぬ、見えぬのに、痛いのじゃ……!」
梵天丸が叫んだ。
その声はあまりに痛々しく、千代は胸を掴まれたような衝撃を受けた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶじゃ。わしがそばにおる」
小さな手を握る。熱く、焼けるようだった。
「千代……どこに、いる……? なぜ見えぬ……?」
「ここにおります、梵天様。すぐそばに」
(こんなにも、頼られているのに……私は、何もできない)
千代は悔しさに唇を噛んだ。
忍びとして、人を守る術を学び始めていたはずなのに、いざというとき、できることがない。
「医師を呼びます!」
喜多が声を張る。
だが、この熱。この目の腫れ。この症状──
「まさか、これは……疱瘡……」
侍医の声が震えた。
「天然痘じゃ!」
その夜、城中は騒然となった。
隔離、祈祷、薬湯──あらゆる手が尽くされたが、熱は下がらず、目の腫れはさらに酷くなった。
喜多は食事を摂らず、ずっと傍にいた。
千代もまた、汗を拭き、冷布を変え、静かに梵天丸を見守り続けた。
「……わしは……龍に、なれぬのか……」
うわごとのように、何度もつぶやいた。
「目を失えば、……誰も、……ついては来ぬ……」
千代はそのたび、そっと彼の額に触れた。
「失っても、殿は殿にございます」
心の中で、何度も唱えた。
(どれほど強くなっても……この方はまだ、たった六歳の子)
数日後、医師が診断を下した。
「……右目の視力は、戻らぬであろう」
その言葉は、城中を凍らせた。
梵天丸は昏々と眠り、返事をしなかった。
千代はただ、その横顔を見ていた。
その顔から、あの無邪気な笑顔は消えていた。
「……殿……」
彼の右目に宿った炎は、いま、試練の闇に包まれている。
だが千代には分かっていた。
その闇の奥底に、かすかに、龍の咆哮が残っていることを。
夜が明ける。
かすかに目を開いた梵天丸が、静かに呟いた。
「……千代。もし、わしが……龍になったら……」
「はい」
「おぬしは……その影で、笑ってくれるか」
「……はい。何度でも」
千代の声が震えた。
「なら、わし……もう、泣かぬ」
その言葉は、かすかだったが、確かに誓いだった。
そして、それは“隻眼の龍”という伝説の、最初の一歩でもあった。