第二十話『出仕一ヶ月記念──わし、まだ死んでないがね』
月が満ち、清洲に上がってちょうど一ヶ月が経った。
日吉丸は縁側でぼんやりと空を仰いでいた。
「……はぁ〜……あっという間やったな……」
草履を温めて、女装させられて、茶を淹れて、ラブレター渡されて、側室候補にロックオンされて──。
「……よう、まだ生きとるな、わし」
しみじみと呟きながら、頭を掻いた。
「あかん、ほんまに命が何個あっても足らんがね……」
──そんな夜だった。
ふすまが、すっ……と音を立てて開いた。
「日吉丸……起きとるか?」
ねねだった。
薄灯りに照らされたその顔は、いつになく柔らかく、けれどどこか覚悟を決めたような眼差しだった。
「ど、どうしたんや? 夜更けに……」
「……話、ある」
言葉少なに、ねねは畳の上をすり足で近づき、日吉丸のすぐ横にちょこんと座った。
「……なんや、改まって」
「一ヶ月、頑張ったな」
「へっ?」
「草履も掃除も、信長さまの茶会も……よう頑張った」
「ね、ねね……?」
その言葉だけで、胸がじわっと熱くなる。
「わし、なんもできんかったのに……なんや、ねねに言われると……沁みるやて」
ねねはにかみながらも、すっと小さな手を伸ばし、日吉丸の布団の上に添えた。
「──ちょっとだけ、横になってもええ?」
「はぁ!? な、なに言うとるんや!? ここ、わしの寝所やで!? 女の子がこんなとこ──」
「黙ってて」
ぴしりと一喝され、日吉丸はすごすごと布団の端に縮こまる。
その隣に、ねねがそっと横たわった。
「……あんた、どこまで出世してもええけどな」
「うん……」
「帰る場所、忘れとったらあかんで」
その一言が、日吉丸の心に深く染みこんだ。
「……ねね。わし、忘れへん。あんたの作る味噌汁の味も、お鈴の笑顔も、あの川べりの桜も……全部や」
「ふふ、そないに言うて……ほんま、信じとるからな」
ねねは、そっと日吉丸の手を取った。
夜の静けさのなか、ふたりの手が重なる。
「わし、ほんま……なんでこんなにモテとるんやろな……」
「知らん。あんたがアホで優しすぎるからや」
「褒められてるんか、けなされてるんか、わからんがね……」
けれど。
その夜、日吉丸の胸の内には、ひとつの確かな温もりが灯っていた。
──天下なんて、まだ遠い話。
けれど、守りたいものがあるから、前に進める。
そんな夜だった。




